俺は包丁を握りしめ、茂みの奥の魔猪をじっと見据えた。
木々の間から降り注ぐ光が毛並みを黒光りさせ、その小さな瞳には野生の警戒心が宿っている。だが、俺にとっては丁度良い実験台だ。
森の奥に進む途中、いくつかのモンスター相手に通常時のダメージを確認している。その中には、この魔猪も含まれていた。その時の「輪切り」によるダメージは150。
「さて、狂気の仮面の効果……見せてもらおうか」
俺は包丁を構え、ゆっくりと間合いを詰めた。魔猪が警戒したように鼻を鳴らす。
しかし、それは無駄な抵抗だ。
俺は一気に距離を詰めると、スキル「輪切り」を発動する。
【ショウの攻撃 魔猪にダメージ182】
【魔猪を倒した】
魔猪の断末魔が虚空に消え、残されたのはその屍のみ。
ダメージは約1.2倍。期待通りの結果だった。
「これは……使えるぞ!」
確かな手応えを感じ、俺は満足げに拳を握る。
この狂気の仮面、俺にとっては最強クラスのレアアイテムとされるダモクレスの剣よりも価値がありそうだ。
あの時、シアにダモクレスの剣を渡して良かった。あれがなければシアとの関係も生まれておらず、俺がこの仮面を入手することなんてなかったはずだ。
そんな感慨にふけっていたその時――
突然、戦闘警告のシステム音が響いた。
「……え?」
魔猪との戦闘はすでに終わったはず。それなのに、再び強制的に戦闘状態に突入する。
これは、敵のほうが先にこちらを攻撃対象として捉えたということだ。
「……前と後ろ、挟み込まれたか」
気づけば、森の薄闇の中、前と後ろにそれぞれ敵の影が一つずつ。
二匹ともホブゴブリンだ。
ホブゴブリンはゴブリンよりも一回り大きく、能力も高い。ちなみに、「ホブ」の意味は、「田舎の」だとか、「大きい」だとか言われることがあるが、どこの誰かが広めた俗説で、「ホブ」自体にはそういう意味はないらしい。もっとも、だったらどういう意味なんだと聞かれても、俺は正しく答えられないけど。
とにかく、俺はそのホブゴブリンに挟み撃ちにされていた。
とはいえ、所詮は序盤のモンスター。今の俺の敵ではない。
「さて、どう料理してやろうか……って、こいつらには料理スキルは使えないんだったな」
魔猪と違い、ホブゴブリンは食材をドロップしない敵なので、料理スキルが通用しない。
面倒だし、攻撃力も大きく劣るが、普通に武器を持ち替えて戦う必要があった。普通の武器だと、料理スキルのダメージと比べれば大きく落ちるが、さすがに今さらホブゴブリンに苦戦するようなことはない。
「……ただ、装備の変更は面倒なんだよな」
腰に剣でも提げていれば、そのまま武器の持ち替えができるが、使用頻度が低いため、俺は武器の類をアイテムボックスに収納していた。そのため、アイテムウィンドウを開いて装備を変更する必要がある。
俺はすぐにアイテムウィンドウを開こうとした――が、そこで問題が起こった。
【狂気の仮面装備中はアイテムウィンドウを開けません】
非情なシステムメッセージが目の前に浮かぶ。
……ちょっと待って。
アイテムが使用できないって、もしかして装備の変更もできないってことなのか……。
てっきり、回復アイテムや魔法のスクロールが使えないだけだと思っていただけに、想定外だ。
目前のホブゴブリンは唸り声をあげ、戦意を剥き出しにしている。
このまま包丁で戦えないことはない。まともな武器に比べれば、威力は大きく劣るが、ホブゴブリン程度ならなんとかなるだろう。HNMを相手にした時のように、ダメージ1ってことはない。ただ、負けはしないが、時間がかかるのは確かだろう。
「……あっ、この仮面を外せばいいのか」
名案を思いついた気がして、装備変更のためにアイテムウィンドウを開こうとし、すぐに現実に気づく。
「アイテムウィンドウは開けないんだった……」
ならば直接外すまで――そう思って顔の仮面に手を伸ばしたが、まるで皮膚と一体化したようにピクリとも動かない。
「えっ……? まさか、一度つけたら二度と外せない呪いの装備ってことはないよな?」
アナザーワールドは、基本的にユーザーの快適性を考えて設計されている。そのため、これまで、着脱不可になる不条理な装備の存在は聞いたことがなかった。だけど、新たに追加された可能性までは否定しきれない。
「さすがそれは……。一生このままとか、冗談じゃないぞ」
焦燥が胸をかき乱す。
だが、冷静に考えれば、戦闘中だから外せないだけの可能性もある。むしろ、そちらのほうが自然だろう。
ならば、戦闘を終わらせさえすれば、仮面を外せるかどうかがわかる。
問題は、その戦闘をどうやって終わらせるかだ。
選択肢は二つ。倒すか、逃げるか。
敵が一体なら迷わず後者を選ぶが、今回は前後を挟まれている。ホブゴブリンは意外と俊敏で、逃げるにしても相当の距離を走り続けなければならないだろう。その間に殴られるリスクを考えると、下手に逃げるよりも、戦ったほうが早いかもしれない。
それに――
「……このレベルで、ホブゴブリン相手に逃げる姿を誰かに見られたら、シャレにならないな」
動画のおかげで、俺の名はそこそこ知られている。この森は狩場としては微妙な場所だが、それでも誰もいないなんてことはない。万が一、殴られながら逃げているところを見られでもしたら――掲示板にその無様な様子を書かれかねない。
そのリスクを考えれば、逃げは選べない。結果として、面倒でも包丁で戦うしかなかった。
「くそっ、せめてクマサンに付き合ってもらえばよかった……」
愚痴をこぼしつつ、俺は前方のホブゴブリンに向かって駆け出した。
一匹に攻撃を仕掛ければ、すぐにもう一匹が駆けつけ、二対一の状況になるのは避けられない。だからこそ、そうなる前に一匹目の体力を少しでも削っておく――それが今、俺にできる最善策だ。
「食らえっ!」
疾走の勢いそのままに、包丁を振り下ろす。
……が。
……あれ?
本来なら、攻撃がヒットした瞬間にダメージ表示が浮かぶはず。なのに、今回は何も出ない。
それどころか、手応えすらなかった。
刃が肉を裂く感触も、衝撃の反動も、何もない。ただ、包丁の先がホブゴブリンに触れただけ、そんな感覚だった。
「……あ、そういえば」
間抜けなことに、いまさら思い出す。――狂気の仮面は、通常攻撃が不可。
そもそも、通常攻撃ができないというのはどういう仕様なのか、疑問に思っていた。コマンド式のRPGなら「攻撃」コマンドを無効化するだけで済むが、VRゲームの場合はどう処理されるのか――その答えが、目の前のホブゴブリンに包丁を振り下ろした結果だった。
攻撃動作自体はできるが、それが「攻撃」として認識されない。ダメージ判定が発生せず、ただのモンスターの体に触れるだけの無意味な動作となる。
なるほど、これが「通常攻撃不可」の仕様か。妙に納得してしまったが、だからといって問題が解決するわけじゃない。
ホブゴブリンはまだ健在で、俺は丸腰同然。つまり――
状況は悪化の一途をたどっている。
疑問が解消されたのはいいが、ホブゴブリンをどうするかという肝心の問題が何も解決されていない。それどころか、余計にヤバイ状況になってきた。
ここまで接敵してからの逃走となると、離脱までかなり時間がかかる。そうなれば、必然的に間抜けな姿を見られる可能性が高くなるわけで……。
「……最悪だ」
攻撃手段がない以上、俺にとれる選択肢は逃げることだけだ。しかし、ここまで接敵してからの逃走となると、離脱までかなり時間がかかる。そうなれば、必然的に間抜けな姿を誰かに見られる可能性が高くなるわけで……。
俺は深くため息をつき、全力で逃げ出そうとした時、ふとスキルウィンドウに目を向け、違和感に気づいた。
「……あれ? 料理スキルが発動可能状態になっている……?」
ホブゴブリン相手に使えるとは思っていなかったので、確認すらしていなかったが、魔猪戦と同じように、攻撃として使えるすべての料理スキルが使用可能を示す白文字で表示されていた。
「……理由はまったくわからないが――とりあえず、使えるのなら使うまでだ! スキル、半月切り!」
【ショウの攻撃 ホブゴブリンAにダメージ220】
【ホブゴブリンAを倒した】
確かな手応え。
手元から放たれた刃が、まるで料理のようにホブゴブリンを切り裂く。気づけば、敵は断末魔を上げることもなく崩れ落ちていた。
――マジでホブゴブリン相手に料理スキルが発動した!?
驚きながらも、すぐさまもう一匹のホブゴブリンへと向きを変える。
「スキル、いちょう切り!」
振り下ろした包丁が閃光を描き、ホブゴブリンの胴を正確に切り裂いた。
【ショウの攻撃 ホブゴブリンBにダメージ244】
【ホブゴブリンBを倒した】
二匹目のホブゴブリンも、糸が切れた人形のように崩れ落ち、ピクリとも動かなくなる。
「……倒した。……料理スキルで」
信じられない。でも、信じざるを得ない。
足元には、俺の手によって葬られた二体のホブゴブリンが横たわり、辺りは静寂に包まれている。敵がいなくなったことで、戦闘状態も解除された。
その瞬間、俺は思い出したように、顔に手をやる。
「……外れた」
戦闘中、いくら引っ張ってもビクともしなかった狂気の仮面が、あっさりと外れた。まるで最初から何の拘束もなかったかのように。
どうやら装備変更不可の効果は戦闘中のみのようだ。
俺はほっと胸を撫で下ろした。いくらミステリアスで格好いいからとはいえ、今後一生仮面をしたままのプレイはさすがに困る。
それにしても――
「……どうして急に料理スキルが、ホブゴブリン相手に使えるようになったんだ?」
何か理由があるはずだ。
俺は思考を巡らせながら、狂気の仮面の説明を改めて思い出す。
【狂気の仮面】
【この仮面を身につけると、狂気に取りつかれ、相手にした敵を、命懸けで倒さねばならない仇敵だと認識してしまう。そのため、通常攻撃、アイテム使用、補助系・回復系スキルは使用不可、攻撃系スキルしか使用できなくなる。その代わり、攻撃系スキルのダメージは1.2倍になる】
……狂気。……仇敵だと認識。
……もしかして。
一つの仮説が脳裏をよぎる。
この仮面を装備すると、俺の思考は狂気に染まり、敵を「絶対に倒さなければならない存在」として認識する。そして、その結果――
「料理スキルの対象として認識できる敵」の条件すらも、狂気によって歪められるのではないか?
そう考えると、辻褄が合う。
通常なら、料理スキルは「料理の食材となり得る対象」にしか適用されない。しかし、狂気の仮面を装着すると、どんな相手であっても俺の認識が「料理可能な対象」として上書きされる……。
つまり、この仮面をつけている限り、敵の種族や形状に関係なく、俺の料理スキルが適用されるということだ。
もしこの仮説が正しければ、他のプレイヤーにとってはほとんど意味のない仕様だろう。だが――
「こんなの、攻撃1.2倍さえ霞むほどの効果だ! 俺にとっての正真正銘の神アイテム!」
興奮で思わず狂気の仮面を持つ手が震える。
狂気の仮面が俺にもたらす恩恵は、単なるダメージ強化の比ではない。
この仮面さえあれば、ゴブリンのような人型モンスターはもちろん、アンデッド系、ゴーレム系、スライム系といった、本来なら料理スキルの適用外だった敵すらも、「料理可能な相手」として扱えるようになる。
まさに世界が変わる。
「……落ち着け、俺。まだ、そうと決まったわけじゃない。結論を出すには、もっと確認が必要だ」
俺は逸る心を落ち着け、再び静かに狂気の仮面を身につけた。
そうだ。もっといろいろな種類のモンスターと戦い、確認をする必要がある。何かの仕様で、ホブゴブリン相手にだけ料理スキルが使えた可能性だってゼロじゃない。
「……悪いが、この森は今から俺の実験場だ」
俺は包丁を片手に、森の奥へと身を躍らせた。
――結果は、俺の推測通りだった。
森で遭遇したすべての敵に、料理スキルが使用可能だった。スライムにすら、俺のスキルが発動する。
もう、疑う余地はない。
こうして俺は、今まで避けるしかなかった敵と戦うための、新たな力を手に入れたのだった。