白狼が空を置いて、
『よう!大口の!しばらく見なかったが今年は参加か?』
そう言って近付いてきたのは、白狼と馴染みのある土地神である。大口真神は全国に数か所、祀られている神社があり、彼はその内の一つの傍にある湖の神だ。如何にも好々爺と言った姿の彼は大変に釣り好きで、常に釣り竿を持ち歩いており、時には恵比寿という神と釣りをしに行く仲だという。なお、恵比須は七福神に数えられるあの恵比須様だが、この当時の人々の間ではそれほど重要な神として崇められてはいなかった。七福神がメジャーな存在になったのは江戸時代の頃である。
『ああ、この所忙しかったのが、ようやく少しは目を離す余裕が出来たのでな。そちも相変わらずなようじゃの』
『うむ!釣りは良いぞ。人間達の営みの中では特に重要じゃによってな。やはり、人は
そもそも狩猟民族ではないこの国の人々にとっては、農耕こそが日々の糧を得る重要な手段である。しかし、それ以外の栄養も摂らねばならないのは当然のことだ。現代とは違って大々的な漁業は確立していないが、その分、彼のような神の加護は人間の暮らしに重要な役割を持っているのだろう。
『そう言えば、
『おお、あやつなら奥之院の方におるぞ。しかし、あれも神となって三百年近くになるか……昔はかわいい狐の子だったというのに、若くして偉くなったものよなぁ』
『あの子は優秀じゃったからな、この先もっともっと大きくなるであろうよ。…どれ、行って来ようか』
そう言って、白狼は湖の神と別れ、奥之院へ向かった。この二人と
白狼が他の神々を避けながら奥之院に向かうと、ちょうどそこでは
『大口真神、お久し振りです。今年は参加なされるのですね、
『ああ、久方振りじゃ。と言ってもたった八年かそこらの話……あっという間じゃったがの。あの子はもう九つじゃから、そろそろ私がおらんでも生きて行けるようになってもらわねば困る。私ら獣からすれば、人の成長は遅うて敵わぬよ』
白狼は
『人が成熟するには、十五年はかかると聞きますよ。あと六年…今は独り立ちにはまだ早いのでは?』
『ううむ……やはりそう思うか?確かに、あの子はまだ身体も小さいが…早く帰ってやるべきかな』
『その方がよろしいでしょう。事情は大国主命様に私の方から伝えてありますので……おや?』
その時、何かに気付いた
『これは、大国主命様…!わざわざおいでになられるとは……!』
『ああ、よいよい、面を上げよ。今この場には儂らしかおらぬ、気を遣う必要もないぞ。
伏して頭を下げる
『は……妖魅に親を殺され、一人残った子を憐れんで拾い育てておりますが…人の子は我らとは勝手が違い過ぎまして、苦労が絶えませぬ』
『それは無理もなかろうて、しかし、よくやっている方ではないか。儂ら神は本来、人と共に在るもの…実際に人を育てる経験は、きっとそなたを成長させてくれるであろうよ』
褒められて悪い気はしないが、どうも白狼は偉い高位の神々と接するのが苦手だった。白狼…つまり大口真神は、かの英雄
『お褒めに与り恐悦至極…と、ところで、その……わざわざそのようなお言葉の為にこちらへ…?』
『ああ、いや、そなたに伝えておきたい事があってな。この機を逃すとまたいつそなたに会えるか解らぬので出向いたのだ。せっかくだ、
先程までにこやかに笑っていた大国主命が、急に真顔になって二人に問うた。
『すみませぬ、私は存じ上げませぬ……』
『
『うむ、まっことその通り。あれは人に富や長命を与えるとしながら、その実は命と魂を奪って己に取り込むという、まごう事なき邪神であったからな』
『なんと!?そのような恐ろしい神がいたのですか……』
『し、しかし、何故そのような古い神の話を…?三百年以上昔ともなれば、もう覚えている者も少ないのでは……?』
『実はな、どうやらその常世神が、復活しようとしているようなのだ。密かに信者が集まり、活動しているのが最近になって解ってきた』
『なっ!?そんなバカな……!』
白狼が驚くのも無理はない。常世神は、日本の神々から誅されただけでなく、人々の間からもその教えが邪教として扱われて廃滅したのだ。それが三百年もの歳月を経て復活するということは、普通ではあり得ない。何某かの手引きをしたものでもいない限り……それは即ち、神々の間に裏切り者がいるということである。
『もしヤツが復活すれば、世は大きく乱れるであろう。昨今の人の世は特に、災いが多い故な』
大国主命は沈痛な面持ちでそう呟く。この記憶にある時代…平安時代の末期頃は、後に菅原道真の呪いと噂された出来事や、疫病に天変地異、更には酒呑童子を始めとする鬼共の台頭などが起こった時代である。大国主命が言っているのはそれらのことだ。
『…その、常世神側についている神については?』
『おおよその見当はついておるが、まだ断定は出来ぬ。そもそも復活の兆しありというのも託宣によるもので、いつどこでどのように…とは解っておらぬでな。今はまず、信頼のおける者に警戒を怠るなと伝えておるところじゃ』
大国主命の話は、想像以上に危険な話であった。日本の神々は、大元に血縁者が多いせいか、横の繋がりも強いことが多い。そんな中で、信頼のおける相手にのみ話したというのは、かなり重い事実なのだ。白狼も
『畏まりました、肝に銘じて……む?』
観念してそう答えた瞬間、白狼の頭に閃くものがあった。それは所謂、虫のしらせというものだが、白狼が空の身にもしもの事があった時、彼女に解るよう仕掛けておいた術のひとつである。それが発動して、白狼に届いたのだ。
『大口真神よ、どうかしたのか?』
『
そう言うや否や、白狼は身を翻して奥之院から庭へ飛び出した。いざという時許可さえあれば、自身が祀られている社と、この出雲大社を繋いでワープすることも可能である。ただそれでも、空がいるはずのあの森へは直接は繋がらない、一刻も早く向かわなくては間に合わなくなりそうだ。
『急ぎであれば、
大国主命が白狼の背にその言葉を投げ掛けると、許可を得た白狼は素早く咆え、社へ向かう通路を作り出してその中へ飛び込んだ。残された