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第359話 疫病神の悪戯

「猫田さん!?……今のは、妖気?ううん、そんなはずは…でも、もう元通りみたい……一体、何があったの?」


 瘴気に隠れて見えなくなっていた猫田を心配して、ほんの一瞬、狛の手が止まる。猫田から感じられる力は、いつも優しく温かい霊気だった。霊気と妖気は、どちらも魂から発せられる力ではあるので、根本的には同じものである。ただし、発現するその性質が違っていて、物凄く大雑把に言うと魂が妖に振れていれば妖気で、人や普通の生物の魂に近いものが霊気であると言っていい。もしくは陰と陽の違いと言った方が理解しやすいだろう。陰の気である妖気は非常に攻撃的な力であり、他者を害し侵食する効果を持つが、陽の気である霊気は傷を癒したり、守る力に長けている。人間が結界術などの防御系の術に優れているのはその為だ。


 そして、普段の猫田は一般的な猫と同じように霊気を持っている。通常、生物が妖怪に変化すると魂そのものが変質してしまうのだが、これを妖化ようかと言って、先述した妖に振れた状態がそれだ。猫田の場合、確かに魂が一度は妖化しているのだが、長い歳月によるものか、はたまた怨みを晴らしたからなのか妖化した魂が元々の猫としての魂に戻っている。それでも、魂に妖怪としての因子は残っているので、何かの機会に再び妖化する可能性もある…もちろん狛はそれを知らない為、八花によって瘴気と怨みの念を移し替えられた事で、猫田の魂が一時的に妖化してしまったことなど知る由もない。


 そんな一瞬の隙を衝いて、それまで狛が抑えていた妖怪達の一部が、大口真神達のいる建物に向かって突撃を始めた。猫田が八花と戦い始めてから、猫田が抑えていた分を狛が受け持っていたので、それが動き出した形だ。


「狛っ!」


「あっ!?い、いけないっ!」


 朧の声で狛が気付いた時には、既に何匹もの妖怪達が建物の入り口に群がっていた。阻止するのは到底間に合わないタイミングだ、建物自体を破壊してしまえば止める事は出来るだろうが、そこまで大胆な発想は狛には無い。そうして、無数の妖怪達が建物の扉に触れようとしたその刹那、建物自体が純白に輝く結界に覆われて、結界に触れた妖怪達は瞬く間に消し飛ばされた。それだけでも相当強力な結界だと解るだろう。


「あ、あの結界…は、お兄ちゃん!?」





「……金剛大結界、展開しました。何人足りとも、ここへは立ち入らせません。宇迦之御魂神ウカノミタマ様」


「拍、よいのですか?あなたはまだ、全てが腑に落ちてはいないのでは?」


 大口真神が眠る地下の洞窟で、拍と宇迦之御魂神ウカノミタマが並び立っている。宇迦之御魂神ウカノミタマは、未だ迷いのある拍がここに残って戦ってくれるとは思ってもいなかったようで、少し驚いた表情をしている。拍自身、迷いがあるのは間違いないが、狛の事を捨て置いてもこの状況で大口真神や宇迦之御魂神ウカノミタマを放って去る気にはなれなかった。そんな自分の心を見極める為にも、残って大口真神を守る決断をしたのである。

 拍はこの場所から、自身の扱う術の中でも最も強力な結界術である金剛大結界を使った。金剛大結界は、その名が示すように、以前狛が守護を得た大日如来の智徳の一つ『金剛』と、それを図にした『金剛界曼荼羅』をベースにして組み上げる結界だ。金剛とは、非常に強固であらゆる煩悩を打ち破る力を意味する言葉である。狛と戦った時に使った四犬天陣が最高位の攻撃系結界なら、金剛大結界は防御系最強と言っても過言ではない。正月に槐が本家を襲撃した際、彼が従えていた雷獣・あずまの雷撃により、狛達は絶体絶命の危機に陥ったが、その時にあの稲妻から全員の命を守ったのがこの金剛大結界であった。

 ただし、この術は非常に強力な分、霊力の消費も桁が違う。一族きっての天才として類い稀な霊力の量を誇る拍でさえ、術式や霊符に呪具などで補強しなければ、霊力の過剰消費で意識を失ってしまうだろう。あの後、昏睡状態になってしまったのはそれが原因だ。


 宇迦之御魂神ウカノミタマの問いかけに、拍は少し沈痛な面持ちで俯いていた。その心中にはまだ、複雑な思いがあるのは間違いないのだろう。


「仰られる通り、疫病神の呪縛が消えても自分の中ではまだ、狛に対するわだかまりは消えていません。あの記憶を見てきた自分でもそうなのです。一族の他の者達に、それを理解させるのは更に難しいでしょう…槐の件もありますが、我が一族にとって犬神を増やすということは、一族の在り様までもを覆す大罪なのです。それを冒した狛を皆が許せるかどうかは……何故開祖は、犬神を増やしてはならないという掟を遺したのか……」


「私の知る限りで話せるのは、一般的に狗神と呼ばれる呪法は、あの子…くうが持っていた愛犬の犬神化という力を、他の術者達がものだという事だけです。どうしてそれを禁じたのかは、あの子の子孫であるあなた達が、一番よく理解出来るのではないですか?」


 優し気に答える宇迦之御魂神ウカノミタマの言葉を聞いても、拍は黙って俯いたままであった。愛犬の犬神化という力を開祖である空が持っていたのなら、それを後の子孫達に伝え残してくれていれば、今回のようなことにはならなかったかもしれない。実際にはその能力は空の子どもや孫達には受け継がれておらず、また呪法としての狗神が普及し始めてしまった為にそれを無くすことが先決で、双方を差別化する必要が無かったせいなのだが、まさか千年も後の世でその力が引き継がれることになるとは空自身予想もしていなかったのだろう。


(狛…俺は、お前を守りたかったはずなのに……父さん、俺はどうしたらいいんだ…?)


 拍は黙ったまま、胸の中で父に助けを求めていた。その心の弱さを覆い隠すように、金剛大結界は力強くその建物を守っている。






「お兄ちゃん……」


 そして狛は、その結界を目の当たりにして、拍がここで戦う事を選んだことを知った。狛への複雑な思いから、手を貸してくれないと思い込んでいたので、一緒に戦ってくれることは純粋に嬉しい。少し不安な部分もあるが、狛自身、拍や他の家族が憎い訳ではないのだ。共に戦えると言うのならば、やはり心強いものである。


「おやおや、これは凄い結界だ。あれを破るのは、相当骨が折れるだろうね。とはいえ、そこに大事なモノがあると教えてくれているようなものだけど……嫌だなぁ、僕は大変なことばかり押し付けられて、困るなぁ」


「……っ!?泡沫ウタさんっ!」


 そんな狛のすぐ近くに、泡沫ウタが立っていた。いつの間に近づいてきたのか、狛には全く気配が感じられなかったようだ。気付いた狛は慌てて距離を取り、泡沫ウタへ睨むように鋭い視線を投げつけている。一方の泡沫ウタは、狛の睨みなどお構いなしという表情でニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべていた。それがより一層、泡沫ウタへの不気味さと負の感情を想起させる。だが、それすらも泡沫ウタの作戦である。


「やぁ、狛クン。三日ぶりだね、あれ?四日だっけ?……まぁ、いいか。また会えて嬉しいよ、なんせ君と猫田サンはもう帰って来れないと思っていたからね。僕の力をあれだけ込めた呪符を持っていて、無事でいられるなんて驚くべきことだよ。誇っていい、君らは神の力に耐えきったんだから」


泡沫ウタさん…あなたは本当に疫病神、なんですね。……どうして、くりぃちゃぁの皆を!」


「別に、僕が直接手を下したわけじゃないんだけどねぇ…まぁ、確かに僕のせいではあるんだけど。くりぃちゃぁで過ごした日々は、中々楽しめたよ。なんせ僕の力ときたら普通なら同じ場所に一ヵ月と居られないんだからね。人間なら皆、不幸になって自滅するか、事故などで命を落としてしまうからなぁ。……それだけ、土敷店長の力が強力だったってことかな。彼は危険だ、やっぱり、ここへ来る前に確実に仕留めておくべきだったか」


 泡沫ウタはその瞬間、初めて余裕綽々な態度を崩し、警戒する様子を見せた。土敷の力というのは、即ち座敷童の能力である。座敷童は家に憑いて、その家の住人に繁栄をもたらすとされる妖怪だ。土敷は泡沫ウタの力で認識を阻害されていたので、彼が疫病神だと知らずに過ごしていたはずだが、それとは知らずとも自身の力で仲間達を守っていたらしい。それが疫病神という、れっきとした神の力をも退けるものだというのは、土敷自身ですら知らなかったことだろう。もしも泡沫ウタが、真っ先に土敷を手にかけていたら……或いは全てが終わってしまっていたかもしれない。


「あなたのせいで、皆が……っ!」


「そう怖い顔をしないでくれたまえよ、仕方がなかったんだ。僕はこんなだから、同じ神でも仲間がいなくてね。ずっと孤独に、近づく者達を不幸にし続けてきた……常世神様に出会うまでは、ね。あの方の力は素晴らしいんだよ?冥府そのものを体現する常世神様は、僕の力による干渉さえ受け付けない。そう、あの方と共に在れば、皆同じようにいられるのさ。過剰な幸せも不幸もない、唯一無二の死という安寧の揺り籠で、永遠を得られるんだ!こんなに素晴らしい事はないだろう?だから、僕はあの方の為に働くのさ!」


「そんな…そんなの、間違ってる!皆一律に死の安息を与えようだなんて!幸せも不幸せもあるから、皆一生懸命に生きていけるのに…!あなたはそうやって、多くの人を巻き込んで死に追いやろうとしてるだけでしょ!そんなこと、絶対に許せない!」


「君には解らないようだねぇ…人が生きるという事自体が、無価値で無意味な行為なんだよ。どうせどんなに頑張った所で全ての人間が悟りを開けるわけでもない。いくらこの世で魂が修行を重ねても、大半の人間は罪を犯して魂が汚れていくだけさ。そうして終わらない生が続くんだ、何度も何度も……君だってそうだろう?僕は知っているよ。君の前世はあの大口真神の子として育った人間だ。可哀想に輪廻の輪に囚われて、君は再び戦いの人生に引き戻された。あの時、君の魂が常世神のものになっていれば、痛みも苦しみも無かったものを……」


「そんなの、あなたの勝手な決めつけでしょ!そりゃ、辛い事も苦しい事も、痛い事だって嫌だけど……でも、私にとって生きてるって事は、そんなにマイナスな事ばっかりじゃない。どんなにちっぽけに見えたって、私の人生には幸せも、大事な人との出会いだってあったんだから!それを全て意味がないなんて、あなたに決めて欲しくない!」


「……そうか、どうやら説得は無理なようだね。残念だよ、君が僕らの仲間になってくれれば、こんな悲しい再会をさせずに済んだんだが…ククッ!では、存分に味わうといい。疫病神を敵に回した、真の恐ろしさを、ね」


 笑いを噛み殺しながら、泡沫ウタは楽し気にパチンと指を鳴らす……そうして現れた二人の妖怪は、今の狛にとって最も残酷な、最悪の相手であった。



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