「うう、うううぅぅ…っぐす、うううう……ずずっ!」
「もう泣くなよ、鬼部の奴はお前に感謝してただろーが。無事じゃあねぇが、トワとカイリも生きてたんだしよ、良しとしようぜ」
鼻を啜りながら泣く狛に、猫田が声をかけた。あまり優しくない物言いではあるが、猫田にとっては精一杯の言葉である。何しろ、猫田自身も大きな傷を負っていて、正直、頭がフラフラしている状態だ。ちなみに狛が泣いているのは、トワやカイリが生きていたことの嬉し涙と、鬼部に対する申し訳なさが鬼部自身の言葉で許された事による安堵も含まれているので、猫田の指摘はむしろ逆効果である。それを意識すればするほど、今の狛は泣いてしまうだろう。火に油を注ぐとはまさにこのことだ。
「……しかし、この結界があるうちは俺らも入れねぇな。どうする?」
猫田は右目を抑えながら、大口真神のいる地下へ繋がった建物を見上げて言った。拍の展開した結界は強固だが、当然これがある内は狛達も中に入る事が出来ない。
だが、狛達にのんびりとした休息は許されなかった。ちょうど今この時、恐るべき敵がすぐ傍まで迫っていたからだ。
「……静かになりましたね。戦いが終わったのでしょうか?」
眠る大口真神の前で、拍がそう呟いた。狛ほどではないが、拍も犬神家の一族として、大口真神には言葉に出来ない感情が湧いてくるようだ。恐らく、開祖である
「…どうやらそのようです。何とか防ぎきりましたね、本当に……あなた達に助けを求めてよかった。あとで改めて礼を言いますが、ありがとう、拍。これで常世神の復活は」
「阻止できた、と本気で思っているのなら、その甘さが命取りだ。
「え!?」
それは、そこに居るはずの無い存在の声だった。かつて八花と猫田が戦った際に、八花を迎えに来た白髪の老人…
「バカな!?コイツ、いつの間に……うぐっ!?」
志多羅に気付いた拍はすぐに霊符を取り出そうとしたが、一瞬の隙を衝かれて衝撃波のようなものを喰らい、あっけなく吹き飛ばされた。洞窟の壁にぶつかった拍は、その激しい衝撃で倒れ込む。立ち上がる事さえままならない程のダメージを受けた拍は、倒れたまま志多羅を見上げる事しか出来ずに苦悶の声を上げた。
「無駄だ、お前は外に結界を張っている以上、戦う力などないはず。大人しくしているがよい」
「く、く…そ……!ど、どうやって…」
老人と言っても、志多羅は腰の曲がったようなよぼよぼの老人ではない。背筋はしゃんとして、鍛え上げられた肉体にスーツが良く似合う、ダンディな初老の男性と言った見た目である。一見すると、どこにもおかしい所はなさそうだが、そもそもこの結界の中に拍と
それに何より、拍は自分の張った結界に異常が起きていないことは誰よりもよく解っている。結界を破って入ってきたのなら、少なくとも怪我をするか、身なりに多少の影響は残るはずだが、そんな痕跡はどこにもない。
「金剛大結界か…あれは確かに鉄壁の防御を誇る結界だが、あれに防げるのは人間や妖怪共のみ……儂のような
志多羅はそう呟いて、その顔一杯に不満感を露わにしている。まさに唾棄すべきと表現するのがピッタリな態度だ。そんな志多羅を前にした
「志多羅!?……まさか、あなたが…!」
「久しいな、
そう言って、志多羅は底冷えするような冷たい笑みで
そもそも志多羅神とは、今から千年と少し前…およそ西暦900年代に生まれたとされる民間信仰の神である。今で言う新興宗教のようなものだが、現代よりも人々の暮らしに神や仏の教えが身近で根深かった事もあり、かなりの力を誇っていたという。
平安時代と言われた当時、京の都を始めとして、日本は全国的にみて荒れに荒れた時代であった。飢饉や疫病は言うに及ばず、菅原道真追放によって大怨霊と化した道真の呪いや、平将門の台頭と失脚、そして呪い。更には酒呑童子一派という鬼などの猛威など……まさに激動の時代と言える。狛達が大口真神の記憶で見たあの事件も、ちょうどこの時代の出来事だ。
そんな時代だった事も後押ししてか、志多羅神は農民などに強く信仰されていた。一部では疫神として見られた事もあったようだが、彼を信奉する者達は熱に浮かされたように寄せ集まると、歌い踊りながら、凄まじい勢いで京の都まで押し寄せたという。これが後に志多羅神上洛事件と呼ばれた歴史上の出来事である。
志多羅神がどういう素性と逸話を持つ神であるかは定かではないのだが、一部で疫神…つまり疫病神の一種と呼ばれる存在であったこともあり、総合的にみればあまりよろしくない神であったようだ。こちらも経緯は不明だが、彼らは石清水八幡宮を目指して入京した後、八幡神の末席に取り上げられ祀られることとなった。
そこで問題なのは、一説によると、志多羅神と常世神を信じる者達の行動様式に
「……人間というのは目ざといな。貴様ら日本の神々は全く気付かなかったというのに、儂と常世神様の関係性に気付きかけた者がいるぞ。…最も、それも千年近く経ってからの話ではあるがな」
「そんな……常世神が生まれたのはあなたが生まれる三百年以上も前のはず…それに、そもそもあなたは京都以西で発生した神ではありませんか!?それが、何故」
「ふん、貴様も存外に頭が固いものだ。簡単なことよ、儂は一度滅せられかけた常世神様が、その復活をかけて時を置いてこの国に遣わした存在…云わば儂こそあの方の子という訳だ。子が母を守り、またこの世に蘇らせようとするのに、何のおかしさがある?そこの人間と大口真神の関係も大差ないではないか」
「な、なんということ……」
「くぅっ…こ、これ…はっ!」
「無駄だ。それは自分達を抑えつける人間達の神への不満を形にしたもの……神に対してのみ力を発揮する呪縛そのものよ、誰よりも神である貴様には解く事などできぬわ。何故、儂があの時上洛まで漕ぎ着けられたか忘れたか?儂は貴様ら既存の神々に対抗する者として祀り上げられ、その存在を確立させたのだ。八幡神の末席に上げられたとて、その力は変わっておらぬよ」
そう言うと、志多羅は倒れた拍の頭を跨いで通り、大口真神の許へと進む。そして、忌々しさを隠さない顔を見せて口を開いた。
「大口真神……ようやく見つけたぞ。我らが母を狭間へと追いやり、自分はこんな所に隠れ潜んでいたとはな。貴様さえいなければ、
「や、止めなさい!志多羅!」
「長い間ご苦労だったな、
志多羅は
結界が消えた事で入ってきた狛達が事態を知るのは、その数分後の事である。