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第352話 逆転の一歩

 もう、何度目になるだろう。糸に包まれ、文字通り手も足も出せなくなった白狼を、常世神は執拗に投げ落としている。このままでは間違いなく、白狼は命を落とす事になる。空は震えながら、木陰からそれを凝視していた。


『あ、ああ…母者、母者が……ど、どうしよう。どうしたらいいんだ…?』


 何とかしなくてはならないと言うのは解っているが、あの常世神は空の力でどうにかなる相手ではない。かと言って、空には頼れる相手などおらず、手元には自分が守ってやらねばならない子犬達がいるだけだった。ビタン!ビタン!と白狼が地面に叩きつけられる音が耳に入る度、空は耳を塞いでしまいたくなる。しかし、その腕の中にいる子犬達の存在がそれを許さない。そう、ここで諦めて絶望に負けてしまえば、全てが終わってしまうのだ。母やこの弱い子犬達を助けたいと願うならば、自分が何とかしなくてはいけないと感じた空は、心を奮い立たせ始めていた。


『そうだ……今、ここで母者がやられたら、オレ達はもうお終いだ。悔しいけど、オレにはあのカミとかいう奴を倒す力はねえ…!何とか出来るのは母者だけなんだ…なら、母者を助けるのが、オレに出来るただ一つのことなんじゃねぇのか?…考えろ、オレはどうしたらいい…?どうすりゃ母者を助けられるんだ……ん?あ、ありゃあ…?』


 その時、空の視界に入ったのは、あの神子として自決した少女の持っていた短刀である。常世神出現によって家が壊された時、他の物と一緒に吹き飛ばされてきたのか、すぐ手の届く場所ではないが、空が本気で走れば常世神に見つかる前にそれを回収出来るだろう場所にそれは落ちていた。

 白狼が力で千切れなかった糸を、空が素手で引き千切れるとは思えない。空には白狼のような鋭い爪も牙もないのだ、だが、あの刃があれば……そう直感した。空は人間と暮らしていた訳ではない為、人間の道具がどういうものかも、実のところはよく解っていなかった。ただ、あの少女が首に突き刺した瞬間を目の当たりにして、それが鋭い武器であることは理解出来たのだ。


『オレなら、あれを取って母者の所まで走れる……はずだ。オレにしか出来ない…オレがやらなきゃ、母者も死んじまう。その後はオレもこいつらも……そんなの、絶対ダメだ!』


 空は覚悟を決めたのか、絶望しかけていた顔に赤みが差し、生気を取り戻していた。失敗すれば命はないが、このまま黙って指を咥えていても同じ事である。そんな気持ちが空の背中を押しているようだ。そして、子犬達を目立たない草むらに優しく置いて、空は立ち上がった。


『いいか、お前ら…絶対ここを動くんじゃねーぞ?もしオレがやられたら……そん時は、オレと母者の住んでた窟屋に逃げ込め!あそこは頑丈だから、少しは耐えられるはずだ。もしかしたら、耐えてる間に助けが来るかもしれねぇし……いいな?とにかく今すぐには動くなよ?解ったか』


 どこから助けが来るというのか、自分でも滅茶苦茶な事を言っているなと、空は胸の中で苦笑いをした。本当の事を言えば、怖くて仕方がないのだ。助けが来て欲しいのは誰よりも空自身だった。当然だが、空とてまだ数えで九つの子どもである。ましてや、あの強大な力を持つ怪物のような存在を相手に立ち向かわなければならないというのだから、その恐怖は並大抵のことではないだろう。それでも、大好きな母と子犬達を守る為には命を懸けてやらなければならないと、空の本能が、そう理解していた。


『行くぞ……っ!』


 そう呟いた空は、自らの両足を叩いて気合を込め、勢いよく駆け出した。先程から見ている限り、常世神は動きが鈍い、あの程度の動きならば、空の自慢の足を使えば隙を衝くのは容易いはずだ。

 ダダダダダダッ!と土埃を巻き上げて、空が走る。目標とする短刀までは、大した距離もない。あっという間に近づいてそれを拾った辺りで、常世神は空の存在に気付いたようである。


『く、空……?逃げよ、と言った……のに…』


 囚われた白狼もまた、朦朧とする意識の中で空がこちらへ走ってくるのを見るともなく見ていた。仮に自分が殺されたとなれば、大国主命や宇迦之御魂神ウカノミタマが黙ってはいないだろう。必ずや力を併せて、常世神を成敗するはずだ。だが、そんな事を空が知る由もなく、仮に他の神が常世神をどうにかするとしても、それはどのくらい先の事になるかは不明である。なにせほぼ日本中の神が出雲に集まっていて、近在には居ないのだ。神の中に裏切り者がいるのならば、今この時に常世神が復活したのは、それを狙っての事である可能性も高い。だとしたら、討伐はずっと遅れることになるだろう。実際に空がこの場から逃げおおせた所で、助かる可能性は限りなく低かった。


『うおおおおおおおっ!』


 空は落ちていた短刀を掴み取ると、今度はまっしぐらに捕まっている白狼の元へひた走る。距離にして百メートルほどの間を、全速力で走り、空は白狼の元へ飛び込んだ。


『ギャギャギャギャギャッ!』


 先程まで放っていた不快な絶叫とは違う常世神の声には、明らかに空を威嚇し、警戒している気持ちが表れている。こんな小さな人間の子どもに何か出来ると思ってはいないようだが、抵抗しようとするその意志が腹立たしい…そう言いたげである。

 常世神は空の狙いが白狼であると気付いたのか、白狼をそのまま高く空へ飛ばした。手も足もない芋虫状の常世神だが、腐っても神だけあって、自分が生み出した糸の扱いは極めて上手く、洗練されている。さっきからずっと、頭を動かしただけで白狼を包んだ糸を引っ張り上げては投げ落としているのだ。今回もそうするつもりなのだろう。


『くそっ!高く上げられたら、打つ手が……え?あ、ああああわわわっ!?』


 何故空が素っ頓狂な、悲鳴ともなんともつかない声を上げたのかと言えば、答えは簡単だ。空へ高く投げられた白狼が落ちてきたのである…よりによって、空目掛けて。くうは名前こそそらと書くが、別に空を飛べるわけではない。類い稀な身体能力で高くジャンプする事が出来る程度だ。したがって、当然、空中に投げられた白狼には接触できない。地面に降りて来てくれなければ助ける事もままならないのも事実だ。だが、だからと言って空そのものの上に落ちて来られては困る。急いで避けなければ、空は落ちてきた白狼の身体に圧し潰されてぺしゃんこだ。


『母者……ごめんっ!』


 本当ならば受け止めたい、そうすれば、確実にその糸に触れる事が出来る。白狼を助ける為には、何とかしてあの糸を切らねばならない。この短刀一本でどれだけの事が出来るのかは解らないが、それでもまず触れてみなければ始まらないだろう。そして、それは空中に投げ上げられていては試す事すら出来ないのだ。だが、それでなくとも大きな白狼の身体が、急速に落下してくるのを受け止められるほど、空の身体は強くないのである。


 空が断腸の思いで素早く横っ飛びすると、直後に身動きの取れない白狼が落ちてきた。それはちょうど今まで空の立っていた場所に寸分違わぬようにして着弾しており、もう少し判断が遅ければ直撃していたことだろう。かなりの正確さだ。


 回避に成功した空は、素早く白狼に取りつこうとしたが、間髪入れずに白狼の身体は再び空中へ上げられてしまった。そして、また空の元へ落ちてくる。常世神は予想以上に知能が高いのか、空が白狼を助けようとしていることに気付いて学習したようだった。空は必死にそれを躱すが、その度に白狼は投げ上げられてしまって、空にはどうする事も出来ない。いたずらにその攻防は続き、更に何度目かの白狼を使った攻撃が起きた時だった。


『冷てっ…!なんだ?雨…!?』


 それは大粒の雨粒だ。初めは白狼から血が滴って来たのかと思ったが、それにしては冷たすぎる。空が空高く上げられた白狼越しに天を見上げると、いつの間にか、夜空はどんよりとした黒い雲に覆われていて、そこから雨が降り出していた。山の天気は変わり易いというが、さっきまではそんな様子はなかったというのに、今は嵐に変わろうとしている。だが、それは空にとっては恵みの雨にもなり得るものであった。

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