『クソ、全然捕まえられねぇ…母者がいないだけで、オレは……ああ、腹減った…』
白狼が出かけてから、三日…空は一人、森の中で獲物を探して彷徨っていた。幸いなことに木の実や果物、それに食べられる草花も豊富な為、すぐに飢え死ぬような心配はなかったが、そこは成長期の男子である。主食となるようなものが無ければ、空腹は治まらないだろう。白狼が居る時は、ウサギ狩り程度なら余裕で成功出来ていたのに、空が独りになってから、成功する様子は微塵もない。
実のところ、それは空の強すぎる殺気によるものが大きい。空は元々身体能力のみならず霊力も非常に高く、優秀な才能を持っていたのだが、頼れる母である白狼が居なくなったことでそれを隠す余裕がなくなってしまったのだ。要は、殺気立ちすぎているのである。
野生の生き物にとって、その強すぎる殺気は、匂いや物音よりも鋭敏に周囲へ存在を知らしめるものだ。今やこの森の中で、空の存在に気付かない動物は一匹もいない。そんな状態で狩りなどうまく行くはずもなく、空はどんどん負のスパイラルに陥ってしまっているのだった。
『もう蛇だっていいから何か肉が食いたいぜ……ん?なんだ?何かヘンなニオイがする…あっちからだ』
ちなみに空は蛇が苦手だ、もう少し幼い頃に白狼が仕留めた蛇を食べようとした際、首だけになっても反射で噛みついてきたのがトラウマになっているらしい。そんなものですら食べたいと思う程、空は追い詰められているのだが、風に乗って漂ってきた匂いが気になって、空は重い身体を引きずりつつ匂いの元を探り始めた。
『あれは……人か?前に見た奴と何か違うな、小さくて、柔らかそうだ』
しばらくして、空が見つけたのは彼と同じ年頃の少女であった。物陰から隠れて見ている空には全く気付かず、大木の前で手を合わせて何かを祈っているようだ。一瞬、空はこの際人間でも…と思ってしまったが、やはり人相手では食指が湧かないのか、仕留めるのは止めにした。その代わりに、少女が何をしているのかが酷く気になるようである。
『人は、カミに祈りを捧げるって母者が言ってたな。……そうか、母者が言ってたカミってのはそれのことか!…じゃあ待てよ、アイツは何に祈ってるんだ?そんなとこに母者はいないぞ』
神というものがよく分かっていない空は、ここで祈りを捧げるということが白狼への祈りであると判断したらしい。だが、白狼は今、出かけていてこの森にはいない。一体どういうことなのか理解出来ない空は、じっとその少女の行動を見つめている。
『…様、どうか……に……と、こうふ…を、そして願わくば……』
少女は手を合わせながら、一心不乱に祈りの言葉を呟いている。空の強い視線すら全く感じていないのは、彼女は今、極度に集中し一種のトランス状態に入っている事を意味していた。そして、数十分の時が流れ、少女は祈りを終えて、獣道を下っていった。後に残された空は、その少女の姿が気になって空腹を忘れ、ただその場から動けなくなっていた。
それから数日が経ち、空は段々とその少女の来るタイミングが解るようになったようだ。少女は時間こそまちまちだが、毎日のように森に入っては祈りを捧げ、帰っていく生活を繰り返している。一方の空は、その少女に気取られぬように自らを落ち着かせる事を覚え、狩りを成功させられるようになっていたのだが、飢えは凌げるようになっても少女の目的などは解らない。それがどうしても気になって、仕方なく空はその少女が森に入る度、じっと物陰から観察しているのだった。
『…様、どうか……』
『アイツ、何て言ってるんだろ?…どうも母者の名前じゃなさそうだけど、この森には、母者とは違うカミがいるのか?……アイツと話をしたら、何か解るのかな…でも、人だし……』
こう見えて、空は人を恐れている。これまでに森の中で遊んでいる時、空は何度か人間と接触した事があったのだが、彼らは空のずば抜けた身体能力を見ると恐れをなして逃げ惑うか、酷い時には石を投げたりしてくる。人間達からすれば、子どもに見えてもあり得ない能力を持つ空は、怪物の類いに見えているのだろう。結局、お互いに解り合えず、接触しないことが不文律のようになっていた。しかし、空が出会った人間は大人達ばかりで、あの少女のように同じ位の歳の人間をみるのは初めてだった。もしかしたら、友達になれるかもしれないと空が考えたのは、母である白狼がいなくて、寂しかったせいだろう。
その日は結局、話し掛けることは出来なかったのだが、空は日に日に、少女への想いを募らせていった。
更に数日が経過し、すっかり空が少女の祈る様子を観察するのが当たり前になった時の事だ。その日、少女はずいぶんと遅い時間に祈りを捧げに来ていた。あと一時間もしない内に夜の帳が降りる…子どもが独りで森に入るには危険な時間帯である。その日も空は少女の祈る様子を眺めていたが、いつもより時間が遅い事もあって、少女のことが心配になってきた。ここは森の中でもそこそこ深い場所になるので、暗くなれば獣達の縄張りになる。相変わらず話しかける勇気は出ないものの、放っておく気にもなれなかった空は、少女が祈りを終えた帰り道を、コッソリついていくことにした。
『母者は森から出るなって言ってたけど、森を出る前までなら、大丈夫だろ。……アイツ、オレがついてったら、怖がるかな?』
空の脳裏に、過去に出会った人間達の恐れる顔が浮かんでくる。空の見た目は子どもなのに、猿よりも速く木々を飛び移り、熊よりも力が強い、それはまさに鬼や天狗の化身と誤解され得るものである。決して見せつけるつもりはなかったが、数年前、熊に襲われそうになっていた旅人を助けた時は、旅人は凄まじい恐怖を全面に押し出した表情で空を見ていた。あれは空にとって、忘れられないほどのショックであった。あの時、自分は人に受け入れられない存在なのだと、漠然と実感したのを覚えている。
それでも空は、あの少女なら違うのではないか?という希望を捨てられなかった。それが、空にとって最悪の結果を招くと解っていれば、この時ついて行こうとは思わなかっただろう。
足早に獣道を通り抜け、少女は山を降りていく。何度もここまで入ってきているだけあって、少女は深い森にも慣れているようだ。空からすれば遊びにもならない速さではあるが、森や山に慣れていない人間なら、ついていくのは厳しいだろう。そのままもうすぐ森を抜ける…そんな時だった。
突如、森の一部が拓けて、数件の家が立ち並ぶ小さな集落が現れたのだ。最も、どの家も簡素な造りで、現代から見れば掘っ立て小屋のような粗末な建物ばかりだが、時代を考えれば上等だろう。一体いつの間に森に手を入れたのだろうか。白狼がいればもっと早く気付いて止められたのだろうが、空にはそれほどの力はない。初めて見る人間の家に圧倒されながら、空は恐る恐る、その中でも一番大きな家に近づき、窓から中を覗いてみた。
『な、なんだ…ありゃ……!?デッケェ芋虫だ…あれが、アイツらの言うカミ、なのか?』
その家の中央には、仰々しく作られた白い祭壇があり、その周りには、十数人の大人や子ども達が円を描くように囲んで一心不乱に祈っている。その祭壇の中央にあるのは、大きな芋虫の形をした石像であった。そして、石像の隣に立っていた恰幅のいい年輩の男が両手を大きく広げて大きく叫ぶ。
『よいか、皆の者!我らに幸福をもたらす神――
『オオオオオオオオオッ!!』
『な、なにを言ってるんだ、コイツら……!?』
初めて見る大勢の人々と、宗教への熱狂的な空気、そして何よりも禍々しく邪悪な気配に気圧されて空は完全に怯えてしまっていた。その上、彼の目に飛び込んできた恐ろしい光景が、空を襲う。
『儂はこれより、最も大事なモノ――我らが
『はい、
そう言うと、森で祈りを捧げていた少女――ミヨは、短刀を取り出して己の首に押し当てた。
『なっ、よ…止せ!止めろぉぉぉっ!!』
『何奴!?』
空は我を忘れて窓から家の中に飛び込み、ミヨの凶行を止めようと試みた。しかし、ミヨの決意は固く、また、顔も知らぬ空の呼びかけになど応じるはずもない。ミヨは空の目の前で短刀を首に突き刺し、大量の血を吐き流して血だまりの中へと沈んでいった。それを目の当たりにしてしまった空は絶叫し、余りのショックの為に、そのまま気絶してしまったのであった。