フェンリルには危険な攻撃がいくつもある。
通常攻撃自体威力が高く、タンク以外が食らえば一気に体力を持っていかれてしまうが、奴が牙を用いて行うフェンリルクラッシュは特に注意しなければならない。その一撃は、短時間ながら防御力を大幅に高める防御スキルや、身代わりを生み出して攻撃を肩代わりさせる回避スキルでも用いなければ、タンクといえども致命傷になりかねない。
さらに、突進技のラグナロクストライクに至っては、タンクでさえ一撃死の可能性がある恐るべき技だ。
しかし、それらは脅威であるが、ねーさんがしっかりタンクの役割を果たしてくれていれば、アタッカーの俺が警戒する必要はない。フェンリルクラッシュの対策はねーさんの腕次第だし、ラグナロクストライクはそもそも遠距離のターゲットへ放たれる攻撃であり、近距離でターゲットを取り続けていれば、タンクにもほかのプレイヤーにも降りかかる心配はない。
とはいえ、いくらタンクが頑張ってくれていても、俺達への攻撃が全く来ないわけではない。フェンリルが使う技の中には、タンクがターゲットを固定していても、周囲のプレイヤーに影響を及ぼすものが二つある。
一つ目は、ルナティックハウル。
フェンリルのその咆哮を聞いた者は、抵抗に失敗すれば、一定時間攻撃力が大幅に低下する。この技は影響範囲が広大で、遠距離アタッカーやヒーラーも例外なく巻き込まれる。対策として、アイテムの耳栓を装備すれば防ぐことができるが、耳栓使用時はすべての音が遮断されるため、パーティチャットも含めてすべての音声会話が聞こえなくなり、ソロプレイならともかく、パーティプレイで使うにはデメリットが大きすぎて使えない。ルナティックハウルに関しては、残念ながら、抵抗できるよう祈るしかない。
俺達にとって問題なのはもう二つの技――コールドブリザードの方だ。
この技を発動されると、フェンリルの周囲には猛烈な吹雪が発生し、遠距離アタッカー達までは届かないが、俺のような近距離アタッカーはその効果範囲内に入ってしまう。このブリザードは、食らってしまうと単にダメージを受けるだけでなく、その後も一定時間継続的にダメージを受け続ける。その上、その冷気は行動速度を著しく低下させるため、通常なら2回は攻撃ができる時間で1回しか動けなくなってしまう。
もしもルナティックハウルとコールドブリザードの効果が重なろうものなら、攻撃力と行動回数が半減し、与えるダメージは実質1/4にまで落ち込むことになる。長期戦を避けたい俺達にとって、コールドブリザードだけは、絶対に食らってはいけない技だった。
だが、幸いなことに、このコールドブリザードは、ルナティックハウルと違い、攻撃発動前の予備動作がある。ブリザードを発生させる前に、フェンリルは首をコクコクと素早く二度振るのだ。その動きを見逃さず、即座に離脱すれば回避は可能だった。
とはいえ、フェンリルの背後にいる俺達からは、奴の首の動きは見えない。回避の鍵を握っているのは、タンクであるねーさんだった。ブリザードの予備動作を見た瞬間にねーさんが合図を出し、アタッカー達は一斉に逃げる――この連携がフェンリル攻略に関しては必須なのだ。
――という知識は、フェンリル出現場所に向かうまでの道中、ねーさんが俺に教えてくれたことだった。
俺は目の前のフェンリルへ攻撃を加えながらも、ねーさんへ絶えず意識を向け、その合図を聞き漏らさないよう神経を尖らせていた。
HNM相手の戦いともなれば、ただ目の前の敵を殴ってればいいという単純なものでは済まされない。ダメージ量とヘイトを頭の中で計算しながら、周囲へも目を配る――それは精神をすり減らす戦いだった。だけど、このヒリヒリした緊迫感がたまらない。日常では味わうことのできないスリルと興奮――それが楽しいんだ。
「来るよ!」
ねーさんの甲高い声が響いた。
俺は常にその合図をイメージしてきた。だから、瞬間的に足が動く。もはや反射とも言える動きで、敵に背を向けて全力でダッシュしていた。
こうした仲間の声で敵の攻撃をかわす連携は、以前のインフェルノ戦で鍛えられている。あの時は、メイと俺のコンビで、インフェルノの尻尾をことごとく回避し続けた。今回だって、一度だってミスするつもりはない。すべて避けてやるつもりでいた。むしろ心配なのは、俺以外のほかのアタッカー達――と俺は思っていた。
だが、どうやら俺はHNMギルドのメンバーを、舐めていたらしい。
俺はねーさんの合図からロスなく走り出したつもりだった――それなのに、俺の隣にいたボウイとシア、それにブシも、三人ともが俺の一歩先を走っていた。
――まじかよ!? なんて反応の速さだよ!
直後、背後で猛烈な吹雪が巻き起こる音が聞こえた。
コールドブリザード――その脅威を全員が難なく回避している。驚くことに、俺が一番危ういくらいだ。
料理スキルのおかげで最大ダメージを出せているだけなのに、俺はどこかで自惚れていたのかもしれない。
「ブリザード食らった奴、罰ゲームな。戦闘が終わった後、一曲披露すること」
「えー、それは恥ずかしすぎます!」
「まぁ、結局誰も食らわず終わるってオチなんだけどね」
コールドブリザードを見ながら、アタッカー連中は冗談か本気かわからないそんな軽口を叩き合っている。
――こいつら、なんて余裕なんだ……。
俺は必死でねーさんの声に集中していたというのに、彼らはどこか楽しんでいるようにさえ見える。この連中は、こんなシビアな戦いをこれまで何度もこなしてきたのだろう。それを思えば、経験も技量も俺とは天と地ほどの差があるはずだ。
だが、不思議と悔しさや卑屈な感情は湧いてこない。
――俺が知らなかっただけで、この世界にはまだまだすごいプレイヤー達がいるんだ!
湧いてきたのはそんな興奮だった。この未知なる高みを知り、そこに自分も挑戦できるという期待が、血を熱く滾らせる。
ふと視線を移せば、ねーさんもしっかりとコールドブリザードの範囲外に出ていた。
タンクといえども、この技を受けてしまっては、回復やターゲット固定に支障が出る。回避必須なのはアタッカーと何ら変わらない。
やるべきことを全員が当たり前のように確実にこなす――それがHNMギルドのメンバー達なんだと改めて思い知る。
「そろそろブリザードが収まるよ」
ねーさんの声が響くと、冗談を言っていたアタッカー達の表情が一気に引き締まる。
ブリザードが消えた瞬間、また距離を詰める必要がある。ターゲットを取っているねーさんがこれに遅れると、フェンリルがラグナロクストライクを放ちかねない。次の奴の攻撃の前までには接敵しておく必要があった。
そして、吹雪の壁が消えた。
俺達は一斉にフェンリルへと向けて駆け出す。
今度は俺もボウイ、シア、ブシに負けていない。肩を並べて走り、敵の背後に戻るやいなや、料理スキルを叩き込む。
【ショウの攻撃 フェンリルにダメージ385】
フェンリルの正面を見れば、ねーさんもしっかり定位置に戻り、挑発スキルを使っている。
ここまで、まったく危なげなかった。
キング・ダモクレスを相手していた時は、いくら攻撃を与えても体力ゲージが減るのを実感できなかったが、今回はゲージの減少が目に見えてわかる。
――このままいけば、思ったより早く倒せるぞ!
順調すぎる戦いに、気持ちに余裕も生まれてくる。
油断は危険な兆候だが、気持ちの余裕はむしろプラスに働く。
俺達の戦いは、良い方向に回っている――そう感じられた。
だが、崩壊の予兆はいつだって突然やってくる。
ヒーラー達の近くに、突如モンスターがポップしたのだ。
キング・ダモクレスとの戦場は、モンスターが湧かない場所だったが、それはあの場所が特別なだけ。インフェルノのような専用フィールドでの戦闘でない限り、周囲にフィールドモンスターが出現する可能性は常にある。しかも、このあたりの敵は強敵。パーティで挑まなければ死の危険があるレベルのモンスターだ。
だけど、俺は慌ててはいない。
この場には、フェンリルと戦っている俺達以外に、「片翼の天使」と「異世界血盟軍」のメンバーがまだ残っている。湧いたモンスターを処理すれば、彼らにとって多少なりとも経験値と金を得られる時間つぶしになるはずだ。
だから、すぐに彼らが湧いたモンスターを排除してくれる、そう思っていた。しかし――
――なぜだ!? なぜ、誰も動かないんだ!?
「片翼の天使」も「異世界血盟軍」も、モンスターのポップに気づいていないはずがない。だというのに、誰もそのモンスターに攻撃を仕掛けようとはしなかった。
そして、俺は気づく。
なぜ彼らが動かないのかを。
彼らがフェンリルを取られたのに、まだここに残っているのは、俺達が負けた時に、俺達に代わってフェンリルと戦うためだ。つまり、彼らは、俺達が負けることを期待している。
その彼らにとって、新たに湧いたモンスターというのは、俺達を崩壊させるための要素の一つ。彼らにそれをわざわざ排除するメリットは何もない。むしろ、俺達がそのモンスターに攻撃されることを期待しているのだ。
それは理にはかなっている。かなってはいるが……。
――クソ野郎どもめ!
俺は心の中でそう吐き捨てていた。