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第211話 幻の楽譜

 すっかり仲間達に嫌われたダミアンを、俺はどこか同情めいた目で見ていた。だがそのとき、今度は反対側から聞き覚えのある声が飛び込んできた。


「ショウ!? どうしてここにいるの!?」


 振り返れば、いつの間に現れたのか、キャサリンが立っていた。いつもは切れ長な目を大きく見開き、明らかに動揺している様子だ。

 前にキャサリン、後ろにダミアン。まさに挟まれた格好になったが、これはむしろ好機だ。二人が揃っているなら、話を一気に進められる。

 俺はキャサリンにまっすぐ向き合い、はっきりと言った。


「君を助けに来た。好色貴族のところに行かせるわけにはいかない」

「ちょっと、ショウ! 好色貴族って、そんなこと……ダミアン様に聞かれたらどうするのか!?」


 キャサリンは慌てて言葉を制しようとするが、どうやら彼女はまだ、俺の後ろにダミアンが立っていることに気づいていないようだった。彼は背も高く、服装も目立つのに、それを見逃すなんてちょっと不思議だが、彼女の様子からして、気づかないフリをしているわけではないのは明らかだ。


「もう聞いているよ」


 低く落ち着いた声が響き、キャサリンがはっと息を呑む。


「えっ……ダミアン様!? いつからそこに!?」

「さっきからずっとだ。手洗いから戻る途中で、彼らと偶然鉢合わせしてしまってね」


 ダミアンは肩をすくめ、少し皮肉めいた微笑を浮かべる。そしてぽつりと、誰にともなくつぶやいた。


「……それにしても、俺の姿などまったく見えていなかったのだな」


 そのつぶやきは辛うじて俺には届いたが、キャサリンには聞こえていないだろう。あれは彼女への嫌味ではない。一瞬だけ浮かんだ寂しそうな顔が、俺にそう確信させた。


「ダミアン様のお戻りが遅いので、様子を見に来たのですが……まさか、こんなことに……」


 キャサリンの視線が泳ぎ、混乱の色が隠せない。

 まあ無理もない。ちょっとした知り合い程度の男が、自分の屋敷で貴族相手に噛みついているのだ。誰だって混乱するだろう。

 だが、俺はこの機会を逃すつもりはなかった。正面から彼女に問う。


「キャサリン、教えてくれ。君はダミアンの第七夫人になることを望んでいるのか?」

「それは……」


 俺の問いに、キャサリンは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を逸らし、うつむいた。口を開こうとするが、言葉にならない。代わりに彼女の表情が、沈黙以上に雄弁に物語っていた。迷い、戸惑い、そして――今にも泣き出しそうな、そんな瞳。

 もし彼女が心からダミアンを想っているのなら、俺は土下座をしてすぐに退散するつもりだった。でも――その必要はなさそうだ。


「大丈夫だ。もうそれ以上、何も言わなくていい。……ここから先は、俺が勝手にすることだ」


 そう言って、俺は背後のダミアンへと向き直る。


「あんたがどれほどの貴族かは知らないが、この縁談、俺は絶対に認めない」


 ピンと張り詰めた空気が場を包む。その中心で、ダミアンはわずかに唇を吊り上げる。だが、怒りでも冷笑でもない。むしろ少しだけ、面白がっているような――そんな表情だった。


「ふむ……なるほど。言いたいことはよくわかった。だが、君が認めるかどうかで、事が変わると本気で思っているのか?」


 ――うっ。

 言葉にこそ棘はないが、内に秘めた力と自信が滲み出る声音。俺は一瞬、返す言葉を失った。

 ――確かに、俺には何の後ろ盾もない。勢いだけでここまで突っ込んできただけで、具体的な解決手段があるわけじゃない。

 ……甘かったか? いや、今さら後悔したって仕方ない。


「……金の問題なら、俺が返す。時間はかかるかもしれないが、責任は取るつもりだ」


 メイへの借金だけでなく、NPCのダミアンへの返済分も加わると、新しい装備やレアアイテムは当分買えなくなるかもしれないが……やむを得ない。現実とは違い、この世界では金を稼ぐ手段はいくらでもある。時間さえかければ解決できるなら、問題のレベルとしては決して高くはない――そう思っていたのだが。


「金だと? 貴族である俺が、金で納得すると思っているのか?」

「……え?」


 間抜けな声が、口をついて出た。まさかの反応に、思考が一瞬止まる。

 ――ちょっと待ってくれ。これまでブリジット家に資金援助をしてきた代わりに、キャサリンを自分のものにしようとしているって話じゃなかったのか?

 だが、ダミアンは続けた。冷静かつ淡々と。


「確かに、我が家はブリジット家に多額の支援をしてきた。それは事実だ。だが、それを金銭で返されたからといって、俺が納得すると思っているのか? お前は見誤っている。我が家が与えてきたのは、金だけではない。信用、人脈、名誉……そうしたすべてが、ブリジット家を支えてきたのだ」

「うっ……」


 何も言い返せなかった。

 そうだ。音楽の世界で名を挙げるには、実力だけでは足りない。後ろ盾となる存在の大きさが、道を切り拓くかどうかを決めると言っても過言ではない。そんなことにも気づかず、単純に金を返せば済むと思っていた俺はなんと浅はかだったのだろうか。

 ……というか、なんだよ、このクエストは!

 自分の無計画さと無力さ思い知らされるクエストじゃないだろうな。


「さっきまでの威勢はどうした?」


 NPCに煽られるとか、情けなすぎる。……だが、悔しいけど返す言葉が出てこない。

 そんな俺に、ダミアンはなおも追い打ちをかけてくる。


「無鉄砲で、無計画。そのうえ、貴族に対する礼儀もなっていない」


 もうやめてくれ。俺のHPはとっくにゼロなんだぞ。

 心の中で呻いたそのとき、不意にダミアンの語調が変わった。


「……だが、キャサリンのために動こうとした、その気概だけは評価に値する」


 予想外の言葉だった。いつの間にかうつむいていた顔を上げると、ダミアンの表情は静かに引き締まり、そこには侮蔑でも怒気でもない、どこか誠実なものが浮かんでいた。


「一つだけ、条件を提示しよう」

「条件……?」


 思わず聞き返す。ダミアンは一瞬、キャサリンに目をやり、すぐに視線を俺に戻す。


「ああ。『幻の楽譜』を探し出せ。曲名は『名もなき小夜曲セレナーデ』。かつて、ある作曲家が、王都にいた吟遊詩人の女性に贈ったとされる曲だ。その作曲家の最高傑作とも噂されているが、誰もその旋律を聞いたことがなく、譜面も存在しない。ただ一人、それを受け取った吟遊詩人だけが知っている――と言われている」

「……それを、見つけろと?」

「そうだ。そしてその曲を、俺に聞かせてみせろ。それができたなら――今回の話は、白紙に戻しても構わない」


 なんだそれは。難題にもほどがある。

 でも、ダミアンが今提示しているのは、確かに「チャンス」だ。黙っていてもキャサリンを救う術はなかった。それが今、手の中に差し出されている。裏があるかもしれない。からかっている可能性も否定できない。けれど――


「……わかった。幻の楽譜『名もなき小夜曲』は、この俺が必ず見つけ出す」

「いい答えだ。だが、私もいつまでも待っていられるほど暇ではない。期日は――次の満月までとする。それまでに成果がなければ、キャサリンは王都へ連れていく」


 俺は、そっとキャサリンの方へ振り返る。こんな俺が、彼女の未来を決めてしまっていいのか――そんな戸惑いが心をよぎる。だが、迷子のように不安げな彼女の瞳を見た瞬間、すべてが吹っ切れた。

 俺がやるべきことは一つ。幻の楽譜を見つけ出し、彼女を守る。それだけだ。

 再びダミアンに向き直り、力強く言い放つ。


「いいだろう。この勝負、受けてやる。次の満月までに『幻の楽譜』を手に入れ、あんたにその曲を聴かせてみせる!」

「ふふっ……楽しみにしているぞ」


 ダミアンはほんのわずかに目を細めた。できるものかと嘲笑している様子はない。……むしろ、期待している? 一体、どういうつもりなのだろうか?


「それでは、私は王都に戻ることにしよう。次に会うのは、曲を聴かせてもらうときだ。……このまま逃げ出すなんて真似だけは、してほしくないものだな」


 そう言い終えると、ダミアンは静かに屋敷を後にした。

 ……とにかく、このままキャサリンが王都へ連れていかれるという最悪の展開は回避できた。だが代わりに、俺の前には前代未聞の難題が立ちはだかっている。

 幻の楽譜――「名もなき小夜曲」という曲名しか手がかりのないそれを、限られた時間の中で探し出さなければならない。

 正直、俺一人では途方に暮れてしまったかもしれない。だが――今の俺は一人じゃない。


「――みんな、俺に力を貸してほしい」


 俺は仲間達に視線を向けた。今回は、みんなの意向も聞かずに、俺一人で勝手にここまで話を進めてしまった。呆れられても文句は言えない状況だけど――


「言われるまでもない。最初からそのつもりだ」

「ショウさん、格好良かったです」

「キャサリンを助けたい気持ちは私も同じだよ」


 三人は責めることもなく、力強くうなずいてくれた。

 彼女達は、このクエストに同行はできても、クエストをこなしたことにはならない。それでも文句の一つもなく協力してくれる。俺は本当にいい仲間に恵まれた。

 その思いを胸に、俺は改めてキャサリンの前に立つ。


「キャサリン、後は俺に任せてほしい。君は、俺を信じてここで待っていてくれ」

「……ショウ。あなたを、信じます」


 彼女は両手を合わせ、潤んだような瞳をまっすぐ俺に向けた。

 この信頼には、応えなければならない。「幻の楽譜」、必ず見つけ出してみせる!



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