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第373話 か細くも深い絆

 ぽっかりと空に空いた穴の先は、漆黒の夜空よりもなお暗い、光を通さぬブラックホールのような空間であった。その穴の先からゆっくりと、深く濃い緑色をした塊がせり出してくる。その大きさは凄まじく、数十メートル…或いは、それ以上の大きさをした途轍もない巨体だ。


「な、なんだあれは……」


「お、終わりだ…この世の終わりなんだ……」


 その光景を日本中の人間が見て、いや、視ていた。北は北海道から南は沖縄まで、全ての人間の脳裏に焼き付くように、常世神の姿が視えている。ある者は終末を予感し、ある者は神に祈り、またある者は絶望して自死を選ぼうとしている。それほどに、常世神が放つ負の想念は強烈で、悍ましいものだ。その力を目の当たりにした志多羅は、満足したように常世神に跪いた。そして、闇に紛れてハッキリと姿形を見せない常世神は空を飛び、何故か人口密集地である東京を素通りして、中津洲市内へと向かって移動を開始した。それはまるで、何かに引き寄せられているかのような、意志を感じさせるものであった。







「はぁっはぁっ…!うぅ、ううう…!」


 その頃、狛は走りながら、息を切らせて大粒の涙をこぼしていた。既に給霊符から供給された霊力を使い果たし、イツとアスラは再び休眠状態に陥ってしまった。当然、人狼化も解けた状態だ。そんな状態で泣きながら走った所で、大したスピードが出るはずもない。あっという間に追いかけてきた猫田に捕まって、狛は遂に観念したのか、その足を止めた。


「狛!落ち着け、お前は何も悪くねぇんだ……これ以上、ヤケを起こすな。相手の思う壺だぞ」


「猫田さん…でも、でもわたし……っ!うう、うわあああ…」


 ポロポロと涙を流す狛を、猫田は大きな尾で優しく包み隠す。今までどんな敵からも逃げたりしなかった狛だが、流石にクラスメイトからの非難には耐えられなかったようだ。無理もない、世の為人の為などとは言わないにしても、懸命に人を守ろうと戦ってきた結果がこれである。少し前の時代なら、犬神家が人々から恐れられ、時に忌まれていた時代もあったようだが、狛にそんな経験はないのだ。例え敵意を向けられることはあっても、怪物として恐れられるのは堪えるのだろう。


 加えて、志多羅から聞かされた父への呪いと母の死の真相が、狛の心に大きな傷を残していた。志多羅の言葉通りなら、父と母の不幸は全て、狛を狙ったことによるものだ。自分が産まれたせいで、父が呪われ母を死に追いやったと聞かされれば、狛でなくとも苦しむのも無理はない。そんな敵の言葉など跳ね除けてしまえばいいのだが、新月によって力を失っている狛からは、その心の強さも失われている。狛は本来、優しすぎる性格なのだ。


(マズいな、この状態じゃ……なんだ?何かが…頭の中に)


「うっ…!?何だ、何が視えてやがる…!」


「あ…ああっ!?」


 その時、二人の脳裏に浮かんだのは、常世神が現世に降臨する姿であった。そして、空を埋め尽くすほどの大きさの常世神が、この中津洲市へ一直線に向かっていることも二人は察したようだ。


「あれが常世神か、大口真神の記憶で見た時よりもずっとデカく、凶悪になってやがるぜ。…こっちに来るつもりだな。狙いは……俺達、か?」


「もう、もうヤダ…私、戦えないよ。戦いたく、ない……」


「狛……」


 普段の猫田ならば、しっかりしろと活を入れる所だが、泣きながら猫田の尻尾にしがみつく狛を叱咤する気にはなれなかった。常々、人間の気持ちなど解らないと言っていた猫田でも今の狛がどれだけ追い詰められているのかは解るからだ。ならば、やる事は一つである。


「安心しろ、狛。お前は俺が守ってやる。俺だけじゃねぇ、京介も朧も…多分、拍の奴だって今ならお前の為に戦ってくれるはずだ。お前ばっかりが傷ついて戦う必要なんかねぇんだ、後は、俺達に任せろ」


「ね、猫田さん……でも…」


 狛は解っている。どんなに傷ついても、本当は自分こそ戦わねばならないのだという事を。猫田が優しく、戦うなと言ってくれることが嬉しい反面、重苦しさも感じるのだ。何故ならそれが、自分に課せられた使命なのだから。だが、心が折れてしまった狛にはあと一歩の勇気が出せないのも事実である。そんな風に逡巡する狛を見て、猫田は笑った。


「…へへっ、なんなら、一緒に逃げちまうか?あんな奴らクラスメイト達は、どうせ守ってやろうとしたって感謝なんかしちゃくれねぇ。お前がどれだけ戦ってきたかも知りゃしねーんだ。見捨てたって罰は当たらねぇよ、神や仏だって、救いようのねぇヤツは捨て置くもんだ」


「そんなっ…!そんなのダメだよ!皆は、皆は悪くないんだから、見捨てるなんて……」


「……だったら、どうする?」


「…解らないよ、どうしたらいいのか。もう、給霊符も残ってないし、補心符だって……」


 手元に残っていたはずの補心符は、狛が給霊符によって一瞬だけ力を取り戻した際、その強い霊力の影響で焼き切れてしまっていた。つまり正真正銘、今の狛には戦う力など残っていないのだ。どうする事も出来ない無力感が、狛の心に蓋をしている。それでも少しずつ、狛に前向きな気持が戻りつつあった。


「なら、一緒に行くか?どうせ一人にゃしておけねーしな。戦えないならお前は俺の背中に乗ってろ、それだけでいい。それだけで、お前が俺の力になるさ」


「猫田さん……」


 猫田は狛の身体を尾で持ち上げて、いつものように自分の背中へ乗せてくれた。何度も乗った猫田の背中が、今日はいつもよりも優しく温かい気がする。狛は子どものように、猫田の身体に手を回すと、その大きな体をぎゅっと力一杯抱き締めた。心のどこかで感じていた、?そんな不安が薄れていくのが解る。


 猫田はそんな狛の様子を背中で感じながら、また笑った。その胸の内では、神域を出発する前に宇迦之御魂神ウカノミタマから打ち明けられた提案が、火種のように燻っている。それを狛に気取られないよう、猫田は努めて明るく声を上げた。


「さて、行くか!俺達の力を、あの芋虫野郎に思い知らせてやるぜ!」


 そんな二人の見上げた空には、巨大な常世神の影が見え始めている。







 ――その頃、ささえ隊本部ビルの地下。

 独房の中に押し込められていた弧乃木と幻場もまた、常世神降臨の姿を地下にいながらにして視させられていた。常世神降臨がこの地であったせいか、ずっと地鳴りのように低く重苦しい音がしていて、押し潰されそうなほどの強烈なプレッシャーが二人を襲っている。


「っ!?い、今のヴィジョンは…?それに、この凄まじい感覚……」


「……どうやら、常世神とやらが現世に戻って来たようだね。これは凄まじい力だ、かつての八岐大蛇に匹敵する…いや、それ以上か。腐っても神というだけのことはあるな」


「そ、そんな!?くそ、こんな所で寝ているわけには…!」


「……落ち着きたまえ、弧乃木君。どうやら、迎えが来たようだよ」


「は?」


 幻場が何かを察し、通路の先に視線を向ける。すると、音もなく何者かが通路を通って独房の前に立った。そして、手にした刀で鍵を切断し、牢の扉を開けてみせる。


「すみません、遅くなりました、幻場さん」


「…ああ、ようやく来てくれたか、京介。それで、は連れて来られたかい?」


「ええ、ちゃんと来ていますよ。今は他の部屋を見てもらってます。お陰様で桃源郷の場所が解らなくて、中国中ちゅうごくじゅうを飛び回る羽目になりましたけどね」


「ハハ、それは済まなかった。しかし、ものだな」


 笑い合う二人の様子に、弧乃木は呆気にとられながらも、幻場の言う迎えに来たという男……京介が只者ではないことを悟っていた。そして、京介は慣れた手つきで再び刀を使い、弧乃木の牢の扉も空けてみせる。


「あ、ありがとう。しかし、あなたは……?」


「ああ、紹介するよ、弧乃木君。彼は秋月京介、かつて生まれ変わる前の私と一緒に、ささえ隊にいた仲間の一人さ。あの頃から生きているのはもう彼と私、それに猫田君ともう一人くらいのものだろう」


「も、もう一人…ですか?」


「ああ、前に言っただろう?私の打った手が間に合えばいいと。私は京介に頼んで、かつての仲間を探しに行ってもらっていたんだよ。この国を救う為には、一人でも多くの仲間が必要だと確信していたからね」


 幻場はそう言うと、キラリと眼鏡を光らせている。その隣に立っている京介は、苦笑しながらよろしくと手を差し出し、弧乃木と握手を交わす。最後の決戦に向けて、常世神という神への反撃の刃が揃いつつあった。

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