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第358話 闇猫

 睨み合う猫田と八花は、獰猛な虎のように喉を鳴らし、身を低く沈めている。互いに隙を窺いながら必殺の一撃を叩き込もうという、猫科らしい戦い方である。


「……シャアアアッ!!」


 先に動いたのは八花だった。猫田の喉元を狙い素早い動きで飛び掛かる。その動きに応じるように、猫田もまた迎え撃つように飛んで、二人のシルエットが空中で交差した。


「…へっ!甘ぇなっ!」


 互いに空中ですれ違うようにして着地した場所は、ちょうどお互いの位置が逆になる所だった。その着地から一呼吸置いて、八花の右肩から脇腹にかけて大きく引き裂かれ、ブシュゥッという音と共に大量の出血が周囲に巻き散らかされる。初撃の軍配が上がったのは猫田の方だったようだ。


 猫田は八花の動きを完璧に見切り、八花の爪の一撃を躱すと、返す刀で自分の爪を八花の脇腹に突き立てて引き裂いた。決して浅い傷ではないが、致命傷というほど深くもない。その手応えに、猫田は瞠目しているようだ。


「今の感触……前やり合った時とはまるで違うな。どうやらってトコか」


 鍋島ビルで猫田と八花が戦った時、八花は明らかに自身が傷つくのを嫌っていた。彼女が鏡鳴魂と呼ぶ反射技は、その最たる例だ。相手の攻撃をそのまま相手に返すというのは、実際に使われると恐ろしい技だが、自らが傷つかないようにするというある種の脆さを象徴している。事実、あの戦いの時は、鏡鳴魂を潜り抜けて猫田の攻撃が直撃すると、八花は大きなダメージを受けていた。だが、今は違う。

 彼女はその黒く輝く毛皮の下に、鋼のような筋肉を潜ませている。それが猫田の爪による攻撃のダメージを軽減しているのだ。体毛の色合いだけでなく、明らかに変わったその体つきからも、彼女が以前戦った時とは変わった事を如実に表していた。


「やるわね。けど、まだ勝負はこれからだわ」


「…同感だ。お前が今のでケリが着くほど、楽な相手じゃねーのは百も承知さ」


 猫田は今のやり取りまで、ずっと八花の鏡鳴魂を警戒していた。一度見切った技とはいえ、その威力は絶大だ。現実問題として猫田自身の攻撃力が非常に高い分、反射技というのはかなり有効な手立てである。そもそも、猫田の身体は今の八花以上に頑丈だ。その猫田が手傷を負うほどの一撃というのは、それ自体が強力な攻撃である証だと言えるだろう。それ故に、猫田は八花の動きをじっと見ていた。だから、先に八花が動いたのだ。

 だが、八花は鏡鳴魂を使わず、己の爪で攻撃を仕掛けてきた。大きく変貌を遂げた姿形といい、全く別の力を手にした可能性もある。猫田は警戒して後手に回るよりも、先手を打って攻撃を仕掛けた方がいいのではないかと思い始めていた。


「今度ぁこっちから行くぜっ!」


 猫田は素早く屋根の上を走り、八花の正面へ駆けこんだ。そして、身体ごとねじ込むようにして右の前足を斜め下からアッパー気味に振り上げる。


「ふっ!」


 八花は驚異的なスピードを持って、その一撃を躱してみせた。正確にはわずかにかすっているが、ダメージとも言えない傷だ。本来、猫に限らず四足歩行の生き物は下から上方向への攻撃をあまりしない。よく普通の猫がやる猫パンチも、基本的には上から殴るもので、例外的に猫が下からパンチを繰り出すのは自分が寝た状態から攻撃する時だけである。それは身体の構造上そうなっているからだが、猫田の今の攻撃は、敢えてその意表を突いた形だ。それをかすった程度で凌いだのは、大したスピードと反射神経である。

 そして、飛び上がる形で繰り出された猫田の攻撃は避けられれば無防備な腹を晒す事になる。当然、八花もその隙を見逃す程甘くはなく、真正面に浮いた猫田の腹部へ強烈な爪の一撃を叩き込もうとしてきた。


「っ!?」


 しかし、八花は猫田に攻撃する直前で前足を引き、後ろへ大きく飛び退った。それは猫田の誘いだったのだ。あのまま猫田の腹に一撃を入れようと身体を近づければ、猫田の魂炎玉が八花の身体を焼き尽くしていただろう。それを察して、反撃を止めたのである。


「ちっ!大した勘だぜ。前の戦いの時は、魂炎玉コイツは見せちゃなかったはずだがな…!」


 猫田は空中でくるんと一回転をして、その場に着地をし、再び八花に向き直った。猫田の言う通り、前回の戦いでは猫田は爪と牙だけで八花と戦った。正確に言えば、魂炎玉を使って戦う前に水入りがあって、八花に逃げられてしまったのだが、どちらにしても八花は魂炎玉の存在を知らないはずである。にもかかわらず、魂炎玉こんえんぎょくの存在を察知して避けられたのは、先程八花と戦う前に猫田が妖怪達の群れと戦っていた所を見ていたからだろう。やはり八花は化け猫らしく、抜け目がない相手のようだ。


「ふ、フフフ…ッ、まだよ、まだまだ…………!」


「笑ってやがる……ずいぶん化け猫らしくなってきたじゃねーか!ちょいと頭が煮え過ぎだがな!」


 猫田は不気味に笑う八花に、更なる攻撃を仕掛けた。今度は様子見などせず、確実に仕留めるつもりだ。爆発するかのような力で屋根を蹴り、それを勢いにして一気に八花の元へと肉薄する。あまりの速さに反応しきれなかったのか、八花は目の前に猫田が立ってからようやく身を翻そうとしていた。だが、その時既に攻撃のモーションに入っていた猫田の右前足が、八花の顔面を捉えていた。


「遅ぇっ!!」


「くっ!?」


 太く鋭い猫田の爪が八花の右目から口元までを引き裂く。本来ならば、顎を越えて喉までもを引き裂く一撃だったはずだが、それでも十分致命傷と言っていい傷だ。顔面の半分以上を傷つけたそれは相当なダメージであり、もはや八花に勝ち目はないと思われた。だが、それでも。


「うっ……ふふ、フフフ…アハハハハハッ!痛い、痛いわ!とっても!この痛み、ねぇ!?」


「な、なんだ…っ?ぐ、ぐうう……こ、これは!?」


 八花の身体に無数の文字が浮かび上がり、血塗れの口から真っ黒い闇の瘴気が吐き出されていた。怨・恨・憎・苦・妬・嫉・死・負・犯・滅・魔……あらゆる負の言葉がその身体から瘴気に乗って流れ出し、それは猫田を覆い尽くしていく。途端に猫田は苦しみだして、次の瞬間、八花が受けていた傷と全く同じ傷が、猫田の身体に与えられた。


「ぐああああっ!」


「ハハハハハッ!これが私の新しい力…!私が受けた傷そのものを相手に移し替える究極の鏡鳴魂よ…!あなたはずっと鏡鳴魂を警戒していたようだけれど、生憎ねぇ。今までの鏡鳴魂のように私の虚像が受けたダメージを返すのではなく、私自身の傷を付け替えるこの技はどんなに警戒した所で無意味なのよ!あなたは言ったわよねぇ?!私の怨みが借り物の怨みだと!…だからっ!これは正真正銘私が受けた痛みよ!思い知りなさい、私の怒りと憎しみを!猫田っ!お前を殺す為だけの呪いを!!」


 一度は見破ったはずの鏡鳴魂により、猫田は大きなダメージを受けてしまった。その傷を移し替えるという技の性質なのか、八花がこれまでに受けたダメージは完全に消えてしまっている。それらは全て、猫田の身体に移し替えられてしまったようだ。猫田を包む瘴気はどんどんと濃さを増し、もはや猫田の姿は見えなくなってしまった。


「ね、猫田さんっ!?」


 妖怪達の群れと戦いながらその様子を見ていた狛が、心配の余り思わず猫田の名を呼ぶ。それを八花は忌々しそうに視線を送り、呪詛の言葉を吐き捨てた。


「……元は私と同じ化け猫だと言うのに、お前ばかりが何度も人間と心を通わせて…一体、私と何が違うと言うの?私は、私だって幸せに……」


「…それがテメェの本音かよ。道理でなわけだぜ」


「な、なに!?」


 呪いの言葉と瘴気に包まれた中から、猫田の声がする。勝利を確信していた八花は動揺し、思わずその場から数歩後ろに下がっていた。それは、猫田に対する恐怖の印であり、決定的な敗北の証である。


「言っとくがな…俺が化け猫になった時の痛みは、こんなもんじゃあなかった……身体中の骨は折られ、折れた骨が突き刺さった内臓は地獄の炎みてぇに熱かったもんさ。…だが、そんなものを吹き飛ばすほど身を焦がした怒りと憎しみが、俺の身体を変えたんだ。俺だけじゃねぇ、化け猫になった奴らは皆そうだ。幸せになりたかったなんて悔恨如きを餌に、他人から貰った力で化けたお前には、わからねぇだろうがな」


 暗黒の闇に似た瘴気の向こうで、金色の瞳が怪しく光っている。それはかつての猫田が、無惨にも家族を殺された怨みによって化けた姿……正真正銘の化け猫として変化した、恐るべき怨みのかたちである。美しい黄金のようだった毛並みは黒ずんで、所々に炎が燻っており、流れ出る血は毒々しい紫色に染まっていた。


「そ、その姿は……!?」


「まさか今更、この姿に戻る時が来るとは思わなかったぜ。こんな格好、狛には見せられねぇが……幸い、テメェの瘴気が隠してくれてるみてぇだからちょうどいい。教えてやるよ、本当の怨みに飲まれた化け猫の真髄って奴を…な!」


「ヒッ!ヒイィィッ!?」


 そう言うと、猫田は瘴気を操って、八花の姿を覆い隠してしまった。かつて、猫田は怨みを晴らした後に謎の白猫と出会った事で怨みを忘れて猫又に変化したが、その身の内には化け猫だった頃の因子が残っている。もしも、その身が負の感情に飲み込まれてしまえば、再び化け猫へと転じる素養を常に持っているのだ。そして今、猫田は八花の、既に捨て去ったはずの怨みの感情が復活している。それは八花も予想だにしなかった失態であった。


 しばらくして八花の悲鳴が響いた後、猫田達を隠していた瘴気は消え去り、後にはボロボロになった八花と元の姿に戻った猫田だけが残っていた。瘴気の中で何があったのかは誰にも解らない。猫田は口周りの傷をベロりと舐め、二度と戻るまいと誓ったかつての自分に、再び胸の内で別れを告げるのだった。

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