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第343話 神の誘い

「すげぇな……神の社に来るのは初めてって訳じゃねーが、ここまで立派なのは俺もお目にかかった事がねぇぜ。……なんだか落ち着かねぇな」


 小さな、と言っても普通の猫の姿になった猫田が、狛の腕の中で興味深そうにキョロキョロと辺りを見回し、尻尾を揺らしている。何故この姿になっているのかと言えば、それにはいくつかの理由が重なっていた。愛媛から走りづめで体力と霊力を使い切った所で、拍の四犬天陣を壊そうと無茶をし、トドメに狛が結界を破壊した余波をモロに食らったのだ。並の妖怪なら、力尽きて死んでしまってもおかしくないはずなのだが、変化が出来なくなっているだけで済んでいるのはさすがである。


 狛達は現在、荼枳尼天狐だきにてんこに連れられて、神域の中に建てられた宮の中を歩いている。先頭は荼枳尼天狐だきにてんこでその後ろに狛と猫田、そして拍も、狛を睨みながら後からやってきた弧乃木と行動を共にしていた。


 狛と拍の壮絶な兄妹対決に、荼枳尼天狐だきにてんこが割って入った直後、ささえ隊の隊員達が密かに呼んだ応援として弧乃木がやってきたのは幸運だった。何しろあの場にいた第五班の班長、真護は狛の力を目の当たりにして恐慌状態に陥ってしまっており、とてもではないが判断を下せる状態ではなかったからだ。他の隊員達も同様で、彼らには責任者すらいない。その為、弧乃木率いるささえ隊第一班が駆け付けたのである。


「…本当に凄いね。綺麗だし、空気もとっても澄んでる。…でも、なんだろう?何かちょっと違和感がある、ような……」


 猫田の呟きを受けて、それまで浮かない顔をしていた狛も正直な感想を口にした。この宮は静かで、荘厳という言葉をそのまま形にしたような雰囲気が漂っている。まさに清澄な空気とはこのような状態の事を言うのだろう。宮の外に整えられた純和風の庭園も見事という他ない立派な佇まいだ。しかし、狛の言う通り、ここにはが足りない…そんな違和感があった。


「この神域に妖怪が立ちいることも本来ならあり得ないことです。私もミタマ様に仕えて長いが、これは異例中の異例ですよ」


 前を歩いていた荼枳尼天狐だきにてんこが凛とした声で答える。そう大きな声で話していたつもりはなかったが、これだけ静かな場所ではしっかり聞こえてしまったらしい。まるで美術館のような場所で騒いでしまったような気になり、狛は少し小さくなって、すみません…と力無く謝罪している。

 そんな狛達を睨みつけているのは、拍である。どうやら先程の結果に納得がいっていないようだが、流石に神域でいざこざを起こすつもりはないらしい。間に弧乃木を挟んでいるのも理由だろう。狛に何かしようとすれば、間違いなく弧乃木が制止するはずだ。


 (何という目で妹を見ているんだ…聞いた話ではとても仲むつまじい兄妹だったはず。一体、この二人に何が……)


 憎しみすら感じる拍の視線に、弧乃木は疑問と空恐ろしささえ感じている。以前、狛から聞いた兄妹の様子はこんな刺々しいものではなかったはずだ。むしろ、拍は狛を溺愛する過保護な兄という印象だった。それが今は、まるで不倶戴天の敵を見ているかのような視線を向けているのだから異常と言って差し支えないだろう。事情の解らない弧乃木には全くの謎である。


 解らないと言えば、先頭を歩いている荼枳尼天狐だきにてんこと言う女性もだ。


 そもそも荼枳尼天だきにてんとは、インド神話でダーキニーと呼ばれた鬼女のことである。

 かつて、ダーキニーは空を飛び、人を襲っては喰らう恐ろしい怪物だったのだが、ある時マハーカーラ…即ち大黒天に負けて改心したといわれている。その後、仏教に取り込まれて伝来する過程で、ダーキニーは荼枳尼天と言う天族のひとつとなった。天族とはつまり、仏教における神である。そういう来歴も手伝ってか、過去には日本でも荼枳尼天を神と崇めた宗教もあったようだ。ちなみに荼枳尼天は白い狐に乗った姿で現れる女神として描かれている。彼女が荼枳尼天狐だきにてんこと名乗り、稲荷の主神である宇迦之御魂神ウカノミタマと繋がりがあるのは、そのせいなのかも知れない。


 しばらく廊下を道なりに歩いて辿り着いた先は、それまでに通った部屋とは意匠の違う豪華さの部屋だった。その部屋からは襖の外からでも解るほど、途轍もなく強力な神気が感じられる。この部屋の中にいるのは、間違いなく主神級の神だろう。眩暈がしそうなほどの神気に中てられながらも、狛達は襟を正し荼枳尼天狐だきにてんこの後ろに続いて正座をする。


「ミタマ様…犬神の一族と、猫又。それと人間の代表者をお連れしました」


「……よろしい、入りなさい」


「はっ、失礼致します」


 許しを得たので、荼枳尼天狐だきにてんこが襖を開いて先に室内へ入る。狛達もその後に続いて、頭を下げながら静々と入室した。王者の威とでも言おうか、その凄まじい存在感のせいか中々頭を上げられない。それは狛だけでなく、弧乃木や拍でさえも同じなようだった。唯一、狛の腕の中にいる猫田だけは、猫らしいそのクリクリとした丸い瞳でじっと正面を見つめ続けている。


「よい、皆頭を上げなさい。こちらが無理を言って呼び立てたのです、畏れる事はありません」


 優しいその声と言葉は、狛達の心に圧し掛かっていた威迫を、少し和らげてくれたようだ。心にほんの少しの気合を入れ、狛はその顔を上げた。するとそこにいたのは、先程から感じ続けている凄まじいまでの神気や威迫とは全く無縁の、小さなかわいらしい少女がちょこんと座って、こちらを見つめていた。


「か、かわいい……!」


 思わず狛の口を吐いて出た言葉がそれだったのは、仕方のないことだった。古い木像で伝わっている宇迦之御魂神ウカノミタマは、ふくよかな大人の女性だが、目の前にいる実物はとても愛らしい少女そのものである。目鼻立ちははっきりとしているが、優しげな雰囲気を纏っていて、どこから見ても整った美形の顔形だ。流石は女神というだけのことはあると言っていい。

 また、その身に纏っているのは、十二単とまでは言わないもののとても豪華で鮮やかな、朱色が主体の着物だ。そのあかが彼女の白い肌によく合っていて男女問わず溜息が出るほどの美しさだった。そんなかわいらしいとしか言えない少女の姿から、これだけの力を感じる事がどれだけ異常な事なのかは、緊張しきった拍や弧乃木の顔を見れば一目瞭然と言った所である。


 しかし、かの宇迦之御魂神ウカノミタマを前にしてその感想が出るのは不敬が過ぎるのか、荼枳尼天狐だきにてんこは眉をひそめて、狛に抗議の視線を送っていた。何も言わないのは、主である宇迦之御魂神ウカノミタマの前で怒ったり暴れたり出来ないからだ。


「ふふ、そうですか?やはり、人の子に好かれて慕われるのは悪い気がしませんね。これは良いものです」


「ミタマ様……!」


 荼枳尼天狐だきにてんこからすれば、もっと怒っても良いと言いたい所なのだろう。それでも主に対して強く言えず精一杯の抗議を込めてその名を呼んでいる。どうやら宇迦之御魂神ウカノミタマという女神は、人に対して甘い所があるらしい。元来、日本の神々はハチャメチャな所も多いが、往々にして人を好ましく思っている存在が多いようだ。もちろん、度を越した不敬を働けば烈火の如く怒るだろうが、そうでないならば彼らは割合、人間の近くにいて人と接する事が多い。それは地域の祭や日本の神話などを見ても解るだろう。


「荼枳尼、そう怒らなくてもよいでしょう。この宮に人間が来ることなどほとんどないのですから、少しくらいは気安くしても構わないではありませんか」


「…いくらなんでも威厳というものが無くなります。ミタマ様はこの国の狐や稲荷の主なのです、人が気安く接してよいお方ではありません。そもそも……」


 そのまま、主である宇迦之御魂神ウカノミタマに対し、荼枳尼天狐だきにてんこはお説教を始めてしまった。狛達はその空気に飲まれてどうしていいかも解らずに、叱られて小さくなった宇迦之御魂神ウカノミタマの横で、ただひたすらそのお説教を聞かされ続けるのだった。

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