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第349話 災いの足音

 白狼が空を置いて、ねぐらの森を出てから十日後……彼女は無事、出雲大社に到着して神々の寄り合いの中にいた。これから始まるのは神在祭かみありさいという催しである。祭りと名がついているが、実際は主催である大国主命オオニクヌシノミコトを中心に、全国各地それぞれの神が今年一年の人間達に関する情報を持ち寄り、来年はどのようにして人と関って導いていくかを議論するのが目的だ。参加は強制ではないものの、信者を持つ日本の神々は大体が参加している。


『よう!大口の!しばらく見なかったが今年は参加か?』


 そう言って近付いてきたのは、白狼と馴染みのある土地神である。大口真神は全国に数か所、祀られている神社があり、彼はその内の一つの傍にある湖の神だ。如何にも好々爺と言った姿の彼は大変に釣り好きで、常に釣り竿を持ち歩いており、時には恵比寿という神と釣りをしに行く仲だという。なお、恵比須は七福神に数えられるあの恵比須様だが、この当時の人々の間ではそれほど重要な神として崇められてはいなかった。七福神がメジャーな存在になったのは江戸時代の頃である。


『ああ、この所忙しかったのが、ようやく少しは目を離す余裕が出来たのでな。そちも相変わらずなようじゃの』


『うむ!釣りは良いぞ。人間達の営みの中では特に重要じゃによってな。やはり、人はうおも獲って喰らわねば生きて行けぬからのう』


 そもそも狩猟民族ではないこの国の人々にとっては、農耕こそが日々の糧を得る重要な手段である。しかし、それ以外の栄養も摂らねばならないのは当然のことだ。現代とは違って大々的な漁業は確立していないが、その分、彼のような神の加護は人間の暮らしに重要な役割を持っているのだろう。


『そう言えば、宇迦之御魂神ウカノミタマはどこにいるかな?議論が始まる前に顔を会わせておきたいのじゃが』


『おお、あやつなら奥之院の方におるぞ。しかし、あれも神となって三百年近くになるか……昔はかわいい狐の子だったというのに、若くして偉くなったものよなぁ』


『あの子は優秀じゃったからな、この先もっともっと大きくなるであろうよ。…どれ、行って来ようか』


 そう言って、白狼は湖の神と別れ、奥之院へ向かった。この二人と宇迦之御魂神ウカノミタマは、元々の知り合いである。宇迦之御魂神ウカノミタマは小さな狐の子どもだったのだが、稲荷信仰が大きくなるにつれ、稲荷の主祭神として崇められて神格を得た。と言っても、この頃はまだ現代ほどの強力な神ではなかったようだが。


 白狼が他の神々を避けながら奥之院に向かうと、ちょうどそこでは宇迦之御魂神ウカノミタマが鎮座して祈りを捧げている所であった。現代と変わらぬ少女の姿だが、身につけている装束は少しだけ華美に見える。そして、やってきた白狼に気付くと振り返って座り直し、にっこりを笑みを浮かべた。


『大口真神、お久し振りです。今年は参加なされるのですね、?』


『ああ、久方振りじゃ。と言ってもたった八年かそこらの話……あっという間じゃったがの。あの子はもう九つじゃから、そろそろ私がおらんでも生きて行けるようになってもらわねば困る。私ら獣からすれば、人の成長は遅うて敵わぬよ』


 白狼は宇迦之御魂神ウカノミタマの前に座ると、そう言ってハハハと笑ってみせた。狼や狐は、一歳にもなれば成体となり、二歳頃には成熟して独り立ちをした大人になるものだが、人間の場合はそうもいかない。いくら狼に育てられたと言っても、空は人間なのだから仕方のないことである。そして、宇迦之御魂神ウカノミタマは白狼が人間の子どもを育てている事を知っている、数少ない神の一人でもあった。


『人が成熟するには、十五年はかかると聞きますよ。あと六年…今は独り立ちにはまだ早いのでは?』


『ううむ……やはりそう思うか?確かに、あの子はまだ身体も小さいが…早く帰ってやるべきかな』


『その方がよろしいでしょう。事情は大国主命様に私の方から伝えてありますので……おや?』


 その時、何かに気付いた宇迦之御魂神ウカノミタマの背後から、のそりと大きな存在が現れた。それはでっぷりとした腹をした、大きな体の男性である。


『これは、大国主命様…!わざわざおいでになられるとは……!』


『ああ、よいよい、面を上げよ。今この場には儂らしかおらぬ、気を遣う必要もないぞ。宇迦之御魂神ウカノミタマから話は聞いておるに、息災の様じゃの、大口真神よ』


 伏して頭を下げる宇迦之御魂神ウカノミタマと白狼の前で、その男性――大国主命はニコニコと笑いながらその場に座り込んだ。何とも優しそうな顔つきだが、流石は日本の神々の中でもトップクラスの存在である。その威容はかなりのものだ。白狼達はゆっくりを顔を上げたが視線を少し下げている。


『は……妖魅に親を殺され、一人残った子を憐れんで拾い育てておりますが…人の子は我らとは勝手が違い過ぎまして、苦労が絶えませぬ』


『それは無理もなかろうて、しかし、よくやっている方ではないか。儂ら神は本来、人と共に在るもの…実際に人を育てる経験は、きっとそなたを成長させてくれるであろうよ』


 褒められて悪い気はしないが、どうも白狼は偉い高位の神々と接するのが苦手だった。白狼…つまり大口真神は、かの英雄日本武尊ヤマトタケルノミコトが東征の折り、さる怪物を倒した時、その怪物の起こした霧によって迷わされてしまった日本武尊ヤマトタケルノミコト一行を、導いて救った功績によって神となったのである。彼女は神々の中ではそれなりに古参の神ではあるのだが、何せ神になるべくしてなったわけではないせいか、あくまで自分は獣…狼としての意識が強いのだ。それ故に、高位の神々と接するのは落ち着かないのであった。


『お褒めに与り恐悦至極…と、ところで、その……わざわざそのようなお言葉の為にこちらへ…?』


『ああ、いや、そなたに伝えておきたい事があってな。この機を逃すとまたいつそなたに会えるか解らぬので出向いたのだ。せっかくだ、宇迦之御魂神ウカノミタマも聞くがよい。……そなたら、常世神とこよのかみという神を知っておるか?』


 先程までにこやかに笑っていた大国主命が、急に真顔になって二人に問うた。宇迦之御魂神ウカノミタマはその名に覚えがないようだが、白狼は聞き覚えがある名だ。


『すみませぬ、私は存じ上げませぬ……』


宇迦之御魂神ウカノミタマはまだ若いから無理もなかろうよ。……確か、あれは三百年と少し前に現れた異界の神では?冥府の神のような存在で、人心を惑わす邪神とされて、誅されたと記憶しておりますが…』


『うむ、まっことその通り。あれは人に富や長命を与えるとしながら、その実は命と魂を奪って己に取り込むという、まごう事なき邪神であったからな』


『なんと!?そのような恐ろしい神がいたのですか……』


 宇迦之御魂神ウカノミタマが稲荷の神として祀られるようになったのは、この頃から約三百年ほど昔である。常世神はそれよりさらに五十年以上前に信仰された神である為、彼女が知らないのは当然であった。しかし、何故急にそんな神の名前が出て来るのか、白狼も宇迦之御魂神ウカノミタマも解せないようである。


『し、しかし、何故そのような古い神の話を…?三百年以上昔ともなれば、もう覚えている者も少ないのでは……?』


 宇迦之御魂神ウカノミタマがそう尋ねると、大国主命は一段と険しい表情になって、腕を組んでしまった。何か、とてつもなくイヤな予感がすると、白狼は胸騒ぎが止まらない。


『実はな、どうやらその常世神が、復活しようとしているようなのだ。密かに信者が集まり、活動しているのが最近になって解ってきた』


『なっ!?そんなバカな……!』


 白狼が驚くのも無理はない。常世神は、日本の神々から誅されただけでなく、人々の間からもその教えが邪教として扱われて廃滅したのだ。それが三百年もの歳月を経て復活するということは、普通ではあり得ない。何某かの手引きをしたものでもいない限り……それは即ち、神々の間に裏切り者がいるということである。


『もしヤツが復活すれば、世は大きく乱れるであろう。昨今の人の世は特に、災いが多い故な』


 大国主命は沈痛な面持ちでそう呟く。この記憶にある時代…平安時代の末期頃は、後に菅原道真の呪いと噂された出来事や、疫病に天変地異、更には酒呑童子を始めとする鬼共の台頭などが起こった時代である。大国主命が言っているのはそれらのことだ。


『…その、常世神側についている神については?』


『おおよその見当はついておるが、まだ断定は出来ぬ。そもそも復活の兆しありというのも託宣によるもので、いつどこでどのように…とは解っておらぬでな。今はまず、信頼のおける者に警戒を怠るなと伝えておるところじゃ』


 大国主命の話は、想像以上に危険な話であった。日本の神々は、大元に血縁者が多いせいか、横の繋がりも強いことが多い。そんな中で、信頼のおける相手にのみ話したというのは、かなり重い事実なのだ。白狼も宇迦之御魂神ウカノミタマも、決して主神を裏切るつもりはないが、あまり大きな期待をかけられるのは勘弁して欲しいというのが本音である。


『畏まりました、肝に銘じて……む?』


 観念してそう答えた瞬間、白狼の頭に閃くものがあった。それは所謂、虫のしらせというものだが、白狼が空の身にもしもの事があった時、彼女に解るよう仕掛けておいた術のひとつである。それが発動して、白狼に届いたのだ。


『大口真神よ、どうかしたのか?』


くうに、息子に何かがあったようです。…これは、かなり危急の報せのようで……っ!御免!』


 そう言うや否や、白狼は身を翻して奥之院から庭へ飛び出した。いざという時許可さえあれば、自身が祀られている社と、この出雲大社を繋いでワープすることも可能である。ただそれでも、空がいるはずのあの森へは直接は繋がらない、一刻も早く向かわなくては間に合わなくなりそうだ。


『急ぎであれば、を繋いでよい!気をつけよ!』


 大国主命が白狼の背にその言葉を投げ掛けると、許可を得た白狼は素早く咆え、社へ向かう通路を作り出してその中へ飛び込んだ。残された宇迦之御魂神ウカノミタマもまた、激しい胸騒ぎを覚えて、夜空を見上げている。月に叢雲がかかる秋の空に冷たい風が吹き、恐ろしい嵐の訪れを予感させているようであった。

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