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第153話 芦見ねこ

 ミネコさんが芦見ねこだとして、彼女がそれを隠しておきたいのであれば、その意思は尊重すべきだ。それは理解している。これがほかの誰かであれば、俺も深入りするつもりはなかっただろう。だが、相手があのミネコさんなら話は別だ。

 普段は「にゃん、にゃん」と独特の世界観を築き、気まぐれな猫のような振る舞いを見せる彼女が、実は清楚系アイドルだったとしたら――そんな面白い話を放っておけるはずがない。それに、彼女なら正体を探っていることがバレたとしても、冗談めかして笑って許してそうな気がする。

 そして、もう一つ、彼女が本当に芦見ねこなら、一言だけでも礼を伝えたかった。テレビでクマーヤの名前を出してくれたことへの感謝を。

 もちろん、たとえ彼女の正体を知ったとしても、それを他人に漏らすつもりはない。俺の胸の内にしまい込み、決して誰にも明かさないつもりだった。

 だが、問題は、どうやって確かめるかだ。正面から問いただしたところで、正直に答えてくれるとは思えない。ならば、別の方法を考えるしかない。


 不意を突く――それが俺の考えた手だった。

 単純だが、意外と効果的な方法。彼女が気を抜いている瞬間を狙い、背後からふいに「芦見ねこさん」と呼びかける。その一言に対して、無意識に反応するかどうか――それを確かめるのだ。

 ただし、このやり方には慎重を期する必要があった。もし本当に彼女が芦見ねこだった場合、人前で呼びかけてしまえば周囲に気づかれ、大騒ぎになりかねない。それは俺の望むところではなかった。

 だから、試すならば、人目のない場所でなければならない。


 ――そんな都合のいい機会が、果たして訪れるだろうか?


 そう思っていた矢先、そのチャンスは思いのほか早くやってきた。

 ワルターの街で、俺が一人でクエストをこなしていると、視界の端に見慣れた集団が目に入った。HNM狩りの帰りなのか、ヘルアンドヘブンのメンバー達が大勢この街へと流れ込んできたのだ。しかも、すでにユニオンやパーティは解散しているらしく、それぞれが単独で行動している。

 そんな中、群れから離れ、一人で街を歩くミネコさんの姿を見つけた瞬間、俺の心臓が軽く跳ねた。


 ――今しかない。


 俺はできるだけ気配を消し、足音を忍ばせながら、それでも足早に、前を歩くミネコさんへと近づいていく。

 周囲を確認する。人影はない。通りに店はあるが、ここはゲームの世界だ。現実とは違い、外の声が店の中まで聞こえるようなことはない。多少大きな声を出したとしても、内容が漏れることは絶対にあり得ない。

 俺は深く息を吸い込み、意を決して口を開いた。


「――芦見ねこさん?」


 その名を呼ぶと同時に、俺はミネコさんの動きに全神経を集中させる。

 返事をしなくてもいい。わずかに肩を揺らす、歩調が乱れる、あるいは一瞬でも振り向く――そんな些細な変化さえあれば、それが答えになる。

 だが――

 ミネコさんはまるで何も聞こえなかったかのように、そのまま歩き続けた。完全な無反応。


 ……違ったのか? それとも、ただ聞こえていないだけなのか?


 刹那の間に、思考がぐるぐると駆け巡る。だが、次の瞬間――思いもよらない方向から、返事が返ってきた。


「はい?」


 ――え?

 驚きに息を詰まらせながら、俺は声のした方向へと視線を向ける。

 そこには、ちょうど俺の真横にある店の扉が開かれ、シアが顔を覗かせていた。


「シアさん……?」


 ミネコさんに集中するあまり、彼女が店から出てきていたことにすら気づいていなかった。それに、俺が呼んだのは「芦見ねこ」だ。

 「シア」と「芦見ねこ」、似ているとは言い難い。


「えっ……あっ……」


 俺が戸惑っていると、シアの顔がみるみる赤くなり、そわそわと落ち着かない様子を見せる。まるで思わぬ現場を押さえられたかのように。

 単なる勘違いにしては、反応が怪しすぎる。


 ――まさか。


 俺の中で、一つの可能性が浮かび上がる。


「……もしかして、シアさんって芦見ねこだったりする?」


 その問いかけに、シアは一瞬、息を呑んだ。

 その瞬間、彼女の表情がわずかに揺らぐ。驚き、困惑、そして、どこか恥ずかしさを滲ませたような色合い。ちらりと俺を上目遣いで見つめるその瞳には、否定でも肯定でもない、曖昧な光が宿っていた。


 ――なんだ、その反応は!?


 普段の落ち着いたシアとは違う。戸惑いを隠しきれず、どこか頼りなげな彼女の姿に、俺は思わず見とれそうになってしまう。いやいや、違うだろ。俺が今確認したいのはそこじゃない。

 そんなわけないよな――そう冗談めかして言おうとした、その時だった。


「……ほかの人には内緒にしてもらえますか?」


 シアが小さな声でそう言った。


 ――え?


 思考が一瞬凍りつく。


「……本当にシアさんが芦見ねこなの?」


 おそるおそる問い直すと、シアは恥ずかしそうに、でも確かに、こくりとうなずいた。


 ――マジかよ……。


 「ミネコ=芦見ねこ」の可能性は考えていたが、「シア=芦見ねこ」の選択肢は、頭の片隅にもなかった。

 だって、「ミネコ」と「あしみねこ」だよ? どう考えてもそっちを疑うじゃん!


「……ちなみに、芦見ねことミネコって名前が似ているけど、何か関係があったりする?」

「いえ、何も……。芦見ねこは本名なので」


 そっかぁ。本名なのかぁ。それはしょうがないよな……。

 冷静に考えれば、芦見ねこがわざわざ「ミネコ」なんて似た名前でプレイするはずがない。俺の推測は完全に見当違いだったわけだ。


「だよねー。本名だったら自分の名前に関係したキャラ名つけたりしないよね」


 俺が肩をすくめると、シアはほんの少しだけ躊躇してから、ぽつりと言った。


「……でも、『シア』は芦見の芦を逆読みして付けたんです」

「…………」


 そっちかー! まさか「あしみねこ」で、「みねこ」の方ではなく「あし」の方がヒントだったとは……。なんというか、惜しいところまではいっていたのかもしれない。

 しかし、俺の予想は外れたとはいえ、思わぬ形で芦見ねこのアナザーワールドでの姿を知ってしまった。

 そういえば、シアとテレビで見た芦見ねこの雰囲気は、どことなく似ている気もする。

 でも、いざ本人だとわかると、急に彼女の正体を探ろうとした自分に罪悪感が芽生えてきた。


「……ごめん、シアさん。この前、テレビでクマーヤのことを話してくれたおかげで、配信の同接数がかなり伸びたんだ。そのお礼を言いたくて……。あっ、もちろん、シアさんが芦見ねこだってことは、誰にも言わない。それは約束する!」


 慌ててそう付け加えると、シアは一瞬驚いたように瞬きしてから、ふっと微笑んだ。


「……はい。ショウさんのことは信じます」


 彼女の穏やかな声に、俺はほっと胸を撫で下ろす。もし正体がバレたことでゲームを引退されたり、別キャラで一からやり直しなんてことになったら、さすがに罪悪感がヤバかった。それに、誰にも言わないと信じてもらえたことも、このままシアとしてゲームを続けてくれることも、素直に嬉しい。


「……えっと、私が出たあの番組、見てくれてたんですか?」

「リアルタイムじゃなくて、後から配信で見たんだけどね。でも、まさかあんなところでクマーヤの名前を出してくれるなんて、びっくりしたよ」

「だって前に、ショウさんと、クマーヤの宣伝をするって約束しましたから」


 ……え? そんな約束、したっけ?

 俺は頭の引き出しを開けて、記憶を探る。

 …………。

 そういえば、ボイスチャットで、そんな話をしたような気がする。

 でも、たしかあれは、「可能な範囲で宣伝お願い」みたいな、気楽な会話だったはず。

 てっきり、周りの友達に勧めるくらいの話だと思っていたのに、まさかテレビで宣伝してくれるとは……。


「……そこまでしてくれるとは思わなかったよ」


 俺が驚きと感謝の入り混じった声を漏らすと、シアは照れくさそうに笑った。


「ショウさんに頼まれたら、やるしかないですよ」


 そんなふうに、当たり前のように言ってくれるシアを見て、俺は思わず頬をかいた。

 ――なんだろう、この感じ。

 胸の奥がくすぐったいような、不思議な感覚に戸惑っていると、シアの表情がふと曇った。さっきまでの朗らかな雰囲気とは違う、どこか探るような目。迷うように唇を結んだ彼女は、意を決したように問いかけてきた。


「……ところで、ショウさんは芦見ねこというアイドルについて、どう思ってました?」


 唐突な質問に、俺は思わず瞬きをする。

 どう思っていたか……?

 漠然としすぎていて、すぐには答えが出てこない。何か気の利いたことを言うべきかと考えたが、焦りもあって、つい正直に答えてしまう。


「え、あ、ごめん。あの番組を見るまで、芦見ねこさんのことはよく知らなくて――あっ」


 しまった。

 言った瞬間、自分の失言に気づく。

 本人を前にして、「よく知らない」なんて、あまりにも失礼すぎる。しかも、クマーヤを宣伝してくれた恩人相手に……。

 慌てて謝ろうとするが、その前にシアが小さく息をつき、どこか納得したように優しく微笑んだ。


「……そっか。知らなかったんですね」


 なんだか気まずくなった気がして、自然と目を合わせられなくなった。

 だけど、次に顔を向けたとき、シアは意外なことに気を悪くした様子ではなく、それどころか、どこか安心したようにさえ見えた。


「だったら、これからもショウさんは、シアとして私のことを見てくださいね」

「……うん」


 よくわからないが、俺の迂闊な一言は、問題にはならなかったらしい。

 むしろ、この言葉が彼女にとっては正解だったのかもしれない――そんな気がした。

 何となく安堵していると、シアがふと思い出したように手を叩き、俺を見つめた。


「あっ、そうだ。口止め料というわけではないですけど――」


 その瞬間、目の前にシステムメッセージが表示される。


【シアがトレードを申し込んでいます。受けますか? はい/いいえ】



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