「狛!駄猫!無事だったか!?よかった、心配したんだぞ-!神に心配させるなんてお前達は本当に不敬だぞぉぉ!」
「る、ルルドゥ!?…ゴメンね。寂しかったよね」
桔梗の家の玄関を開けた途端、飛び出してきたのはルルドゥだった。狛の胸に飛び込んで、大粒の涙を滝のように流している。
よほど不安だったのだろう、いつも泣き虫なルルドゥだが、今日は特に酷い。狛は子どものように泣きじゃくるルルドゥの頭を優しく撫でて置いて行ってしまったことを詫びた。とはいえ、連れて行っていたとしても苦労の連続だったし、危ない目に遭わせるよりはいいとも思っているのだが。
「おかえり、狛。大変だったようだね、さ、まずは入りなさい。話は中でしよう」
そう言って奥から出てきたのは桔梗である。どうやら事情を知っているらしく、その表情はいつも以上に優しかった。
「桔梗さん…ただいま」
頭の上に猫田を載せて、涙ぐみながら狛は家の中に入っていく。桔梗の優しい表情だけで、ここ数日の大変な思いがほんの少し薄らいだような気がした。
あの後、
この三日ほどは、ろくに睡眠も食事もとれていなかったが、それ以上に気になったのは身体の汚れである。それでなくともまだ夏の終わりで気温は高く、かなりの暑さだ。そんな状況で、追ってから逃げようと山の中を走り回ったり、吸血鬼達と戦っていたのだ。猫である猫田は気にならないようだが、狛は思春期の少女であるから、どうしても気になるのは仕方がない。神域では暑さこそ感じなかったが、暴れ回って汗もかいたし、とてもではないがこの状態で人前には出たくないようである。
桔梗と話をする前に、汗を流したいからとシャワーを浴びて狛がダイニングへ行くと、既にいくつもの食事が用意されていた。それを見た途端、狛の腹が大きな音を立てて鳴り始める。
「でっけぇ腹の虫だな。まぁ、いつものお前からすりゃずいぶん我慢した方か」
「ううー…!恥ずかしいから言わないでよ、もうっ!」
「普段あんだけ食っといて恥ずかしいもクソも……」
呆れ顔の猫田を横目に、狛はいそいそと席に着くと桔梗が戻るのを待っていた。正直な所、狛にとっては腹の足しにもならない量ではあるが、わざわざ用意してくれた気遣いは何よりも嬉しいものだ。空腹も相まって、食べる前から幸福感を感じられた。それにしても、涎を垂らしながら待つ姿は犬そのものである。
そのまま十分ほどもすると、桔梗が最後の料理を持ってやってきた。待ってましたとばかりにそれらをゆっくりと噛み締めながら、狛は幸せそうに頬張っていく。桔梗も狛が美味しそうに食べる所を見るのは好ましいようで、狛達は束の間の団欒を味わう事が出来たのだった。
「はぁ~…ご馳走様でした!」
「お粗末様。相変わらず、狛の食べっぷりは見ていて気持ちがいいね。あまり量が用意出来なくてすまないけれど、また後で買い物をしてくるよ」
「桔梗さんありがとう!……でも、時間はそんなにないかもしれないの」
「…何があったんだい?昨日、拍が来て君の事を話していたけど……」
「うん、実は……」
それから狛は、
「そう言う事だったのか……にわかには信じ難い話もあるが、納得の行く所もあるな」
桔梗は唸りながらも、概ね狛の話を信じてくれたらしい。目の前にいる犬神となったアスラも、桔梗の足元に現れておすわりしているので後押ししてくれているのだろう。説明を終えた狛はさらに緊張感を持って言葉を繋いだ。
「大口真神さんを助け出せればいいんだけど、どこに連れて行かれちゃったのかも解らないし…もしかしたら今夜にも常世神は復活しちゃうかもしれないの。何となくだけど、そう遠くないって予感がするから……」
「ま、その辺は
「せめて、京介さんに連絡が取れればいいんだけど……後は、弧乃木さんとか新しい
「それに、拍の方も、だね。……全く、
桔梗は頭を抱えて、自らの弟分であった狛達の父、真の名を呼ぶ。元々、桔梗は少し年上だが、狛達の両親とは幼馴染で槐も含めてよく面倒を見ていた間柄だ。彼らの事はよく知っている。だからだろう、槐が犬神家に反旗を翻したと聞いた時は耳を疑ったし、もっと言えば、天が狛を産んでこの世を去った時には運命を定めた神を呪うほどに悲しんだという。狛や拍を我が子のように見守ってきたのもその為である。
真は今頃、きっと自身を狙う怪異への対抗手段を探して放浪しているのだろう。事情は理解しているが、こんな時くらいこの子達の傍に居てやって欲しかったと、桔梗は考えているようだ。
「しょうがないよ……お父さんはお父さんで、大変な事もあるんだって解ってるから」
狛はそう言って笑ったが、その胸に宿る不安は拭いきれそうもない。そんな思いを表情から汲み取って、猫田は何とも言えない表情で尻尾を揺らしている。
ちょうどその頃、一足先に人間界に戻っていた弧乃木は、新
「……と言う訳であります。自分としては、一刻も早く、対常世神の体勢を整えて警戒態勢を敷くべきかと考えます」
「ふぅむ……なるほどなぁ。しかし、警戒態勢と言っても、ねぇ…」
そう言って、禿げた頭を揺らしているのは防衛大臣の古藤という男だ。新
どうも古藤は、弧乃木の上申が気に入らない様である。脂ぎってでっぷりとした身体は、頭までもツヤツヤとテカっているが、汗というより脂が滲んでいるというべきだろう。思わしくない反応に、流石の弧乃木も反論せざるを得ない。
「何故でありますか!?冥府の神が復活するとなれば、日本全体の混乱は必至です!いや、生きとし生ける者の存亡の危機かもしれないのです、我々
「いやぁ、君の言い分は解るんだけどもねぇ。ただねぇ、君達はあくまで自衛隊の下部組織なわけでねぇ。言わば、国の組織なんだよ。それが、神様の言う事をホイホイ聞くってのは、民主国家としてねぇ、どうなの?って話でしょう、ねぇ?」
「そんな…!?」
「それにねぇ、言ってしまえば、その常世神だっけ?それが復活して、本当にどうなるか解らないわけでしょう?いくらお稲荷様の頼みとあっても、危機的状況に繋がるかどうかはその時になってみないとねぇ……もっと言えば、単なる神様同士の勢力争いかもしれないわけで…我々がそれに乗っかるというのはちょっとねぇ」
「な、そ…そんなバカな!?」
「日本は宗教国家ではないのでねぇ、神様が言ったからすぐじゃあそうしますって訳にはいかないんだよねぇ。まぁ、ちょっと考えておきましょうかくらいにしておかないと、ねぇ」
余りにも無責任な古藤の口振りに、弧乃木は思わず拳を握ってしまった。しかし、乗り気でないのは古藤だけではなく、他の幹部達も同じであるようだ。それに気付いた弧乃木は、徐々に言い知れぬ不安感に苛まれていた。
「……そもそも、君は常世神様の何を知っていると言うのかな?先程はこの国の存亡の危機だと言っていたが」
そう言って、一人だけ弧乃木に背を向けていた男が静かに声を上げた。それは支隊の総隊長を務める人物で、弧乃木の上司に当たる高齢の男である。弧乃木が、急に口を開いたその男に視線をやると、男はゆっくりと振り返って凍るような笑みを浮かべていた。
「もしかすると、常世神様が復活すれば、この国はもっと良くなるかもしれないじゃないか。クク、あまり悲観しすぎるのはよくないのではないかね?弧乃木君」
「…な、何を言って……し、
不気味に笑うその男、設楽の顔はまさにあの
「バカな、い…いつから……!?」
「フフフフ、弧乃木君、君はだいぶ疲れているようだ。少し休んだ方がいい。…連れて行きたまえ」
設楽、いや
「……さて、面倒な事になる人間は先に抑えた。これで、常世神様復活に障害はない。後は明日、