幸いミコトさんは、クマサンの微妙な変化には気づいていないようだ。しかし、もし何かを感じ取られでもしたら、せっかくのお祝いムードに水を差すことになりかねない。
それだけは避けなければならない。
俺は意識的に話題を変えることにした。
「それより、ザッハトルテを食べてよ! せっかくミコトさんのために作ったんだから」
「ありがとうございます……でも、私一人食べるのって、なんだか気が引けちゃいますね……」
ミコトさんは嬉しそうに微笑みながらも、少し申し訳なさそうにテーブルの上のケーキを見つめた。
本来なら、こうしたケーキはみんなで切り分けて食べるものだ。けれど、ここは仮想現実――『アナザーワールド・オンライン』の世界。このゲームでは、料理を一度に食べられるのは一人だけという仕様になっている。驚くほどリアルな味覚を再現しているのに、一つの料理効果を複数人が享受するのを防ぐためか、シェアという概念が存在しないのだ。
だからこそ、俺は抜かりなく準備していた。
「大丈夫、ちゃんと人数分用意してるから」
そう言いながら、俺は事前に用意していたザッハトルテを具現化し、クマサン、メイ、そして俺自身の前にも置いていく。
「こっちは、私が持ってきたショートケーキでも食べようかと思っていたけど……やるじゃないか、ショウ」
メイは感心したようにうなずく。
「メイやクマサンにも食べてもらいたかったからな」
俺はそう言いながら、そっとクマサンの様子を窺う。さっきまでの険しさはすっかり消え、どこか穏やかな表情を浮かべていた。それを確認し、密かに胸を撫で下ろす。
やはり、スイーツの力は偉大だ。
「それでは、いただきます」
全員の前に並べられた円形のチョコレートケーキ。ミコトさんが両手を合わせると、俺達もそれに倣い、静かに手を合わせる。
『いただきます』
俺は気づかれないようにしながら、ミコトさんの様子をそっと伺った。
彼女は慎重な仕草でフォークを手に取り、ケーキにそっと刃を入れる。滑らかなチョコレートの層が、フォークの圧に応じてしっとりと割れた。光を吸い込むような深いブラウンの表面は、まるで上質な絹のように艶やかだ。
小さく切り分けた一片を、ミコトさんはそっと口元へ運ぶ。そして、ゆっくりと噛みしめた途端――その表情が幸せそうに緩んだ。
「美味しいです! 濃厚なチョコレートの甘味が口いっぱいに広がって……でもすぐにアプリコットの爽やかな酸味が顔を出して、チョコレートの風味に鮮やかな変化をもたらしてくれます!」
まるでプロの食レポのような流暢な言葉が、彼女の小さな口から自然とこぼれ出る。
……本当に高校生なのか?
思わず疑いそうになるが、高校生ならではの感受性の高さがあればこそ、豊かに味を感じられるのだろうとも思う。
「ああ、本当に美味しいな」
「俺もこのケーキは好きだ」
メイとクマサンも満足そうにケーキを口に運んでいる。特にクマサンは、不機嫌そうにしていたのが嘘のようにニコニコと綻んでいた。その様子に、俺はようやく本当の意味で安堵する。
「……喜んでもらえたようで、嬉しいよ」
俺も自分のザッハトルテにフォークを伸ばし、一口頬張った。
……うん、美味しい。
しっとりとしたチョコレートの食感と、ほのかなアプリコットの酸味。その絶妙なバランスが、じんわりと舌の上で広がっていく。甘さは決して重すぎず、まるで上品な旋律を奏でるかのように、口の中を優しく満たしていく。
この一口の中には、確かに「幸福」が詰まっている気がする。
でも、それは俺の料理の腕前によるものではない。
何を食べるかよりも、誰と食べるか――そんな言葉が、ふと脳裏をよぎる。この三人と一緒に食べているからこそ、感じられる「幸福」の味なのだ。
俺はケーキと幸せを噛みしめながら、ふとミコトさんに話しておかねばならないことがあったのを思い出した。
「……そうだ、ミコトさん、ちょっと話があるんだけど」
「はい、なんでしょうか?」
「今度、ミコトさんのご両親に話をさせてもらいたいんだけど、また都合のいい日を教えてもらえるかな?」
その瞬間、空気が張り詰めた。
三人ともフォークを持った手を止めたまま、視線だけを俺に向けている。
え、何、この状況!?
自然と冷や汗が流れる。
「……父と母に挨拶ですか? ……えっと、私たち、まだ告白もしていないと思うのですが……あ、いえ、気にしているわけではなく、嬉しいんですよ! でも、順番的にどうなのかと……あ、私もこういうの初めてでよくわかってはいないのですが……」
ミコトさんの顔がみるみる赤く染まっていく。視線は迷子のようにさまよい、声は妙に早口になっていった。
だが、俺には彼女の言っていることがよくわからない。
それに、問題はそれだけではなかった。両側からはクマサンとメイの刺すような視線が向けられている。特にクマサンからの視線の鋭さが半端ない。視線から物理的な痛みを感じる気がするが、クマサンの目からは何か特殊なものが出ているのだろうか?
「ミコトさん、確かにご両親に挨拶はさせてもらうけど、Vチューバーの報酬を払うにあたって、税金や保険の扶養の関係もあるし、一度ご両親にしっかり話をさせてもらったほうがいいと思うんだ。娘が急によくわからないお金を得ていると知ったら、不安に思われるだろうし」
「え、あっ、そういうことですか。……わかりました。父と母やに聞いてみます」
ミコトさんは慌てたように口元を押さえ、羞恥に頬を染めながらうつむいた。
何か勘違いしていたようだが、どうやらそのことに気づいてくれたようだ。
「……びっくりした」
「……まぎらわしい言い方をするからだ」
メイとクマサンからもトゲが消えていた。口調は責めるようだが、顔はほっとしたように見える。
なんだかわからないが、俺が迎えた最大の危機は、どうにか回避されたようだ。
「二人と違って、ミコトさんはまだ未成年だからね。ゲームではいつも支えてもらっているけど、リアルでは俺達大人がしっかり支えてあげないと」
「……そうだな、ミコトはまだ未成年だからな。うん、未成年だ、未成年」
俺の意見に激しく同意してくれたのか、クマサンが何度も深くうなずいている。クマサンもミコトさんとの付き合いは長いはずだ。きっとお姉さんとして、何か感じるものがあるのだろう。
だけど、今度はなぜかミコトさんが、小さく頬を膨らませ、少し拗ねたような表情を浮かべていた。
「確かに今は未成年ですけど……来年には18歳なんですからね」
そう言ってどこか意味深な瞳で俺を見つめてくる。
うん、そうだね。今日で17歳なんだから、来年は18歳だね。子供でもわかる事実だ。
……でも、なぜだろう。彼女の言葉には、どうにも単純ではない含みを感じる気がする……。
「なんだ、来年はもっと盛大に祝ってほしいってことか?」
危うい空気を察知したのか、メイが冗談めかしてミコトさんをからかう。
「ち、違いますよ!」
「わかってるって。ほら、そんなことより、ショウのケーキを食べようぜ。このあとは、四人で狩りに行くんだから。今日はミコトの狩りたいものを狩りに行くぞ」
「え、本当ですか? じゃあ、どこに行こうかな……」
フォークを片手に、ミコトさんは期待した顔で首をかしげた。
……よかった。メイのおかげで雰囲気が元の感じに戻った。
俺が感謝の意を込めてメイに軽く頭を下げると、彼女は微笑みながらウインクを返してくる。その仕草がいつもとのギャップで妙に可愛く映ったせいか、心臓がトクンと小さく跳ねた。
――そんなこんなで、俺達はミコトのバースディを四人で楽しく過ごしたのだった。