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第350話 邪神顕現

 水しぶきのような音が室内に響いている。段々とくうの意識が覚醒し始めると、その正体が何なのかはすぐに明らかになった。


 『常世神様!どうか我らに、永遠の命と繁栄を!…ぐふっ……!』


 その叫びと共に、誰かが自分の喉元に刃を突き立て、その血が勢いよく飛び散った。よく見てみれば、既に何人もの人々が血だまりの中に倒れていて、水しぶきのような音はそんな彼らの血が傷口から噴き出した血しぶきだったようだ。空は目覚め、ゆっくりと聴覚以外の感覚も取り戻していく。


『うぅっ!く、臭い!?なんて血の匂いだ……ぐ、う…ぉえぇっ!』


 白狼と共に育ち、高い身体能力を持つ空は、その嗅覚も鋭かった。その鋭敏な鼻が強制的にむせ返るような血の匂いを感知したせいで、空はその場で吐き気を催し、盛大に吐いてしまう。


『おやおや……鬼か天狗の子かと言われた魔物の子の割に、何とのか。まぁ、抵抗されないだけよいがな』


 いつの間にか隣に立っていた男が、空を見下ろして言った。その男はあの神子と呼ばれ、最初に自決した少女の父親である。空は苦しさのあまり涙を溢しながらも、その男を睨みつけていた。


『お、おまえ……!?』


『弱いくせに眼力だけは一丁前よな。大方、我らが神子の肉を食らおうと狙い、後をつけてきたのだろうが、残念だったな。あの子は血肉の一滴、一欠片までもが常世神様のもの…下賤な魔物の子などにはくれてやるわけにはいかんのだ。とはいえ、彼の神はとても慈悲深いお方……お前のような魔物でも、願いを聞き届けてくれるやもしれぬぞ。仮にそうならなかったとしても、あの方の贄として最期を迎えられるのは貴い事よ。身に余るありがたき幸せとして、その命を差し出すがよい』


 そう言い放つ男の瞳は真っ黒に染まっていた。黒目勝ちというわけではなく、白目の部分が一切ないのだ。人とまともに接したことがない空にも、それが異常な状態であると言う事はしっかりと理解出来た。この男は既に、ヒトではなくなっている…そんな確信が湧いた。


 空はそこで怒りを覚え、男の好きなようにはさせまいとしたが、同時に自分の身体が思うように動かせなくなっている事にも気付いたようだ。頭だけを動かして見てみれば、いつの間にか、身体は頑丈そうな縄で縛り上げられていた。しかも、空の怪力をもってしてもその縄は引き千切れそうにない、ただの縄でないことはすぐに解った。


『こ、これ…っ?!いつの間に!』


『ふん、無駄だ。それはどんなに力を込めようとも決して千切れぬ、血で女の皮と髪を寄り合わせて、麻の中に組み込んだ特別製のな。お前のような魔物を捕らえる為に編み出されたしゅを込めた縄よ。逃れられはせぬ、コイツらのようにな』


 そう言って、男が手にした縄を引っ張ると、物陰からいくつもの小さな影が現れた。


『そ、そいつらは……!?』


 引っ張り出されてきたのは、五匹の小さな山犬の子どもであった。白狼の眷属である山犬は、この山と森を根城にする霊犬れいけんだ。妖怪とまではいかないものの、普通の犬や狼などよりも高い霊力を持つ種族で、子犬達はきゃうきゃうと悲鳴のような鳴き声を上げ、なんとか縄から逃れようとしている。山犬達は白狼の子として育てられた空の事もよく知っており、付き合いもあったので、その子犬達も空の事は見知っていた。どうやら、空が捕まったことを知り、助けに来たところを逆に捕まえられてしまったようだった。


『物の怪紛いの山犬が、わざわざお前を助けにやってくるとはな。……やはりお前が魔物の子なのは明白だ。だが、役には立ったぞ、ほれ』


 ドンッと音がして、空の目の前に落とされたもの…それは、五匹の子犬達の母犬の首だった。考えてみれば当然である、子犬達だけで空を助けになど来るはずがない。彼らは母犬と共に空を助けに来ていたのだ。


『あ、あああ…!?ああああああっっ!!!』


 自分のせいで、母犬を死なせてしまった……あの子達から母を奪ってしまったのだ。白狼という母しか知らぬ空にとって、母という存在は何よりも大きく、そして大切な心の拠り所である。それを失わせてしまった事は、どんな罪よりも重い。その現実に耐えきれず、まだ年端も行かない空の心は激しい後悔と絶望で圧し潰されそうになっている。そんな苦悶の声を聞き、男はうっとりとした表情で空を見下ろして笑った。


『ハハハッ!これは愉快だ…!高い霊力を持つ山犬共の血は、それなりに贄としての価値がある。だが、お前がそれだけ苦しむとなれば、お前の嘆きをたっぷりと込めたお前自身の魂はより上質な贄となるだろう。どれ、せっかくだ、この邪魔な子犬共も潰してくれる…!』


『なっ!?や、止めろおおおおっ!』


 男が足を振り上げ、子犬を踏み潰そうと力を込めているのが解った。子犬達は必死に逃れようとしているが、縄で繋がれてしまっているので逃げる事もままならない。空はその凶行を止めようと必死にもがきながら、力の限り声を上げた。


(誰か!誰か助けて!オレはどうなってもいい、この子犬達だけでもっ……は、母者ぁ!)


『ガルルルルッ!!オオオオオッ!』


『な、なんだっ!ぐぇっ!?』


 その心の叫びが届いたのか、轟音と共に家の壁が吹き飛び、白狼が飛び込んできて男に噛みつくと力の限り強引に、男の身体を噛み裂いていた。バリバリと骨の砕ける音がして内臓にも牙が食い込んでいる。普通の人間ならば即死している所だが、それでも飽き足らず白狼は男の身体を吐き捨てるように放り投げた。子犬達を繋ぐ縄はきちんと前足で抑えられている。


『は、母者……?母者だ…!ごめん、オレが…オレの、せいで……!』


 空は大粒の涙を流しつつ、謝罪の言葉を繰り返すことしか出来なかった。本来、神にとって理由なく人を傷つけること、殺生することは大罪である。人は神の力の源であり、大事な信徒となり得る可能性があるからだ。それに何より、人の死は穢れを運ぶ……特に穢れを忌み嫌う日本の神々にとって、それはかなりのマイナスになる事は間違いない。空や子犬達を助ける為とはいえ、男を殺した事は白狼の立場を悪くするものだろう。そんな神の掟を知らぬ空は、ただ、自分が言いつけを守らず森を出てしまったこと、そして子犬達の母を死なせてしまった事を悔いて詫びているのである。


『…………ッ!?グルルルル…!』


 空と子犬達を縛る縄を食い千切り、その涙を舐めていた白狼が、何かに気付いて突如威嚇を始めた。その視線の先には、ちょうど先程投げ捨てた男の死体が、祭壇の上にある奇妙な芋虫の石像に引っ掛かっていた。男の身体からは大量の血が流れ落ちて石像が赤黒く染まっていく……その色が変わる面積が増えれば増えるほど、その石像から恐ろしく禍々しい気配が漂い始めていた。白狼はそれに気付き、空達の前に立って無意識のうちに威嚇をしていたようだ。


『は、母者…?あれ、なんだ?す、凄く恐いものが来る……!』


 空は子犬達を一匹残らず抱き上げて、腕の中で庇うようにしながら、その石像を見据えていた。今までに経験した事の無い恐怖に襲われて、空はガタガタと震え続けている。今の今まで、空はこの森で一番強いのは母である白狼で、その子である自分が二番目だと思い込んでいた。当然、怖いものなどほとんどなかったのだ、そんな自分を無かったことにしたくなるほどの恐怖である。実際、白狼に敵う野生動物はいなかったし、その高い身体能力と霊力を誇る空は、熊でさえも五分以上に戦えるのだから間違ってはいない。そこから現れようとしているものは、この世のものではない力を秘めているということだ。


 そして、時間にしてほんの数十秒後、神体として祭壇に掲げられていた石像から飛び出してきた。今ここに、最大の敵の姿が現れたのだ。

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