スタート時の急加速に合わせて、シートベルトが身体に食い込み、背中のシートクッションがグッと膨らむ。目の前の映像と合わさって、発進時の後ろへのGをリアルに再現していた。
だが、その感触を楽しんでいる余裕は俺にはない。スタートでどちらが前に出るか、それが俺にとって今一番重要なことだった。
二台の青い車が、息を呑むほどの近距離で併走する。
スタートの反応は、どうやら俺の方が勝っていたようだ。
じわじわと俺のプリウスが前へと出ていく。
とはいえ、あちらはスポーツカー、エンジン性能は明らかに上だ。今の有利な状況が覆る前に仕掛ける。車半分前に出たところで、車体後部をクマサンの車のフロントにぶつけて、無理矢理前に出た。
接触の瞬間、シートが激しく震えるが、その振動はまるで「よくやった」と俺を称えているかのようだった。
「ちょっとショウ! 強引すぎじゃない!?」
クマサンから抗議の声が上がるが、勝負に情けは無用だ。
このゲームでは、ほかの車と接触したり、ガードレールにぶつかったりすると、接触によって速度が落ちるだけでなく、加速にもペナルティがつく。タイムアタックを狙うなら、いかに接触せずにうまく走るかが重要だが、タイムは関係のない一対一のバトルなら、接触でいくらタイムをロスしようが、前に出た方が勝ちだ。
「クマサンは強引なのは嫌いかな?」
「何言ってるのよ。すぐに抜き返すから!」
一旦後ろに下がったクマサンが、すぐに距離を詰めてくる。
だが、残念だったな、クマサン。その動きはバックミラーでしっかり捉えているぞ!
このコースの序盤はほぼまっすぐ。そのためコースの確認などほぼ必要ない。俺は神経をすべて後ろのクマサンに集中させ、彼女の動きを見極める。
クマサンが左右に車を振り、抜こうと試みるたび、俺も即座に反応する。ハンドルを切り、車体を寄せて進路を塞ぎ、ぶつけてでも妨害する。
――ズドン
またしても衝撃。シートが激しく揺れ、背中に圧力が加わる。実際の車ならただの事故だが、ゲームの中ではこの振動は「防衛成功」の証だ。誇らしさすら覚える。
「ショウ! 邪魔っ!」
非難混じりのクマサンの声が響くが、俺にとってはむしろ心地よい。
俺の選んだプリウスは、快適性を重視して設計されているだけあって、横幅が広い。そして車高もスポーツカーに比べて高めだ。その結果、狭い峠道ではその巨体が壁となり、後ろの車の視界を遮り、進路を完全にブロックできる絶妙な障害物と化す。これを利用しない手はなかった。
「悪いけど、前には行かせないよ」
「絶対抜いてやるんだから!」
クマサンの声には強い意気込みがこもっているが、そんな気迫さえ俺には愛嬌にしか聞こえない。だからといって手加減するつもりは毛頭ない。相手が女の子だろうと、本気で勝負するのがゲーマーの流儀だ。
俺は追い上げてくるクマサンをことごとく跳ね返し、ぶつけては後方へ押し返す。
「この車、本気で邪魔だよ!」
クマサンの苛立ち混じりの声をBGMに、俺は淡々とハンドルを操り続ける。
前方にはいよいよ連続ヘアピンカーブが迫っていた。
ここからは腕の見せ所だ。峠の醍醐味とも言えるこの180度カーブをいかに素早く、そして正確に攻略するか――それが勝敗を決する。
「ちょっとショウ! 邪魔すぎるんだけど!」
カーブのたびにクマサンの車が俺にぶつかってくるが、インは決して譲らない。
プリウスの車幅をフルに使い、コーナリングラインをがっちり抑える。この道幅と急カーブでは、アウトからの追い越しなど不可能だ。案の定、インに入るのを諦めたクマサンが、無理に外から抜こうとしてくるが、俺はタイミングを見計らい、車体をわずかに振って進路を塞ぐ。結果、クマサンの車はガードレールとの間に挟まれ、抜くことができない。
「何度も俺のお尻にぶつかってくるなんて、クマサンってエッチな子だったんだね」
つい口をついて出た言葉は、からかい半分の悪ノリだった。だが、そう言いながらも笑みを隠せない。
「意地悪な上にセクハラだよ!」
クマサンの抗議の声は、頬を赤らめているように感じられて妙に可愛らしい。そんな想像に、ますます気分が高揚し、俺はふと自問する。
――俺って、もしかしてS気質だったのか?
そんな思考が頭をよぎると、さらに意地悪を続けたくなる。ゴールまでこのまま邪魔し続けたら、クマサンはどんな顔をするだろうか――そんな想像をするだけで、なんだかワクワクしてくる。
「クマサン、勝った方が正義なんだよ」
悪役みたいなセリフだが、言ってみると意外に楽しい。こういう挑発も勝負の醍醐味だ。
連続するヘアピンカーブを抜けた先には短いストレートがあり、その後はまた短い連続カーブが待っている。その区間を超えれば、峠道は終わり、あとは緩やかなカーブと長い直線だ。その直線では抜くポイントがない。つまり、峠のカーブさえしのぎきれば、俺の勝ちはほぼ確定するというわけだ。
そう思って余裕を感じ始めた瞬間だった。
信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
後ろにいるはずのクマサンのフェアレディZが――空から降ってきたのだ。
「ちょっ!? 何それ!?」
「よくわかんないけどジャンプしたよ!」
嘘だろ!?
何度か瞬きするが、目の前の現実は変わらない。クマサンの車は、間違いなく俺の前を走っていた。
どうやら彼女は、ヘアピンカーブを大胆にもショートカットし、俺の前に飛び込んできたらしい。
確かに、このいろは坂では何箇所かショートカットできるカーブのポイントがあること自体は俺も知っている。だけど、クマサンがそれを使ってくるとはさすがに想定していなかった。これは偶然の産物か、それとも彼女が狙ってやったのか……。
――いや、今はそれを考えている場合じゃない! 重要なのは、立場が入れ替わったこの状況で、どうやって再び前に出るかだ!
連続カーブの最後で追い抜かれ、コースは一旦ストレートに変わっていく。
ここでは非力なプリウスに追い抜く力はない。だからこそ勝負の鍵は――次の連続ヘアピンカーブだ。この短い5つのカーブを抜ければ、あとは抜きどころのない平坦な直線。つまり、次の5つのカーブで何としても前に出なければ、俺に勝利は訪れない。
フェアレディZが先行し、俺のプリウスがその後を追う。互いに譲る気のないまま、二台のマシンは、ほとんど一体化するかのように、次の連続カーブへと突入していった。
最初のカーブ、俺はインを狙った。しかし――
「くっ……塞がれた!」
クマサンの見事なブロックに阻まれ、車体を滑り込ませる余地すら与えられない。二台が接触し、激しくシートが揺れる。
「簡単には抜かせてくれないか!」
吐き捨てるが、次のカーブがすぐに迫る。先ほどの接触で体勢が整わず、ここでは攻められない。俺の狙いは――三つ目のカーブだ。
「次こそ!」
再び激しくインを攻める。ハンドルを握る手に力がこもり、タイヤが悲鳴を上げる。
しかし――
ガツンっ!
フェアレディZの車体とガードレールに挟まれ、弾き飛ばされたのは俺の方だった。
「クマサン、邪魔!」
「勝った方が正義なんでしょ♪」
自分で言うのはいいが、人から言われるとなかなかに腹立たしいものだ。
それにしても、このプリウスは横幅が広い分、妨害には有利だが、抜こうとする時には逆に足枷になる。
4つ目のカーブ、アウトから攻めようとするが、フェアレディZとガードレールの間には隙間がない。まるで、鉄壁の要塞だ。
――残されたチャンスは、最後の五つ目のカーブしかない。
俺は車体をわずかに滑らせ、限界ギリギリの速度でカーブへと突っ込む。
――このまま弾き飛ばしてでもインを取ってやる!
しかし、俺はそこにアナザーワールドでのタンクのクマサンを見た。鉄壁のように立ちはだかるクマサンのフェアレディZは、俺を後ろへと弾き飛ばし、前をキープし続けた。
――クマサンのフェアレディZが大きく見える……。
レースはまだ終わっていない。
だが、残りのコースで俺が抜けるポイントはなかった。
彼女のお尻を追いかけたまま、クマサン、俺の順番でゴールラインを通過する。
――負けてしまった。
ハンドルを握ったまま、しばらく席から立てず項垂れる。
ショートカットの可能性を頭に入れていなかったのが敗因か、それともプリウスで挑んだこと自体が間違いだったのか。悔しさが胸に渦巻く。
俺はシートベルトを外し、重い身体を引きずるようにシートを降りる。すると、先にシートから降りていたクマサンが、得意げな顔ですでに待ち構えていた。
「途中、随分邪魔をしてくれたみたいだけど、最終的には私の勝ちだね」
勝ち誇った顔を浮かべながら、クマサンは指でツンツンと俺の肩を突いてきた。それは、レース中後ろから何度もぶつけてきたクマサンを思い起こさせる。
もし俺が勝っていたら、こんな行動もきっと可愛いと思えたのだろう。しかし、負けた今となっては、それが余計に小憎らしい。
「ほれほれ、勝者に対して何か言うことはないのかね?」
クマサンは飽きもせず、指で突きながら楽しげに言う。……意外と彼女もS気質なのかもしれない。
敗者としては、ここは素直に賞賛の言葉を贈るべきだろう。しかし、こんな挑発を受けながら「おめでとう」と言うだけでは、こちらの気が済まない。ならば――
「おめでとう、クマサン!」
言葉と同時に、俺はクマサンのわき腹に指を思い切り突き立てた。
「ふにゃん!?」
クマサンは何やら可愛い声を上げて身体を思い切りくねらせた。
その声と仕草があまりにも可愛らしく、思わず笑いをこらえきれない。
体勢を立て直したクマサンが、頬をぷくっと膨らませながら、上目遣いでこちらを睨んでくる。
……もしかしたらわき腹は彼女の弱点なのかもしれない。
「……ショウ」
鋭い視線を向けられ、俺は笑いかけていた顔を真顔に戻す。
……ちょっとやりすぎたかもしれない。
「よくもやったな!」
叫びと同時に、クマサンはジャンプして全身で俺に体当たりを仕掛けてきた。
思わず一瞬身構えたものの、その攻撃は思ったほど強くはなく、俺は足を一歩も動かさずに受け止める。
――タンクのクマサンはあんなにもずっしりとしているのに、リアルのクマサンはこんなにも華奢な女の子なんだな。
彼女の髪から甘いシャンプーの香りを感じながら、俺は改めてそんなことを実感してしまった。
「ごめん、クマサン。改めて、リベンジの機会をお願いします」
わき腹攻撃への謝罪として頭を下げると、さっきのボディアタックでとりあえず満足してくれたのか、クマサンはいつもの調子を取り戻し、にっこりと笑みを浮かべた。
「そこまで言われたらしょうがないね。受けて立ってあげようじゃないの」
勝者の余裕だろうか、彼女はとても楽しそうに見えた。
こうして、俺達はそのままゲームセンターで、夢中になって遊び続けた。競い合ったり協力したり、時にはふざけ合ったり――気がつけば何時間も経っていた。
気がつけば日も暮れていたため、クマサンを家まで送り届け、俺は夜道を一人、自分の部屋へと向かう。
夜風が心地よく頬を撫でる中、俺はふと今日一日の出来事を思い返していた。
「今日は楽しかったなぁ。クマサンと二人で遊びに出かけたのって初めてだよな……」
ぽつりとつぶやき、少し考え込む。
「あれ? そういえば、そもそもの今日の目的って二人で遊ぶことだっけ?」
そもそも別の目的で誘われたような気もするけど……まぁ、そんなことはどうでもいいか。
とにかく楽しかった――それで俺には十分だった。