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32:蜜の香り

 ケーリィンは宣言通り、地下室の入り口前でディングレイを待つことにした。

 彼女の臨時の護衛であるリズーリと、囮という使途不明の役割を与えられたレーニオとで、食堂の椅子を広間まで運び込み、そこで座り込む。


「ケーリィンちゃん。僕もリズーリ様もいるんだからさ、普段通りに過ごして良いんだよ?」

 珍しく年相応の思慮が伺える口調で、レーニオはそう諭した。

 彼の気遣いはとても嬉しかったが、ケーリィンはゆっくりと首を振る。

「ううん。レイさん、とっても辛そうだったから。それなのにわたしだけ普通に過ごすなんて、出来ません」


 地下室へ降りる前に見た、彼の表情を思い出す。

 苦しさを表に出すまい、と堪える様は涙をこぼす寸前にも見えた。あんな表情、今まで見たことがなかった。

 ケーリィンの宣言に、リズーリは腕組みして唸る。

「……ディングレイ君、辛そうだったかなぁ? レーニオ君はどう思う?」

「んー……僕も、いつも通りの仏頂面に見えましたけどねぇ。まぁ、よく『この世の全てが憎い!』って顔してるから、いつも辛そうと言えば辛そうな?」

「それはレーニオさんが破天荒だから、つい怒っちゃうだけですよ」

 全く自覚のない彼に、思わずケーリィンはため息を吐く。


 ここでロールドがひょっこりと、先ほどのトレイに三人分のマグカップと一冊の本を載せて姿を現した。

「メンテナンスはいつも、長丁場になりますでな。とりあえずはココアでも飲んでみてはいかがかね?」

「やったー! 僕、ココア大好きです!」

 紅茶にも多量の砂糖を投下していたレーニオが、椅子ごと飛び跳ねる。どうやら彼は、度を越した甘党のようだ。

「湖じゃこんなの飲めないからねぇ、ありがたいよ」

 リズーリもにこにことマグカップを受け取り、年寄じみた口調で楽しげだ。


 ケーリィンはぺこり、と頭を下げた。

「おじいさん、ありがとうございます。子どもたちのお世話も任せてしまって、すみません」

「いやいや、今はボードゲームに熱中しておるので、むしろ暇なんじゃよ。そんなわけで――こちらを探してみたわけじゃ」

 ロールドはケーリィンへ、ココアと一緒に本を渡した。赤茶色の装丁の、分厚い本だ。

 また表紙には『シャフティ市史』と書かれていた。


 ロールドは空になったトレイを脇にはさみ、にっこり笑った。

「少しばかり堅苦しい本じゃが、シャフティ市の歴史が細かく書かれておった。これなら、収穫祭のことも載っているかもしれんよ」

「わぁっ、ありがとうございます」

 ケーリィンの、蜂蜜色の瞳が煌めく。それを見つめ、ロールドは満足そうにうなずいた。


 彼がわざわざ探し出してくれた本は、かつてシャフティ市に住んでいた郷土史家による著書だった。

 残念ながら収穫祭の変遷については、さほど詳しく書かれていなかった。代わりに一章丸ごと使って、歴代舞姫に関する記述があった。それは街の栄枯盛衰と、舞姫たちの足跡を照らし合わせたものだ。


 歴代の中でもやはり目を引いたのが、ケーリンより三十年程前に即位した舞姫だ。

 つまり、プラナ市長の憧れの女性でもある。


 ――最も優れた十五代目舞姫によって、街はかつてない豊作が続き、各界の著名人が静養のため訪れる宿場町としても大いに栄えることとなった。

 徳の高い十五代目は甘い芳香を全身から発し、その香りで周囲に多幸感を与え、病に苦しむ住人の痛みも和らげたのだ。

 またその肌は、舞を踊れば淡く光り輝いていた。惜しむらくは重度の椎間板ヘルニアと、それにまつわる精神的な病のため、就任期間が他の舞姫よりも遥かに短かったことであろうか。


 なるほど。先々代が患っていたのは、椎間板ヘルニアだったのか。

(これじゃあ、若いうちに踊れなくなっちゃうよね……心の病気まで抱えちゃうなんて、きっと真面目な方だったんだろうな)

 ケーリィンはしんみり同情しつつも、無意識に腰をさすった。今後は腰のストレッチも、欠かさぬようにせねば。


 隣に座るリズーリも、彼女の手元を覗き込む。間近で美貌を伺えば、まつ毛が恐ろしく長かった。

「あ。これは先々代の、アーティオちゃんのことだね。うんうん、あの子は良い香りがしていたよ」

 懐かしむように視線を遠くへ伸ばした彼は、そうだ、とケーリィンに向き直る。

「ケーリィンちゃんも少し違うけど、とても良い香りがしているね」

「え、わたしが……ですか?」


 徳の高い人物と同列に並べられ、ケーリィンの背中に思わず冷や汗がにじむ。

 それに聖域では、甘い体臭がするなどと言われた記憶がない。リズーリの勘違いではなかろうか。

 しかしレーニオも、この話題に食いついた。

「え、これ体臭なの? てっきり香水でも付けてるんだと思ってた!」

「いえ、わたし香水は持ってないですね……」

 ふるふる、とケーリィンは首を振る。


 レーニオによると、ケーリィンからは蜂蜜を薄めたような、甘い花蜜の香りがするという。

 そこまで具体的に言われれば、彼女にも一つ心当たりがあった。


 ――甘いパンって買ったか? 蜂蜜使ってるヤツ。


 以前にディングレイから、唐突に尋ねられたことがあった。

 あれはたしか、アンシアが訪問した日のことだ。


 今度はカフェオレと、小さなカップケーキを持参のロールドも参戦する。

「そういえば『魔術学』誌の論文に書いておったがね。強い魔力は体から漏れ出て、体臭になることもあるそうじゃ。匂いの質が違うのは、魔力の質が違うからじゃろうね」

「そうなんだ……おじいさん、なんでもご存知で凄いです」

 博識で勉強家な好々爺に、ケーリィンは尊敬のまなざしを向ける。


 へへへ、と年齢の割に可愛らしく照れたロールドは、ちゃっかり持って来た自分用のカフェオレを一口飲み、続けた。

「魔力の質は異なれど、先々代とケーリィンちゃんの志は同じじゃ。きっとケーリィンちゃんの香りも、周りを幸せにする効果があるのじゃろうて」

「そうですよね。だってケーリィンちゃんといると、みんな笑顔になっちゃうし」

 レーニオもくすぐったそうに言って、笑った。


 彼らのそんな温かい言葉こそが、ケーリィンにとっての笑顔の種だ。

「わたしの魔力が甘い香りになったのは、きっと、皆さんが優しくしてくれるから、です。皆さんのおかげです」

「君は、本当に良い子だね」

 美麗なリズーリの細面が、我が子を慈しむような柔らかい笑みを浮かべる。


 レーニオは感極まったかのように、立ち上がるとガバリ!とケーリィンめがけて両手を広げた。

「あーもう! もっと甘えていいんだよ!」

「えっ?」

 そのままびっくりしている彼女へ突進し、抱き着こうとする。


 だが。彼が抱擁する前に、筋肉質の腕がレーニオの頭を鷲掴みにした。

「あがががぁー! 頭が……っ、頭が割れるぅっ!」

 いわゆるアイアンクローに、レーニオは絶叫し、悶絶する。

 腕の持ち主は地下室から音もなく、幽霊のように出て来たディングレイだった。


 ぽい、とレーニオを投げ捨てた彼は、上半身に服を着ていなかった。代わりに包帯が、肌を覆いつくすように巻かれている。

 下半身こそ術衣のような短いズボンを履いているが、そこから覗く足もやはり包帯巻きだ。まるでミイラである。

 どこから見ても重傷者の姿に、立ち上がったケーリィンも、どう接するべきなのか躊躇する。


「あのぅ……レイさん、出て来て大丈夫……なんです、よね……?」

「処置室で休めと言われたから、出て来てやった」

「駄目なんじゃないですか!」

 無茶苦茶である。だが本人は存外ふてぶてしく、鼻息を吐いている。

 時折八歳児らしさを思い切り発露する彼に、ケーリィンはたまらず眉を下げた。

「どうしてそんな、無茶するんです?」

「あんな窓もねぇ、薬品臭ぇ場所で連中に看病なんてされたら、余計に悪化する」


 やはり意味不明な言い訳だ。

 だが傾いた体を壁に預けている様子から、虚勢の裏にある苦痛が伝わって来る。

 またディングレイは言い聞かせたところで、素直に地下へ戻るタマではないと、この場にいる全員が知っていた。


 よってケーリィンがあっさり折れた。ため息を一つ吐き、苦笑いで彼を見上げる。

「じゃあ、元気になるまで待ってます。だから、お部屋でちゃんと寝てくださいね」

「ああ」

 負担にならぬよう、ゆっくりと彼の腕を引いて、歩くのを支えた。控えめに握った手は震えておらず、そのことが何よりもケーリィンを安堵させた。

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