俺達が次にやってきたのは、ボートに乗ってのどかに恐竜達のいる世界を巡り――最後に滝から滑り落ちるというアトラクションだった。
――うん、その「最後の部分」がいらないね。
ゆったりと景色を楽しむだけで俺は十分なんだ。でも、ミコトさんの前でそんな情けないことは口が裂けても言えない。
俺達は、ファストパスを使って、並んでいる人達を尻目に前へと進んでいく。
……俺的には、心の準備のためにしばらく並んでいてもよかったんだけどな。
「楽しみですね」
「……そうだね」
途中までのボートでのクルージングに関してはその通りだ。俺だって男の子、恐竜は好きだ。
「最後の落下、高さ約26メートルらしいですよ」
「……そうなんだ」
そういう具体的な数字を出すのはやめてもらいたい。
26メートルって、普通に落ちたら確実に死ぬ高さだよ?
どうしてそれを笑顔で言えるのか、俺には理解不能だ。
そして、ファストパスのおかげ――いや、ファストパスのせいで、俺達はあっという間に最前列付近にまで来てしまった。
――そんなに急がなくてもいいのに!
必死の念も虚しく、次のボートが到着。
前に並んでいた人達が次々と乗り込んでいく。
ああ、もう乗ることになるのか――と思った、そのとき。
俺達の直前で定員に達し、次のボートに回されることになった。
――助かった。
心の準備のため、わずかでも猶予ができたのは大きい。
今日の俺、運がいいのかもしれない。
「ショウさん、やりましたね! 私達、一番前に乗れますよ!」
「……え?」
……しまった。それを忘れていた。
「やっぱり、こういうのは先頭が一番ですよね!」
いや、最初のアトラクションでは、俺もそう思ってたけど、バーチャルじゃなくリアルな奴は、前に乗りたくなんてないんだけど!
ああ、やはり俺は運がない……。
ふと周囲を見渡すと、後ろに並んでいる人達が透明なポンチョを着用し始めていた。
そうだ。このアトラクション、ラストの滝落ちで特に前方座席は容赦なく水をかぶるらしい。
来る途中に見かけたポンチョ販売機の存在が、今さらながら頭をよぎる。
「……ミコトさん、濡れちゃうかもしれないけど、大丈夫? 制服だし……」
ブレザーの上着があるから、「シャツが濡れて下着が透けて見えちゃう!」なんて展開にはならないにしても、大事な制服をずぶ濡れにしては問題があるだろう。
もし彼女が少しでも困るようなら、俺はここで勇気ある撤退を選んでもいいとさえ思っている。そう、これはあくまで彼女のためであり、決して俺が怖いからではない。
だが――
「何を言ってるんですか! こういうのは濡れるのが楽しいんじゃないですか!」
満面の笑顔。……ああ、もう逃げ道は完全に断たれた。
そして――次のボートが到着。
俺達は、先頭の席に並んで座る。
――ああ、なぜだろう。
最初のアトラクションでは、前に誰もいないのが気持ちよかったのに、今回は前に誰もいないのがひどく心細い。
安全バーは一応設置されているが、身体をがっしりホールドするタイプのものではなく、膝の上に降りてくる横一列のラップバーのみ。しかも、体型の差なのか、そのバーと身体の間には妙な隙間がある。何かの拍子に身体が飛び出すんじゃないかという不安が、脳裏をよぎる。
「出発前のこのワクワク感と緊張感っていいですよね!」
俺より身体が華奢なミコトさんは、明らかにバーとの隙間が大きいはずなのに、微塵も怖がっていなかった。今まで気づかなかったが、彼女は俺以上に精神的にタフなのかもしれない。
そして、ボートがゆっくりと動き出す。
人工的に作られた川を滑るように進み、両岸には恐竜達の姿。
この先にある滝の存在を知らなければ、きっとこの恐竜達の様を楽しめたことだろう。だけど、頭の片隅に常に「滝」の存在が居座っていて、景色なんてほとんど目に入ってきやしない。
やがて、このクルージングは緊急事態を迎える。ボートが安全な草食獣のエリアではなく、肉食獣のいる危険なエリアへと迷い込んでしまった。
あっていいのだろうか、そんなミスが? 管理体制は一体どうなっているんだ!
などと心の中で文句を言っているうちに現れたのは――巨大なティラノサウルス!
迫る咆哮と、その口――!
ああ! いよいよ来てしまった!
川が終わりをつげ、目の前の水路が消失し――俺達は空へ。
無重力に近い感覚。だが、これはむしろ「重力そのもの」だ。
落下するという事実が、体中に突き刺さる。
安全バーを掴む手に、無意識のうちに力がこもる。
息もできない落下の中、隣からのミコトさんの叫び声が飛び込んできた。だが、それは悲鳴ではなく、歓声にしか聞こえない。うん、すごいよ、君は。
そして、着水とともに大量に上がる水しぶきが舞い上がる。
幸か不幸か、最前列でありながらびしょ濡れとまではいかなかった。けれど、それでも十分に「濡れた」といえる程度には水を浴びた。
だが、とにかく俺はやり終えた。
無事に生き伸びることができたのだから、多少の濡れなど感受しよう。
「楽しいですね!」
命の価値を感じている俺と違い、ミコトさんの声は興奮に満ちていた。
呆れ半分、感心半分で隣の彼女を見ると――水しぶきを浴びて水滴が光を反射した彼女は、その濡れ具合による絶妙な艶っぽさと相まって、とても美しかった。
思わずドキリとさせられ、17歳の高校生というのは、もう子供ではないのだと改めて実感する。
「……そうだね、楽しいね」
ミコトさんと一緒なら――そう心の中で付け加える。
やがてボートは終着点で止まり、濡れたままの俺達はボートを降りた。
通路の先には、先ほどのアトラクションと同様、ライド中の一瞬を切り取った画像がモニターに表示されている。
そう、このアトラクションには落下途中に撮影ポイントがあって、その画像を写真にして購入することができるのだ。
俺とミコトさんは、モニターに映し出されている画像を確認する。
――まぁ、そりゃそうなるよな。
モニターに映る俺は、引きつった表情で必死にバーを握りしめ、まさに「情けない」の一言だった。
しかし、その隣には――
笑顔で両手を挙げるミコトさんの姿。完璧な瞬間を切り取ったような一枚。
――オーケー、ミコトさん。君の勝ちだ。
悔しさはない。ここまで差があるのなら、そもそも勝負のステージが違っていたということだ。
「ショウさん、撮られるタイミングが悪かったみたいですね」
違うんだ、ミコトさん。落下中、俺はずっとそんな感じだったんだ。
「ミコトさんは楽しそうないい笑顔で映ってるね」
先ほどのアトラクションの時もそうだったが、なぜ彼女はこうも最高の瞬間を撮られてしまうのだろうか?
「あはは、実際楽しかったですからね」
シンプルだがいい答えだ。
「じゃあ、これも二人分買っておくよ」
「え、また買うんですか? さっきも――」
「さっきはさっき、これはこれ」
こんな可愛いミコトさんが写っている写真を、金さえ出せば手に入れることができるんだ。その機会を逃す理由はない。それに、この写真を見れば、さっきのキラキラした美しいミコトさんをすぐに思い出せるはずだ。
そうして、俺はまた一枚、二人の写真を手に入れた。
服や髪はまだ濡れているが、今日はお日様も出ていて暖かい。この程度ならすぐに乾くだろう。それまでの間、休憩するのにはちょうどいいタイミングかもしれない。
なんて思っていたのに――
「では、前菜はこのくらいにして、次に行きましょうか! 私、後ろ向きのコースターに乗ってみたかったんですよ!」
ぜ、前菜だと!? 彼女にとって26メートルの落下など、ただのウォーミングアップに過ぎないというのか!?
それに、後ろ向きコースターって何だよ! 考えた奴はバカなのか!?
「ミコトさん、一旦休憩を――」
「さぁ、行きましょう!」
そうやって俺は、問答無用に次の修羅場へと引きずられていった。
そして、散々ミコトさんに付き合った俺は――死んだ。
いや、物理的にではなく、精神的に、だけどね。
実際、アトラクションの合間に食事もしたはずなのに、何を食べてどんな味だったのかも覚えていない。
レシートは俺が持っているので、ちゃんと俺が支払いを済ませたのは確かなようでよかった。
「……ショウさん、今日は付き合ってもらってありがとうございました」
ミコトさんの行きたいアトラクションはすべて回り終え、もう帰る時間を迎えていた。
絶叫系に乗り始めてからは、記憶が多少曖昧になっている部分もあるが、楽しかったという思いだけはしっかり胸に残っている。
「お礼を言うのは俺の方だよ。こんなに楽しかったのはずいぶんと久しぶりだったし」
それは俺の本当の気持ちだった。
ミコトさんも同じ気持ちでいてくれたら――そう思って顔を向けた瞬間、彼女の表情に、これまでにはなかった翳りが差していることに気づいた。
――あれ? なんだ、この雰囲気……?
胸の奥にざらりとした違和感が走る。
思い当たる失言や失態を脳内で総ざらいしてみるが、特に心当たりはない。
そんな俺の混乱をよそに、ミコトさんが静かに口を開いた。
「……ショウさん、私、明日、高校を辞める手続きをしに行くんです。だから……今日が、高校生として最後の日なんですよ」
「え……?」
突然の告白に、言葉を失う。
冗談じゃないことは、すぐにわかった。
真剣な横顔と、決意を宿した瞳――それがすべてを物語っている。
その瞬間、ようやく気づいた。
なぜ彼女が、わざわざ制服を着てここに来たのか。
それは、「高校生の自分」に別れを告げるため。そして、「高校生としての最後の日」を、ちゃんと自分の中に残すためだったんだ。
――なのに俺は、制服姿のミコトさんと一緒に遊べるって、ただ浮かれていただけだった。
気づけば、俺は彼女から視線を逸らしていた。
どんな顔をして向き合えばいいのか、わからない。
「ここには、高校生としての最後の思い出作りのために来ました。今までこの制服を着て、あまりいい思い出ってなかったんですけど――ショウさんのおかげで、最後にこの制服で一番楽しい思い出が作れました。ありがとうございます」
その言葉に、俺は再び彼女の方に顔を向けた。
そこにいたのは、後悔でも迷いでもなく、澄んだ瞳で前へ進む決意を秘めた表情のミコトさんだった。
その顔を見たとき――
ああ、今日俺がしてきたことは、間違いなんかじゃなかったんだ、そう思えた。
鈍感でバカな俺は、彼女の気持ちになんて全然気づけてなかった。だけど、ただ隣で笑って、騒いで、一緒に楽しんで……。
それがきっと、彼女の望んでいたことだったんだ。
だけど、一つだけ、どうしても気になってしまったことがある。
「……最後の思い出作りの相手が、俺なんかで良かったの?」
それは素直な疑問だった。
最後のパートナーに俺を選んでもらえたことは光栄に思う。だけど、自分がミコトさんのお相手として役者不足なことは、俺自身が誰よりもわかっている。
でも――
「ショウさんだから良かったんです」
ミコトさんはそう言って笑ってくれた。
その言葉が――心の奥に、深く、優しく、染み込んでくる。
「学校にいた頃は、それが私の世界のすべてだと思っていました。でも、『アナザーワールド・オンライン』に出会って、そしてショウさんと出会って――世界って、もっとずっと広いんだって知ることができたんです。高校を辞めて、高認を取って、大学を目指すって選択に踏み切れたのもショウさんのおかげです」
そう言ってもらえるのは嬉しい。けれど、俺は特別なことなんて何もしていない。ただ、彼女と一緒にゲームをして、時々ふざけて、笑って……それだけだったはずだ。
もしかしたら、クマーヤのVチューバー活動を通して、彼女は「こんな世界もあるんだ」って思ってくれたのかもしれない。
あるいは――無職のニートのくせにのんきにオンラインゲームを楽しんでいる俺を見て、「こんな大人もいるんだから、自分はまだまだ大丈夫だ」って思えたのかも。……それはちょっと複雑だけど、彼女の力になれたのなら、それでいい。
ただ――
彼女が「ありがとう」と言ってくれるのなら、俺も何か返したい。
だけど、今の俺には、彼女の未来に直接役立つような力がない。
勉強を教えることも、導いてやることもできない。
だから――
「ミコトさん、そう言ってもらえて、本当に嬉しい。でも……今の俺にできるのは、君の選んだ道を、全力で応援することだけだ。これから先、もしかしたら君の決断を否定する人も出てくるかもしれない。だけど――どんなときも、俺はミコトさんの味方でいる。君の選んだ道が、正しいと信じてる。この世界に、君を信じて応援し続ける人間が、少なくとも一人は確実にいるって、それだけは忘れないでほしい」
「……ショウさん、ありがとうございます。それが――何よりも心強いです」
味方がいないことほど、孤独で辛いことはない。
彼女は、もう子供じゃないけど、まだ大人とも言い切れない――そんな年頃の、17歳の女の子だ。
だから、俺だけは、どんなときでも彼女の味方であり続けると心に誓った。