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第353話 犬神の始まり

『ギャッ!?ギャギャギャ!!』


『な、なんだ…アイツ雨が嫌い、なのか?…っととと!』


 雨粒の当たった常世神が激しく狼狽えて、そのお陰で狙いが大きく逸れた。これまでのように大きく飛んで避けなくとも、白狼は空に当たらない。それどころか、少しの移動で手の届く絶妙な場所に落ちてきた。これを幸運と言わずして何と言うのだろう。白狼が激しく地面に打ち付けられ、その衝撃で地面が揺れたが、空はそれに構う事なく、ほんの少しだけ足を取られながらも白狼へ手を伸ばした。


『母者、今助けるっ!』


 その糸は実際に触れてみると、とても不思議な感触がする糸だった。硬いような柔らかいような、不思議な触り心地だ。思った通り、この糸を素手で引き千切ったり剥がそうというのは不可能だ。それどころか、素手で触れていると、自分の中の何かが吸い出されているような、嫌な感覚がする。空は修行をしていないので解らないのも仕方がない。常世神の出す糸は、憑りついた相手の霊力を吸い取ってしまうのだ。だから、白狼はそれから逃れる事が出来なかった。これを切れるのは、霊力を持たないもの……即ち、刃のような道具、無機物だけだったのである。


 そうとは知らないまま、本能でそれを持ってきた空は、深々と短刀を白狼の身を包む糸に突き刺した。繭状に固められているので、白狼の体までは届かないはずだ。刃は何の抵抗もなく、すんなりと糸を切ってあっという間に柄まで刺し入れる事が出来た。少し拍子抜けしたが、楽に切れるならそれに越した事はない。空は思いきり引き切って、糸の繭をどんどんと切り開いていく。だが、白狼の身体が大きい分、繭も巨大だ。短刀一本では相当時間がかかりそうである。


 そうしている間に、どんどん雨足は強くなっていき、あっという間に強い風が吹きつける嵐の様相を呈してきた。常世神は強くなる雨の勢いを嫌って、激しく身悶えている。今が最大のチャンスだと空は少し焦ったような表情で、必死に繭を切り続けていた。


『もっと早く、早くしねーと…!アイツが動きだしたら……あっ!?』


 雨に濡れた手は滑りやすく、また初めて扱う刃物に苦戦する空は、つい手を滑らせて短刀を落としてしまった。バシャっと音を立てて、短刀が雨の地面を滑っていく。強まった雨足は、空から視界を奪い、短刀がどこに行ってしまったのか解らなくなってしまったようだ。


『あああっ!?くそ、クソっ!どこだ!どこいった!?』


 降りしきる雨と、吹き付ける風を腕で避けながら、空は地面を這うようにして短刀を探している。ちょうどその時だ、ピカッと稲光が夜空を走りそれに反射した短刀が雨の中で輝いたのは。


『あった!……っ!?』


 短刀を見つけて拾おうとした空の背後に、何かが立っていた。同時にゴロゴロと雷の音が響いて、強烈な雷が近づいていることを教えている。


『なっ…!?て、テメェ…は!』


 空が気配を感じて振り向くと、そこに立っていたのは、あの神子の父親で先程白狼に噛みつかれた上に投げ捨てられ、命を落としたはずの男であった。よく見ると、胴体には白狼の鋭い牙で出来たいくつもの風穴が開いている。しかも、首の骨は折れて力無くだらんとしていて、とても生きているようには見えなかった。

 更に恐ろしかったのは、その男だけではなく、自決して死んだはずの信者達もまた、次々に亡者として立ち上がって空を取り囲んでいたことだ。その中にはもちろんあの、神子の少女の姿も混じっていた。


『な、なんでっ!?お前ら、一体…っ!?』


 これらは、雨に打たれて身動きの取れなくなった常世神が、自身へ供物として命を差し出した者達の死体を操っているに過ぎない。それもまた、常世神の能力の一つなのである。亡者達は手に手に武器を持っていて、酷く緩慢な動きで空に群がっていった。空は咄嗟に立ち上がり、震える足をもつれさせながら、近づいてきた男を殴り飛ばしてみせた。幸い、亡者は大した力を持っていないようで、空の力でも十分倒しきれるようだ。これならなんとかなるかもしれない、恐怖に満ちた空の心に一筋の光明が見えたような気がした。


『どっ……どけぇ!!』


 フラフラと寄って来る亡者達を一人、また一人と叩きのめし、空は白狼の元へ進む。そして、再び雷鳴が轟いた時、空の目の前に立ち塞がったのはあの男であった。


『やっぱりお前か……!もう、お前なんか怖くねぇぞっ!』


 空は目の前の男にそう啖呵を切って拳を握り締めた。それは自分を鼓舞する為の言葉で、決して調子に乗っていたわけではない。そうでも思わなければ耐えられなかったのだ。だが、結果としてそれは注意を他に払えない隙を生んだと言えるのかもしれない。空がその手で握った拳を振るおうとしたその時、背後から何かが抱き着いて、空の動きを止めた。


『え……?あ、お前…は……っ!?』


 その一瞬の隙を衝いた形で、あの神子の少女が空に抱き着き、右の太ももに刃を突き立てていた。空が気付けなかったのは、激しい風雨に加え、少女の身体が他の亡者達よりも小さかったせいだろう。そんな少女が音もなく、まるでのように地を這って近付いていることなど、前に意識を向けていた空には解らなかったのである。


 少女は空の太ももに刃をより深く突き刺し、信じられないといった顔をする空に向けて悍ましい笑みを浮かべた。その笑顔は醜悪極まりなく、闇で塗り固めたかのように暗い暗黒そのものの笑いであった。


『ツ・カ・マ・エ・タ…!』


『う、ぐうぅっ!』


 空はありったけの力で少女を突き飛ばしたものの、それによって傷口から刃が離れ、大量に出血が始まった。流れ出る血と共に力が抜けて、立っているのも難しい。土砂降りの雨も、空の身体を冷やしてどんどんと体力を奪っていく。立っている力さえ失って水溜まりの中へ倒れ込むまでに、そう時間はかからなかった。


『ハァッハァッ…!く、チクショウ…っ!』


 傷口を手で押さえても、血が止まる気配はない。仰向けになって見上げても、降り続く雨で目を開けることさえ出来なかった。


(オレ、死ぬのかな…?母者も助けられねぇで……せめて、アイツらだけは…逃げてくれれば……ごめん)


 脳裏に過ったのはあの子犬達の事だ。森は厳しい、例えこの悪夢のような状況を逃れたとて、大きな動物達にしてみれば、親のいない子犬など格好の餌食である。本当ならば、自分や白狼がついていてやって、面倒を看てやりたかったのだが、それも叶わないようだ。胸の内で謝罪の言葉を口にしながら、空は自分にトドメを刺そうと近づいてくる亡者の気配を感じ、諦めかけた。


『きゃうきゃうきゃうっ!』


 亡者の内の一人…あの神子の少女が空の喉元に再び刃を突き立てようとしたその瞬間、空の耳に聞こえてきたのは、あの子犬達の鳴き声であった。それはやけに近くで聞こえるだけでなく、雨に濡れた空の身体がほんのりと温かくなった気がした。そして、そのままズブッという嫌な音がして、同時に何匹もの犬の悲鳴が空に届く。

 異変に気付いた空が目を開けると、亡者達が突き立てようとしていた刃は、空の身体の上に飛び乗った五匹の子犬達の身体に突き刺さっていた。いつの間に傍まで走ってきたのか、子犬達は身代わりになってくれたのだ。


『お、お前ら…!?なんで、どうして…隠れてろって、逃げろって言った…のに……っ!』


 震える手で子犬達に触れると、子犬達は空の手を舐めてそのまま息を引き取った。そんな末期の瞬間を感じ取り、空の中で何かが大きく弾けた。


『う、うううう…ああああああああっ!!』


 死にかけた空の身体から、絶叫と共に膨大な霊力が溢れ出して亡者達を吹き飛ばす。空の中に眠っていた狼の血が目覚め、空はこの時、人狼として生まれ変わったのだ。


『く、空……お前、は…?!』


 白狼はその光景に驚きつつも、脳裏に思い当たる事があった。空は赤ん坊の頃、白狼に拾われ、自らの子を亡くしたばかりの彼女の乳を飲んで育ってきた。それは紛れもなく、大口真神という神の血を受けて育ったのと同じ事である。空の中で狼の血と人の血が混じり合って、少しずつその身体を人狼へと変化させていたのだ。そしてそれが、子犬達の死と空自身が死の淵へと追いやられたことによって覚醒したのである。


 奇跡が起きたのは、それだけではなかった。空は人狼ではあるものの、半妖としての存在ではなく、神の血を直接分け与えられたというべきモノである。その力は、命を失ったばかりの子犬達の魂を取り込んで己が神使へと変えていった。五匹の子犬達は、空の魂と繋がり、遂にとして蘇ったのだ。


 新たな力を得た空は、その力であっという間に傷を癒し、常世神を睨みつけた。半神となった空に、もはや常世神は手の届かない存在ではない。もう一度手にした短刀を構え、空は一気に、常世神の頭上へと飛び上がる。それは、人のものとは言えぬ跳躍であった。


『絶対に、お前だけは許さねぇ…っ!くたばれっっ!』


『ギッ!ギャアアアアアアッッ!!』


 常世神の頭に飛び乗った空は、その頂点に短刀を突き刺すと、そのまま勢いよく滑るようにして、常世神の身体を切り裂いていった。見事に切り開かれた傷口から、得体の知れぬ体液が流れ出し、常世神が断末魔の悲鳴をあげていく。そうして天に向かって真っ直ぐに伸びた常世神の身体に、強烈な雷が落ちた。空は落雷の間際に無事飛び離れ、常世神はその動きを完全に止めたようだ。


『ふぅ……母者、もう大丈夫だ。あいつは倒したぞ』


 空が白狼の元に駆け寄り、その糸を切りながらそう言うと、白狼は痛みに堪えながら呟いた。


『まだ、じゃ…常世神は冥府の神……ヤツは、死なん、のじゃ…!』


『え?』


 立ち上がった白狼の視線の先では、黒焦げになった常世神の身体が残っていた。だが、その身体はわずかに再生を始めている。


『こ、コイツ、まだ……?は、母者、どうするつもりだ!?』


『儂に残った力を使って、コヤツを現世から放逐する!……空よ、一人で残していく儂を許してくれ。一人でも、強く生きていくんじゃぞ』


『あ…そんな、待って、待ってくれ、母者!オレは、オレは一人じゃ……!』


『ウウ…ゥオオオオオオオオオーーーンッッ!!』


 空の言葉を終わりまで聞くことなく、白狼は天に向かって遠く咆えた。それに呼応するかのように、雨雲に穴が開き、月が顔をのぞかせる。そして、眩い月の光に照らされた常世神の身体は、光に飲まれるようにしてどこかへと消え去った。後に残った白狼はその場に倒れ、空は夜が明けるまで、その場で泣き伏していたのだった。

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