ヴァイノラが舞姫と分かるや否や、警官たちは彼女から飛びのいた。まるでこの娘が、爆弾か毒薬の類だと言わんばかりの怯えようである。
だが、ここ数年のシャフティ市において、舞姫への心証は芳しいものではなかった。率直に言えば「最悪」である。
ケーリィンのドサ回りが功を奏して好感度を回復しつつあるものの、未だ舞姫の不祥事には過敏なのだ。
警官たちの反応も仕方がないものだと、ケーリィンも考える。
なにせ魔物を手土産にやって来たのが、現在治安の悪化が嘆かれているノワービス市の舞姫なのだ。
彷彿とさせるのは無論、シャフティ市の先代舞姫であろう。
「舞姫様のお世話など、わ、我々公僕には到底務まりません!」
そう言ってじりじり後ずさる警官を止める度胸も権利も、ケーリィンは持ち合わせていなかった。
本当なら、二度と関わり合いになりたくない相手であるが。
ケーリィンはため息をぐっと堪え、ヴァイノラへ呼びかける。
「ヴァイノラさん……あの……泥だらけですし、今日はもう遅いですし、ひとまず神殿で休みませんか?」
本音は一刻も早く、ヴァイノラではなくディングレイを休ませたかった。
申し訳ないが、彼女はついでだ。
ディングレイは全身切開された直後に戦い、おまけに魔獣の血液も浴びているのだ。不安しかない。
事実、彼は先ほどからずっと、何かを堪えるかのように奥歯を食いしばっている。両腕で支える身体も酷く熱い。
「そうそう。ここの後片付けは僕たちがやっておくからさ。君はケーリィンちゃんのお世話になると良いよ。どうせ護剣士君たちも、連れていないんだろう?」
リズーリはマルコキアスの死骸と辺りの血痕を見渡し、そして及び腰の警官の首根っこを引っ掴んで淡々と言った。
いつもは美しい
だが彼の冷ややかさ以上に、ケーリィンには聞き流せない言葉があった。
「護剣士さんは……ご一緒じゃないんですか?」
うつむいてだんまりを決め込むヴァイノラと、無表情のリズーリを見比べ、ケーリィンは混乱する。
舞姫が自分の街を、それも護剣士を伴わずに出るなんて、あり得ない。
だが彼女の常識の破壊を、疲れ
「ノワービス市の護剣士は、精鋭揃いで数も多い。整備されてねぇ森ん中だろうが、主を見失うわけがないだろ」
きっぱりと、同業者の彼は断言する。
つまりヴァイノラは、護剣士たちに黙って出て来たのだ。
家出などと言う可愛いものではない。これは立派な、職務放棄と
「……そうなの、ヴァイノラさん?」
痛ましげに顔を曇らせたケーリィンを、警官という壁を失ったヴァイノラが睨み返した。
「だから何だと言うの? それであなたに、何か迷惑を掛けて? 私にだって、一人になりたい時はあるもの」
一切の弁解も説明も放棄する姿に、ケーリィンは少なからず落胆した。
ヴァイノラへの印象は、お世辞にも良くない。いや、いじめられていた相手だ。ほぼほぼ悪印象である。
それでも聖域でのヴァイノラは、比類なき最高の舞姫となるべく、弱者を虐げる以上に自己
踊りの技術で同世代の頂点に立ったのは、周囲のおべっかや親の権力によるものではない。彼女自身の実力によって掴み取ったのだ。
己の中に理想の舞姫像を持ち続け、その実現を信じて疑わないヴァイノラの姿を、ケーリィンは眩しく思うことさえあった。
――その彼女が、職務を放棄した。理想像を失った今、彼女に何が残っているのだろうか。
同期の落胆に気付かず、ヴァイノラはディングレイへ顎をしゃくる。
「あなたがここの護剣士なの? それなのに酷い有様ね……汚らしい」
ただでさえ、ヴァイノラに失望した直後だというのに。
シャフティ市のため、矢面に立って剣を振るった彼への暴言に、ケーリィンは耐えられなかった。
「謝ってください」
ディングレイを支えながら、ケーリィンは冷ややかに声を張った。
彼女からの初めての反論に、ヴァイノラは虚を突かれる。表情を見失ったヴァイノラへ、ケーリィンは畳みかけた。
「レイさんは、ちっとも汚くなんてありません! 本当は安静にしてなきゃいけないのに、街の方々を守るために無理をして戦ってくれたんです! レイさんは誰よりも立派な護剣士です!」
ケーリィンは許せなかった。誰よりも大切な人を、悪しざまに言われることが。
「……それは、舞姫としての職務を放棄した私への、当てつけかしら?」
怒りを押し殺すように、ヴァイノラは笑う。ケーリィンは今までならその悪意にまみれた笑みで、戦意も自尊心も奪われていたが、もう一歩も引かない。
そもそもディングレイを支えたままなので、物理的にも退きようがないのだが。
「ヴァイノラさんがそう感じるなら、そうなんでしょうね」
「ふうん、言ってくれるじゃない……ねえ、あなた。自分の立場を分かっていて?」
怒りに笑みを歪め、ヴァイノラがケーリィンへ肉薄する。拳をきつく握りしめていた。
彼女は殴るつもりなのだろうか。それならディングレイが巻き込まれないよう、庇わなくては。
ケーリィンはそう覚悟を決めるも、ヴァイノラの歩みは魔獣の血と脂によって、鈍く光る剣に阻まれた。
「立場が分かってねぇのは、あんただ」
ディングレイは彼女の眼前に剣先を向けたまま、温度のない声で続ける。
「俺たちの舞姫様が、あんたの保護を許可した。だから神殿には入れてやる。ただな、こっちはてめぇが連れ込んだ魔獣のせいで、疲れてんだよ。くだらねぇ文句言ってる暇があるなら、大人しく従え。嫌なら今すぐ街を出て、二度とツラを見せるな」
怒りで頬を朱に染めたヴァイノラだったが、ディングレイの怒気を真正面から受け、結局悪罵を発せなかった。
なにせ怒った彼は、死神である。
彼女が再び黙りこくったところで、これ幸い、とディングレイがケーリィンを促す。
「リィン。悪いけど、地下の処置室に連れて行ってくれねぇか? ここまで血まみれになると、俺も不安になって来た」
「なってくれないと困ります。わたしも、消毒のお手伝いしますね」
ケーリィンはこくりと頷き、神殿へ
ようやく赤ちゃん鹿から人間に戻ったレーニオが、駆け足でケーリィンの隣へ寄った。
「大丈夫? 僕も手伝おうか?」
「断る!」
「いやいやいや! なんでディングレイさんが断るんですか!」
「お前の手を借りるぐらいなら、舌噛んで死ね」
「僕が死ぬのかい!」
先程までの疲労は吹き飛んだのか、レーニオは地団駄を踏み、そして大きくのけぞった。
「すごい背筋だなぁ」と、ケーリィンは場違いに感心してしまう。リズーリもいつもの微笑に戻り、クツクツと笑って付いて来ていた。
なおもレーニオに悪態をついているディングレイを宥めつつ、ちろりと後ろを見れば。
ヴァイノラは漆黒の表情のままだが、大人しく最後尾を歩いていた。
彼女が神殿にしばらく滞在……そう思うと確かに憂鬱だが。
けれど今は、街の住民が無事だったことを喜び、そして無茶をしたディングレイを労わりたい。