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第356話 そして戦場へ……

「荼枳尼……?」


 宇迦之御魂神ウカノミタマは何か異変を感じたようで、荼枳尼天狐の名を呼んで空中に視線を投げた。先程聞こえた爆発音といい、外で異常が起きているのは間違いないだろう。その表情から何が起こっているのかは薄々察することが出来たが、あまり聞きたくないと思いながら狛は尋ねた。


「ど…どうしたんです、か……?」


「…荼枳尼天狐が敗れました。彼女は元々、ダーキニーと呼ばれる夜叉の一族が神になった存在、その力は武神にも匹敵するはずだったのですが……よもや、敗北を喫するとは」


「そ、そんな…!?」


「幸い彼女は私の神使として命が繋がっていますから、この神域の中でならば、私が生きている以上命を落とす事はありません。しかし、彼女を打ち倒すほどの敵となると……」


 それは宇迦之御魂神ウカノミタマにとっても、想定外の事態だったに違いない。そして、その事実は、攻めてきた相手が相当な力を持つ神であるという証である。上位の神であればあるほど、その力を発揮するには制限があるとはいえ、それはどちらも同じ事だろう。荼枳尼天狐を倒す程の力を持っている事に変わりはない。となると、狛達には荷が勝ちすぎる敵だと、宇迦之御魂神ウカノミタマは考えているようだ。


 誰もがその可能性に気付き、沈黙する中、狛だけはしっかりと前を向き、眠る大口真神に頬を寄せた。実母、あめは自分を産んで逝ってしまったので、狛は母親に甘えた事が一度もない。だからだろうか?こうして大口真神に触れていると、とても優しく温かい気持ちが胸に溢れてきて、何よりも落ち着く。それが狛の心に強い力をもたらしてくれるような、そんな気がした。


「大口真神さん。私、行ってくるね。くりぃちゃぁの皆には護り切れなかったヒトもいたけど、今度こそ…!」


「狛……」


 狛の囁くような呟きは、頭の上にいる猫田にだけはハッキリと聞こえたようだ。護り切れなかったというのは、無論、カイリやトワを含めた妖怪達の事である。非戦闘員の妖怪達は無事だったが、狛にとってはかわいがってくれる姉のような存在だった二人に加え、鬼部や人形神まで亡くしてしまった。それが今は、何より心の重しになっているようだ。そんな狛の決意を聞き、猫田も覚悟が決まったようである。時間にして数秒ほどの触れ合いの後、狛はキッと顔を上げて外へ向かって駆け出していった。


宇迦之御魂神ウカノミタマさん、私、戦ってきます!大口真神さんだけじゃなくて、皆を守らなきゃ!」


「ああ……!頼みます、狛、猫田…!」


「俺も行く……いや、行きます。宇迦之御魂神ウカノミタマ様、大口真神のことをどうか、頼みます…!」


 そう言って頭を下げると狛の後を追うようにして、朧も走り出す。大口真神の神使である朧は、本来なら大口真神の傍についていたいと願う所のはずだが、それよりも狛を護り、共に戦う方が結果として大口真神を守る事になると考えたらしい。そんな頼もしい二人と一匹の背中を、宇迦之御魂神ウカノミタマは万感の思いを持って見つめるのだった。


(狛……いえ、。生まれ変わってもあなたの魂の根本は変わりませんね。どうか、あなたの行く末に幸あらんことを…)


 一方、躊躇いがちに立ち尽くしているのは拍である。疫病神の影響は弱まり、また大口真神達の過去の記憶を見たことで狛に対する誤解はなくなったが、未だにその心中は複雑なようだ。大口真神や宇迦之御魂神ウカノミタマを守るべきだと頭では理解しているものの、犬神家の当主として狛を討つと宣言してしまった事は取り返しがつかない事である。既に馨や響のように狛と直接戦ってしまった者もいるし、宣言を撤回するにしても、彼らに対して何と説明すれば納得させられるのか悩ましい所だった。

 何しろ、拍の狛に対する溺愛振りは一族全員の知る所であったのだから、下手に宣言を撤回しようとしても拍が情に絆されたようにしか思われないだろう。最悪の場合、一族を割る要因になりかねない。第二の槐を生み出す事を避ける為には迂闊な事は言えないだろう。


 そんな様々な考えに縛られ、拍は動けなかった。そんな様子を見ていた弧乃木は、年長者として、拍の肩を叩いて行動を促すことにした。


「拍君、君が悩んでいるのは解るが、今はまず行動するべきではないかな?常世神という危険な邪神の復活を阻止せねば、守るべきものも守りたいものも、全て失われてしまう……それでは本末転倒というものだよ。大事なのは、行動だ。それによって、考えを改める者もいるだろうしね」


「弧乃木、さん……そうですね。まずは、動かねば始まりませんか」


 拍はこれまで当主として、必死に考えてきたつもりだが、彼とて二十五歳の若者である。選択が誤りとなることもあるだろう。実父の真が普段から家にいればよかったのだが、そう言う訳にもいかず、叔父の槐に至ってはあの有り様だ。また長老達は気安く頼って相談できる相手ではなく、ナツ婆やハル爺も、拍が当主となってからはどこか一線を引いて行動していた。彼は結局、ずっと一人で全てを背負ってきたのだ。

 そんな拍にとって、こうして導いてくれる弧乃木の言葉はとても頼もしく、すとんと腑に落ちるものでもあったようだ。ほんの少しだけ、迷いが晴れたようなスッキリとした表情になっていた。


「では、我々も戦いに……」


「お待ちなさい。…弧乃木、と言いましたね?あなたには別に頼みたい事があります」


「は?自分に、ですか?構いませんが、一体、何を」


 怪訝な顔をする弧乃木に向かって居住まいを正し、宇迦之御魂神ウカノミタマは凛とした声で語る。


「元々あなたには、人間の代表としてここへ来てもらいました。あなたに頼みたいことというのは、他でもありません。ここで見聞きした常世神復活の目論見と兆しを、人間達に共有してもらいたいのです」


「共有、ですか?」


「ええ、常世神を現世に戻さない為には、人間達の協力が必要不可欠です。……少し前から、人間界では心霊の存在が急激に人の傍へと近づいていると聞いています。それはつまり、以前よりも神仏を信じたのむ者達が増えているということ。この状況で、もしも常世神を信仰する集団が現れたら…それは常世神に大きな力を与えることとなってしまうでしょう。それは絶対に避けねばなりません。ましてや、我々神の側に裏切り者がいるのですから、それは遥かに容易なことのはずです」


「それは……確かに」


 弧乃木と拍の頭に浮かんだのは、大口真神達の記憶の中で見た、あの粗末な家の中で自決していった人間達の姿である。あの僅か十数人の生贄だけで、常世神は恐るべき力を持って誕生していた。もしも今の世の中で大きな宗教組織を立ち上げれば、それが途轍もないパワーに変わるだろう。そこに宇迦之御魂神ウカノミタマが言う千年の間に積み重ねた力も合わされば尚更だ。そうなる前に先手を打って、常世神の恐ろしさを世に知らしめるというのは有効な手段のように思えた。


「しかし、今この場を放っておいてというのは……」


「確かに、ここも危険な状況ではありますが、私が敵の…常世神の側に着いている神ならば、ここで次の手を打たない理由はありません。場合によっては既に動いている可能性もあるのです。それが大きなうねりになる前に、お願いしたいのです。それに、戦おうにもあなたは今、武器を持ってはいないでしょう?」


「あ……そうでした。装備は、外に…」


 神域に入る際、穢れを持ち込まないよう装備の大半を置いてきてしまったので、弧乃木が今所持しているのは身に着けている特殊スーツだけである。弧乃木には一応念動力という力があるものの、それだけで多数の妖怪達と渡り合うのは難しい。このままでは足手纏いになりかねないと、弧乃木は素早く考えを切り替えた。


「了解いたしました。この弧乃木精一、常世神の目論見を封じられるよう上層部や政府に働きかけて参る所存です」


「説得にはこれをお使いなさい。これはあなた達が見た記憶をまとめたものです。体験するとまではいかなくても、認識の共有は出来るでしょう。頼みましたよ」


 そう言って、小さな水晶玉と巻物を取り出した宇迦之御魂神ウカノミタマは、それを丁寧に弧乃木へと手渡した。弧乃木が恭しくそれを受け取ると、宇迦之御魂神ウカノミタマは優しく微笑んでから、人が一人通れるほどの小さな空間の穴を開けた。弧乃木は最後に敬礼をして、それを通って人間界へと帰っていった。






「ごめんね、猫田さん。勝手に決めちゃって、私、猫田さんを巻き込んでばっかりだね」


 その頃、外へ繋がる階段を駆け上がりながら、狛は頭の上に乗ったままの猫田に謝罪の言葉を告げていた。猫田はそれを笑い飛ばすようにして、狛の頭の上で尻尾を揺らしている。


「へっ、バカ言ってんな。俺が勝手にお前を見届けるって決めたんだ、巻き込まれるもへったくれもねぇだろ。お前は余計な事なんか気にしてねーで、やりたいようにやればいいんだよ。……何があったって、俺は最後まで付き合ってやるさ。それに…借りを返さなきゃならねーヤツは、俺にもいるからな」


「…うん。ありがとっ!じゃあ、一緒に頑張ろうね!」


「……俺もいるぞ、狛。大口真神に頼まれただけじゃない、俺自身がお前を守りたいんだ」


「朧くんも……ありがとう!」


 後を追ってきた朧も交えて、二人と一匹は外へと飛び出す。そんな狛達を待ち受けていたのは、苛烈な戦いであった。

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