口止め料? そんなものを要求するつもりは毛頭ないんだが……。
そんなことを思いながらメッセージを見つめ、とりあえず「はい」を選んだ。
すぐにトレードウィンドウが表示され、シアの側に一つのアイテムが選択される。
そのアイテム名を見た瞬間、俺の眉がピクリと動いた。
――狂気の仮面。
……なにこれ?
名前からして不吉すぎる。呪いのアイテムだと言われても、全く違和感がない。
――もしかして、シアは内心、俺のことめちゃくちゃ怒ってたりしないよな……?
急に背筋が寒くなる。
ちらりとシアの顔を見ると、彼女は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
しかし、もしも彼女が本当に怒っていたとしたら――逆に、この笑顔のほうが怖い。
若干の不安を覚えつつも、トレードは完了し、俺の所有アイテム欄に「狂気の仮面」が追加された。
「……あの、シアさん、これって?」
警戒しながら尋ねる。彼女の怒りを買っているのなら、すぐに土下座くらいはするつもりだ。
「さっきHNMの『不死王ネクロヴァルド』を倒してきたんですけど、そのドロップアイテムです」
「――――!」
俺は驚きで言葉を失った。
不死王ネクロヴァルド――それは、アンデッドの王とも呼ばれるHNMだ。アンデッド系には料理スキルが使えないため、恐らく俺には一生縁のない敵と言っていい。そんなモンスターのドロップ品ともなれば、俺が手に入れる方法は、大量の金を積んで誰かから買うくらいしかない。
狂気の仮面は市場でも見たことがないし、もしかすると、とんでもないお宝かもしれない。
高まる期待を抑えつつ、シアの顔を見る。けれど、彼女はなぜか申し訳なさそうに口を開いた。
「ロットで私が手に入れたんですけど……ちょっと、私には使いこなせそうになくて……」
膨らんだ希望の隣で、不安がざわめく。
何かある。彼女の言葉から考えて、決して単なるレアアイテムではないのだろう。
嫌な予感を抱えながら、俺は急いで手に入れた「狂気の仮面」の説明を確認した。
【狂気の仮面】
【この仮面を身につけると、狂気に取りつかれ、相手にした敵を、命懸けで倒さねばならない仇敵だと認識してしまう。そのため、通常攻撃、アイテム使用、補助系・回復系スキルは使用不可、攻撃系スキルしか使用できなくなる。その代わり、攻撃系スキルのダメージは1.2倍になる】
こ、これは……。
まさに「狂気」の名の通り、危険な装備だった。
通常攻撃を封じられ、回復も補助できず、アイテムすら使えない。
タンクやヒーラーにとっては、自らの首を絞めるだけの装備だ。
アタッカーにしても、通常攻撃が封じられるのは致命的。攻撃スキルはSP消費が激しく、連発できるものではない。まるで縛りプレイを強制されるような装備……普通のプレイヤーなら、こんなもの手に入れても倉庫の奥に封印するだけだろう。
「ショウさんなら使いこなせるんじゃないかと思って……。ダモクレスの剣のお礼にはとても足りませんけど、会えたら渡そうと思っていたんです」
彼女はわかっているのだ。普通のアタッカーにとっては自らを縛る枷にしかならないこの装備が、料理人の俺にはたいしたデメリットにならないことを。
基本的に通常攻撃のダメージは1。戦闘の主力は、消費SPの少ない料理スキル。実際、俺が敵に与えるダメージのほぼすべてが料理スキルによるものだ。
サブ職業を白魔導士にすることが多いので、回復や補助の封印は痛いが、ダメージ1.2倍はそれを補って余りある。
「……シアさん、俺ならこの狂気の仮面を使いこなせる……いや、それどころか、まるで俺のためにあるような装備だよ」
「そう言っていただけるのなら、ロットで勝ち取った甲斐がありました」
「ありがとう、シアさん!」
思わず礼を言うと、シアの顔がぱっと明るくなった。
俺は手に入れたレアアイテムの効果を噛みしめ、思わず笑みをこぼす。
そんな俺の様子を見て、シアはまるで自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
「喜んでもらえたなら、私も嬉しいです」
形だけの言葉じゃないことは、彼女の表情を見ればわかる。
本当に、いい人なんだよな……シアって。
俺がそう思った瞬間、まるで見透かしたかのように、彼女は少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
そして、小さく囁く。
「ダモクレスの剣のお礼のつもりでしたけど……口止め料だと思ってください。だから、私が芦見ねこだってことは、二人だけの秘密ですからね」
その言葉に、心臓が一瞬だけ跳ねる。
本気で口止めするつもりじゃないことは明らかだった。むしろ、俺にアイテムを渡すための口実にしている。
彼女はきっと、俺がこの秘密を誰にも漏らさないと信じてくれているのだ。
その信頼が、俺の胸の奥に罪悪感を呼び起こす。
――シアは、今回のことがなくてもレアアイテムを俺に渡そうとしていた。
それなのに、俺は……。
シアの正体を探ろうとしたわけじゃない。
けれど、アナザーワールドの世界で、キャラの「中身」を確かめようとしていたのは事実だった。
身近にクマサンという、同じような境遇の人がいるというのに……俺は、一体何をしていたのだろうか。
ギルドを結成してから、VRもリアルも楽しすぎて、俺は知らず知らずのうちに調子に乗っていたのかもしれない。
――ごめん、シアさん。それに、ミネコさんも。
俺は心の中で二人に詫びる。
「俺の包丁に誓って誰にも言わない。この秘密は墓場まで持っていく」
真剣な表情で告げると、シアは小さく笑った。
「言っても誰も信じないとは思いますけど……よろしくお願いしますね」
彼女は微笑んだ。
この信頼には、応えなければならない。
ギルドメンバーであっても、シアの秘密は話せない。たとえ、それがクマサンであっても――
俺は、強力な装備を手に入れると同時に、自らの過ちを深く心に刻んだ。
翌日、俺は一人、街の喧騒を離れ、ひっそりとした森へと足を踏み入れた。「狂気の仮面」の効果を確かめるには、誰にも邪魔されない場所が必要だった。
この森は、プレイヤー達にはあまり人気がない。経験値稼ぎの効率が悪く、手に入る素材も凡庸。狩場としての魅力に乏しいため、パーティを組んだプレイヤー達はあまり寄りつかない。
高レベルプレイヤーが、低いレベルのプレイヤー達の狩場を自己都合で荒らすのは推奨される行為ではないので、何かを試すのにはちょうどよい場所だった。加えて、この森には動物系のモンスターが多く生息しており、料理スキルを試すのにも適している。
「さて……試してみるか」
俺はアイテムウィンドウを開き、「狂気の仮面」を選択する。アイテムウィンドウから直接装備することもできるが、やはり装備前に実物を見ておきたい。
次の瞬間、俺の手に淡い光が瞬き、仮面が実体化した。
「これが狂気の仮面か……」
俺は手にした仮面をまじまじと見つめる。
白い仮面。フルフェイスではなく、顔だけを覆うデザインだ。材質は不明だが、プラスチックに似た軽さでありながら、指で弾くと金属を思わせる硬質な響きが返ってくる。
無機質な造形は、人間の顔を模している。滑らかな曲線を描く楕円形のフォルム。目の部分には鋭い横長の黒いスリットが刻まれ、やや吊り上がった形状をしている。鼻の部分は存在せず、口元には細く赤い線が引かれていた。それは、真一文字のようにも、静かに笑っているようにも見える。白い表面に映える黒と赤のコントラストが、なんともいえない不気味さを際立たせていた。
「狂気の仮面」という名にしては、派手さはない。むしろ簡素で、静謐ですらある。しかし、真の狂気とは、暴力的なものではなく、こうした沈黙の奥底に潜んでいるものなのかもしれない。
俺は仮面をそっと顔に当て、装着する。ベルトや耳に掛ける部分がないのに、顔にすっと収まった。
これが現実なら視界が狭くなりそうなものだが、ゲーム世界のおかげで視界には影響はない。むしろ何もつけていないかのようだ。
俺は身だしなみウィンドウを開いた。
現実世界なら鏡でも使わないと自分の顔を見ることはできないが、アナザーワールドでは、身だしなみウィンドウを開けば、あらゆる角度から自分の姿を映し出すことができる。
「……意外と格好いいんじゃないか、これって」
ウィンドウに移る自分の姿を見て、思わず口元がほころぶ。
白い仮面をつけた俺の顔には、無機質な静謐さが漂い、どこか異質で孤高な印象を与えていた。感情を押し殺したその造形は、どことなく怪しく、それでいてクールだ。
中二心をくすぐるというか、今までの俺になかったスタイリッシュさが漂っている気がする。
そう思いながら、自分の姿に見入っていたその時――ふと茂みの奥で枝の折れる音がした。
俺は目を凝らし、モンスターの存在を探る。
「……この仮面の効果を試すにはちょうどいいな」
視線の先にいたのは、