地下へと降りてきた狛達は、その場の状況に目を疑った。まさか、あの結界をすり抜けて大口真神が攫われるとは、誰も予想だにしていなかったからだ。幸い、荼枳尼天狐とトワ、カイリの三人は、
「そんな……」
「ちっ!あの志多羅って野郎、神だったのかよ。前に見た時から只者じゃねぇと思っちゃいたが…クソっ!その上裏切り者たぁな…」
狛は驚きの余り声を失い、猫田は怒りを露わにしている。一方、朧は黙ったまま、大口真神が臥せっていた場所に立って静かに何かを考えているだけだ。大口真神の神使である彼は、特にショックが大きいのかもしれない。しかし、焦って行動しないだけ、朧は冷静である。
「それに気付けなかったのは、私達神の失態です。全く不徳の致すところと、神である私が言うのもおかしな話ですが……よもや、あの志多羅が常世神の子、いえ分身だったとは……」
沈痛な面持ちで俯く
そんな
「まぁ、しかしよ。あの野郎、大口真神を連れてってどうするつもりなんだ?話を聞く限り、大口真神が生きてる内は、常世神ってのは復活出来ねぇんだろ?言い方は悪いが、ここで殺っち待った方が早いんじゃねぇのか?それとも、どっかでもう……」
猫田の言葉を遮るように、朧が振り返って口を挟む。
「いや、それはない。…俺は神使として、大口真神と繋がっているからな。大口真神がまだどこかで生きているのは間違いない。このまま放っておけばそうなるだろうが……ヤツは何かを待っているのではないか?そんな気がする…」
「待ってる、ねぇ……」
朧の予言めいた言葉に、猫田は何とも渋い顔になってしまった。朧の言う何かというのがなんなのか、はっきり言って想像もつかない、まさに雲をつかむような話だ。せめてそのとっかかりでもあれば、まだ手掛かりになるのだが。
「もしかすると、時期の問題かもしれません。志多羅は最後に、常世神は間近だと言っていました。それは逆に言えば、何かのタイミングまで復活させられないという事ではないかと……私は一度この事を他の神と審議し、託宣を得ようと思います。あなた達はそれまで少しの間、こちらでおやすみなさい」
「ありがてぇ。ここんとこずっと動きっぱなしだったからな、少し寝てぇや。流石に疲れた…」
考えてみれば、人狼の里から逃げて以降のこの数日間、猫田と狛はほとんど休まず動き通しであった。特に猫田は、愛媛から関東まで全速力で走ったりもしている。その上で、八花との戦闘と大怪我だ、疲れが溜まるのも無理はないだろう。
すっかり力が抜けてしまったのか、猫田は人の姿になることもなく、普通の猫形態になって洞窟の地面にへたり込んでしまった。その隣で、狛は何か言い出しづらそうに言葉にならない声で唸っている。
「う……あ、あの…その……」
「狛、どうかしたのか?大口真神の事が心配なのは俺も同じだが、少しは休んだ方がいいぞ」
「あー…多分違うぞ、朧。狛の奴、腹が減ってんだよ。よく考えたら、人狼の里を出てからほぼ飲まず食わずだからな。極端に燃費の悪い狛がもつ訳ねーよな」
「あうう…そ、そんな事言う時じゃないって解ってるんだけど……もう、そろそろ限界、で…」
狛はそう言うと、立っていられなくなったのかその場に倒れ込んでしまった。軽く見積もっても常人の十倍は平らげる狛が、三日近く食事を摂っていないのだ。水だけは隠神刑部の所で飲んでいたが、限界が来るのも当たり前である。急展開が続いたとはいえ狛にとって、これは何よりもキツイ拷問だろう。
「食事、ですか?弱りましたね、ここにはそんなに食べるものが無いのです。神域自体もだいぶ荒されてしまいましたし、そもそも私達は余り食べなくてもいいものですから……」
「そ、そんなぁ……わ、私、もうダメ、かも…」
狛はそう言うと、ぐったりしたまま気絶するように眠ってしまう。空腹と疲労がピークに達したようだ。かく言う猫田も食べるものは持っていないし、朧も同じようである。やれやれと溜息を吐いて猫田は拍に視線を向けた。
「ったく、しょうがねぇなぁ。くりぃちゃぁが無事なら、戻ってハマに用意させるんだが。……おい、拍、お前は何か持ってねーのか?飴玉とかよ」
「…そんなもの、持っているはずがないだろう。俺は急遽、
拍はそう言うと、眠っている狛の元に近づいて、そっと頭を撫で始めた。どうやら大分わだかまりは消えたようだが、いつもの溺愛振りは鳴りを潜めたままだ。そうして少しの間、狛を撫でた後、拍は立ち上がって
「
「よろしいのですか?まだここに居て、狛が起きてから一緒に戻ってもよいのですよ?」
「いえ、俺の出した命によって、狛は一族の敵として認識されていますので、一緒に戻るのは逆に危険です。それでなくとも、狛が掟を破ったことで狛をよく思っていないものもおりますし、まずは当主である俺が戻って説明をしなければ……皆が納得してくれるかは、まだ解りませんが」
「ならば、俺も行こう」
そう言って、朧もすっと立ち上がり拍に並んだ。こうやって並んで立つと、拍と朧は雰囲気がよく似ている。白い着物の拍と、黒づくめの朧では、見た目は対照的だが纏っている気配が似ているようだ。突然の申し出を受け、拍は驚いた様子で朧の顔を見つめていた。
「お前が?どうしてだ?」
「お前達の一族がいるのは大狼の里だろう?俺はそこの生まれだ。少なくとも俺が行けば、里の人狼達は信用してくれるはずだ。……しばらく戻っていないから、雷が落ちるかもしれんがな」
つまり、朧の本名は大狼朧ということか。彼が狼になれるのは大口真神の神使として選ばれたからではなく、生まれつきの人狼族だったからなのだ。これには拍だけでなく、猫田も驚いた様子だったが、ふと何かを思い出したのか尻尾で地面をポンと叩いて声を上げた。
「あー、だからお前、あの天狗共とやり合った時にすっ飛んできたのか。あん時ゃ確か、拍は寝てやがったから知らねぇんだよな」
「天狗の集団と戦ったという話は聞いているが……そんな事もあったのか」
「別にそれだけが理由じゃない。元々、里の近くには大口真神を祀った社があるんだ、俺はそこから狛の様子を見ていただけだ。それに、あの記憶の中で見た森は、里からそう離れた場所じゃなかったからな。…もしかすると、俺達の里と犬神の開祖は、何か関りがあるのかもしれない」
確かに、大口真神が守っていた森と、この国では数少ない人狼の一族の住む里が近いというのは偶然にしては出来過ぎである。朧の推測も的外れではなさそうだ。猫田がなるほどなぁと感心していると、拍は微妙な顔をして朧を連れて行くことに同意した。
「……狛の様子を見ていたというのは、後でよく話を聞かせてもらうとして。確かにお前がいた方が里の人々は協力してくれるかもしれないな。では、一緒に行くとしよう」
「解りました、ではこちらへ……」
「決戦には間に合うように説得をするつもりだ。猫田、くれぐれも狛を頼むぞ」
「わぁってるよ。お前に言われなくても、俺は投げ出したりしねーから安心しろ。……それより、もうこれ以上、狛を悲しませるんじゃねーぞ」
「解っているさ。……承知の上、だったはず…なんだがな」
自嘲気味に苦笑して、拍は朧を連れて人狼の里へ戻って行った。残された猫田も、よほど疲れていたのか、狛の傍に寄り添って目を瞑っていた。最後の戦いの前に訪れた休息の時は短く、狛と猫田は一時の眠りに就くのだった。