クマサンと手を握るのは、これが二度目だった。
一度目は、アナザーワールドの「人狼の館」で。あの時のクマサンの手は、毛がフサフサで、俺よりも大きくて硬かった。
――なのに、今この手は、どうしてこんなに小さくて、華奢なんだ!?
拳の上から手を重ねただけ。それなのに、力を入れれば壊れてしまいそうなほど繊細な感触が、指先から伝わってくる。リアルの女の子の手って、手の甲でも、こんなにも柔らかいんだ……。
――って、違う! 今はクマサンの手の感触を分析してる場合じゃない!
我に返った俺は、慌ててクマサンから手を離した。
「ご、ごめん、クマサン! なんか、つい興奮しちゃって……」
もはや謝罪というより言い訳だった。でも、わざとじゃないのだけはわかってほしい。
「……別に、気にしてないよ」
クマサンは優しかった。突然手を握られたのに、少しも怒る素振りを見せなかった。
ほっと胸を撫で下ろした、その直後――
「……そのままでもよかったのに」
彼女がぽつりと何かをつぶやいた。
けれども、焦りがまだ頭に残っていた俺は、その言葉をうまく聞き取れなかった。
ぼそっと毒を吐かれてたら、泣いてしまうかもしれないが――どうもそういうわけではなさそうだ。
クマサンは顔を赤くしているが、それが怒りによるものじゃないことくらいはさすがにわかった。その赤さの理由は気になるところだが、とりあえず怒りによるものでなければ、今はいい。
俺は今の失態を誤魔化すように、話題を変えることにした。
「……この前のイベント、一応俺も自分で編集して動画にしてみたんだけど……公式のやつがここまで完成度高いと、わざわざ公開しなくてもいいかなって思えてきたよ」
「え、どうして?」
「さすがに動画の完成度が違い過ぎるし……それに、今回の動画をアップしたら、俺達とクマーヤの関係があまりにもバレバレになるし」
「それは今さらだね」
クマサンが薄く笑った。
確かに、俺達がクマーヤをやっていることは、公式には明言していないものの、無関係だと思ってる人は、ほとんどいないだろう。インフェルノ討伐動画を始め、今までアップしてきたアナザーワールド・オンラインの動画を見れば、クマーヤと三つ星食堂に繋がりがないと思うほうが不自然だ。
とはいえ、中身をオープンにしているVチューバーもいるものの、多くの視聴者にとって、中の人がわかっているVチューバーほど萎えるものはない。リアルから切れ離されているのが、Vの良さの一つでもある。
クマーヤの正体に関しては、可能な限りぼかしておきたい。
「……今さらかもしれないけど、見てくれる人を裏切りたくはないしね。それに――クマーヤの正体が熊野彩だってバレる危険性は少しでも減らしたい。クマーヤの活動が、クマサンが声優復帰するときに役に立つのならいいけど、間違っても足を引っ張るようなことしたくないからね」
そう、俺の一番の懸念事項はそれだった。
クマーヤは大切だけど、それ以上に、クマサンの未来が大事だった。
そんな俺の言葉に、彼女はまっすぐな目を向けてきた。
「――もしかして、ショウって……クマーヤとして活動している時、ずっと私のこと気遣ってくれてたの?」
「――――? そんなの当たり前だろ?」
俺にしてみれば、何をいまさらって話だった。でも、彼女は目を見開いたあと、ふっと優しく笑った。
「……そうだよね。ショウはそういう人だよね」
「そういう人」という言い方が気になる。彼女には、俺がどのように映っているのだろうか? クマサンは納得したような顔をしているが、俺には逆に疑問と不安がよぎる。
だが、俺がその意味を問うより先に、クマサンが口を開いた。
「ねえ、ショウ。声優熊野彩のことは、もう気にしなくていいよ。私ね――ショウが一緒なら、Vチューバーとして一緒に歩んでいく覚悟、もうとっくにできてるから」
「――――!?」
彼女の言葉は俺の心を激しく揺さぶった。
それは彼女が声優の道を諦めるということであり、熊野彩の一ファンとしてはとても寂しい。
でも、それだけじゃない。彼女が声優復帰した際には、クマーヤの活動――彼女と過ごすこの時間――が終わりを迎えるだろうと思っていただけに、これからも続く二人の未来を彼女が口にしてくれたことに、嬉しさが込み上げてくる。
「いや、でも、クマサン――」
何か言おうとする俺の手をクマサンが握った。
彼女の手から伝わってくる柔らかな力強さが、それ以上の言葉は不要だと語っていた。
――そうか、彼女はとっくに覚悟を決めていたんだ。
むしろ、迷っていたのは、俺の方だったのかもしれない。
「――これからもよろしく、クマサン」
「うん!」
うなずいた彼女の笑顔は、まぶしく、思わず見とれるほど綺麗だった。