夜空に、巨大な影がひしめいている。
相変わらず月はないが、星すらも見えないのは常世神の邪悪な力がこの国を覆い尽くしているからだ。放っておけば、この国を蹂躙しきった後、その矛先は全世界に及ぶだろう。何としてもここで食い止めなければならない。雲間に巨体を隠しながら既に中津洲市の上空に到着していた常世神に向かい、二人は空を飛ぶ。
狛を背に乗せた猫田は、どうやって常世神を攻略するかを考え、攻めあぐねいでいた。何しろこのサイズ差だ、やたらに攻撃した所で、精々針が差した程度のダメージにしかならないだろう。効果的にダメージを与えられるような弱点を探してそこを突かない限り、猫田だけでは勝ち目がなさそうだ。
「…しっかし、まるで龍だな。空でとぐろを巻いてそうだぜ。たかが芋虫の神が、偉そうなこった」
「猫田さん、気をつけて。物凄く、嫌な感じがするから」
狛のそれは予感ではなく、肌で感じる危機感のようなものだ。大口真神の記憶で見た常世神よりも、こうして目の前に現れた常世神は桁違いに強い力を放っている。幸いなのは、こうして近付いても攻撃をしてこない事だ。どこに頭があるのか解らないが、こちらをまだ認識出来ていないのかもしれない。
「もうちょっと近づいてみるか……?」
「ね、猫田さん!あれ!」
「ああ?」
ちょうど猫田が常世神の身体に近づこうとしたその時、芋虫状に並ぶ身体の節の一つから突然巨大な眼球が現れた。その目玉はとても大きく、猫田の身体と同じ位のサイズだ。その大きな眼が真っ直ぐに猫田を見つめると、突如、猫田の身体に異常なほどの圧がかかった。
それは凄まじい力の圧力で、猫田の身体が軋みながら不自然に歪み、捩じ上げられていくようだった。
「ぐぅっ!?っ、がああああっ!こ、これは…あ…あの時のっ!?」
「猫田さんっ!?」
それは邪眼、もしくは凶眼とも呼ばれる、強い魔力を持った視線である。猫田はかつて化け猫の八花へトドメを刺そうとした際に、志多羅と共に妨害してきた強い圧を思い出していた。この力はあの時のそれと同質のものだ。ただし、圧の強さはその比ではない。
あの時は動きを封じられる程度のものだったが、今のこれ身動きを封じる為のものというより、身体全体を捩じ上げて潰してしまおうというほどの、強烈過ぎるパワーを持っている。視線だけでこれほどの力を発揮できるということが、常世神がどれだけ並外れた力を持っているのかを如実に表していると言えるだろう。
ギリギリと引き絞るような音と共に、猫田の身体を締め上げる力が増していく。その視線で捉えているのが猫田だけだからなのか、狛にはその邪眼の影響はないようだ。狛が必死に猫田の名を呼んでいると、二人の頭上から大きな常世神の身体が振り降ろされた。初めから、常世神は猫田を捻じり潰すのが目的ではなかった。ただ、自分の周りを飛ぶ小虫を叩き落とすことが目的だったのである。
「ぐっ……!クソっ、たれが!」
「きゃああああっ!」
巨大な尾のような巨体が猫田に当たる寸前、猫田はなんとか七つの尾を一つに纏めて盾とし、その攻撃を受けた。あまりにもサイズ差があり過ぎて、受け止めるのは不可能だったからだ。
「ぐ、おおおおっ…!!」
尻尾を盾にしたとはいえ、その衝撃は凄まじい。猫田は狛を乗せたままあっさりと吹き飛ばされてしまった。幸い、邪眼の影響からは既に解き放たれていたので、衝撃を逃すように回転して着地する。身体中が痺れるほどの威力に耐え、それでも猫田はなんとか狛を振り落とさずに済んだ。
「猫田さん、大丈夫!?」
「んっ、ぐ…な、なんとかな。しかし、とんでもねぇな、ありゃあ」
猫田は歯を食いしばりながら天を見上げ、未だ上空にいる常世神を睨んだ。すると、ほとんど間を置かず、猫田達を追うように常世神の頭が雲間から顔をのぞかせた。身体は芋虫そのもののようだが、頭部はまるで鬼のように荒々しく、いくつもの角や牙が生えた巨大な顎をガチガチと鳴らして二人を睨んでいるように見えた。以前、記憶の中で見た姿とは全くの別物だった。
「あれが、常世神…!あっ!猫田さん、あれ!」
「おいおい…!冗談じゃねーぞ!?」
狛が指差した先には、常世神の身体がある。その身体が奇妙な形に蠢くとやがて粘土細工のように形を変え、無数の怪物を産み落としていった。だが、あまりにも巨体すぎるのか、産み落とされた怪物達は市内のあちこちに分散しているようだ。狛達を襲うつもりではないのだろうか?
「は、早くなんとかしないと、街中が大変なことになっちゃう!」
「あの不死身の怪物共もまだ残ってるはずだしな…クソ、あの
志多羅の言葉を鵜呑みにしていた訳ではないが、現世に舞い戻った常世神が真っ先にここ中津洲市へと現れたのには、何か理由があるはずだ。それが狛や猫田を標的にしての事だというのは納得できる話だった。しかし、無差別に怪物を産み落とし、街中の人間を襲おうというのでは話が変わってくる。人間を襲うだけなら、人口の多い都内の方がよほど効率がいい話だ。常世神は何を企んでいるのか、それが解らない。
「るるるる……るルロロロロロロロォッ!!」
「きゃっ!あううう……!」
「ぐっ!?あ、頭が……!」
常世神が不気味な鳴き声を上げると、辺り一面が震えて地震のように鳴動を始めた。常世神が邪神とはいえ、およそ神の声とは思えない醜悪な絶叫により、背の高いビルなどは、物理的に常世神と近いせいか屋上付近がひび割れて砕けているさえある。まさに規格外の怪物ぶりだ。
さらに、その声は瞬く間に中津洲市全域へ及び、隣接する市を越えて県全域に、そして日本全土へと拡大していった。常世神降臨を日本中の人々が視たように、脳裏へ直接届く恐るべき神の号哭である。
その声を直下で浴びせられた狛と猫田は、音波兵器のようなその威力をダイレクトに受けていた。耳から入った音が鼓膜を通り、脳を震わせる。人狼化が解けている狛はともかく、耳のいい猫田には特にそれが大きなダメージとなっているようだ。超重力を受けているかのように身体は伏せさせられ、真っ直ぐに立ち上がることさえ出来そうにない。
「ぐ、ぐぐ…なん、て声だ…よっ!」
「ね、猫田さん…ううっ!」
狛は自分の耳を押さえていた手を離し、猫田の大きな耳にそれを当てた。狛の手では大きさ的に耳を塞がせることは出来ないが、せめて気休めでも助けになればと思っての行動だ。そんな二人を嘲笑うかのように常世神は尚も咆哮を放ち続け、二人はその場に縫い留められてしまったかのようだった。その間にも、街には常世神が新たな怪物達を産み落とし続け、次々に数を増やしている。
「……
中津洲市内にある、小さなマンションの一室で、一人の女性が目を覚ました。彼女は窓から空を見上げ、恐るべき怪物がこの地を襲っていることに気付いて深く溜め息を吐く。そして、怠そうな身体を起こして着替えを始めた。
「おい、ようやく起きたと思えば何をしている、
そこへ入って来たのは中年の男…鷲崎八雲だ。二人は槐の地下施設で狛達に敗れた後、密かに用意されていたセーフルームであるこのマンションに逃げ込んでいた。槐が敗北した以上、もはや狛達と敵対する理由もないが、手を貸す義理もない。八雲は失った己の目的の代わりに、あれ以来、傷を負って寝込んでいたレディの世話をしていたようだ。
八雲の言葉を聞き流しつつレディは支度を止めず、ベッド脇に置かれていた水差しを咥えて水分を補給すると、手製の薬タバコに火を点けた。とても良い顔色とは言えない様子だが、意志の強さはしっかりと感じられる。そして、八雲に背を向けたまま、ふぅと息を吐いて答えた。
「あの怪物……ご丁寧に寝ている私にもイメージを送ってきたわ。あれと戦ってるのは
何かを確かめるように、レディは視線を窓の外に向けて部屋を後にした。そんなレディの我儘に八雲は大きな溜息を吐いて頭を搔いてみせた。レディの言った最期とは、誰の最期のつもりなのか問い質す暇もない。八雲は仕方なさそうにレディの後を追って部屋を出た。
後に残ったタバコの匂いもまた、出て行った主を追うようにふわりと流れていった。