俺達は王都郊外の裏通りに佇む、古いながらも整然とした一軒の家の前にたどり着いた。
「ここが、バーバラさんの家か」
吟遊詩人ギルドの受付嬢が詳しい場所を教えてくれたおかげで迷わず来られたが、自力で聞き込みをしていたら、ここにたどり着くのにどれだけ時間がかかったことか。
クリアまでの正規ルートを進めている確証はないが、少なくとも大きく外れた道を歩いてはいない――そんな感触があった。
「すみません、バーバラさんはいらっしゃいますか?」
扉をノックしながら、家の中に届くよう声を張る。
……よくある展開なら、バーバラさんは数日前から行方不明、なんてパターンだ。嫌な予感がよぎるが――その時、扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、皺こそ刻まれてはいるものの、どこか気品を漂わせた女性。きっとこの人がバーバラさんなんだろう。年齢は八十近いと聞いていたが、十歳は若く見える。
「……見ない顔だね」
「はじめまして。俺はキッドといいます。後ろの三人は仲間のクマサン、ミコトさん、メイです。怪しい者ではありません。実は、『幻の楽譜』についてお尋ねしたくて。吟遊詩人ギルドで、バーバラさんなら何かご存じかもしれないと教えてもらいました」
「……『幻の楽譜』だって?」
バーバラさんの瞳に鋭い光が宿る。
その視線はまるで、こちらの内面を貫いてくるようだった。
「あれは、興味本位で探していい代物じゃないよ。帰りな」
吐き捨てるような声音。扉を閉めようとしたその手を、俺は思わず押しとどめた。
「待ってください! これにはただの好奇心じゃないんです。一人の吟遊詩人の女の子の人生が懸かっているんです! 『名もなき
俺の訴えに、バーバラさんの手が止まった。
「……その曲名、誰から聞いた?」
「えっと……ダミアンという貴族からですが……」
バーバラさんの問いかけに、つい素直に答えてしまった。
……もしかして迂闊だったか? だが、吐いた言葉はもう引っ込められない。
「ダミアン……ウィストリア家の長男坊か。……いや、もう当主だったかね」
彼女はふっと目を伏せ、何かを思い出すように沈黙した。
――やっちまったかもしれない。
交渉においては、手持ちのカードをいつどこできるかが重要だ。さっきの俺のように、何の考えもなしに答えてしまうのは愚策だったかもしれない。
……でも、俺ってそういう交渉の駆け引きって苦手なんだよなぁ。
「キャサリンっていう吟遊詩人の女の子が、そのダミアンに第七夫人になれと迫られていて……。俺達は彼女を助けたいんです。そのために、『幻の楽譜』が必要なんです。どうか、力を貸してください」
俺はもう駆け引きなんて頭の中からおいやり、まっすぐに気持ちをぶつけた。
交渉のテクニックがないのなら、せめて熱意と真剣さを示すしかない。
しばしの静寂ののち、バーバラさんの目がゆっくりと細められる。
「……詳しい話を、聞かせてもらおうじゃないか」
「はい!」
よかった……。
言葉は多くないが、気持ちはちゃんと届いたようだ。
ひとまず話を聞いてもらえるだけの信頼は得られた――そう思えた。
「――というわけなんです」
俺達は、こぢんまりとした応接間で肩を寄せ合うように座っていた。
向かいのソファに腰かけたバーバラさんに、ダミアンの狙いやキャサリンの苦境、そして『幻の楽譜』にまつわる経緯を、包み隠さず話す。
正直、この話が広まれば、一番傷を負うのはダミアンだ。でも俺達にとっては、彼の評判なんてどうでもいい。キャサリンが救われるなら、それでいい。多少なりとも彼女の名にも傷がつくかもしれないが――情報を得られずに終わるよりは、よほどましだ。
「……なるほどね」
話を聞き終えたバーバラさんは、軽く息を吐きながら深くうなずいた。
もし彼女がダミアンと繋がっていたなら、今の告白は致命的だったかもしれない。だが、その気配はなさそうだ。
むしろ、その横顔にはどこか哀しみのようなものが滲んでいるように見えた。同じ吟遊詩人として、キャサリンに共感してくれたのかもしれない。
「……事情はわかった。ここまで足を運んできた誠意に免じて、私が知っていることを話してあげようじゃないか」
「ありがとうございます!」
思わず声が出た。
キャサリンを救うための光が、ようやくその先に見えた気がした。
「――あれはね、私が十をいくつか越えた頃だったかね」
バーバラさんはゆっくりと記憶をたぐるように語り始めた。
「私はまだ駆け出しで、右も左もわからなかったけど、当時の吟遊詩人ギルドには、セーラというとびきり美しくて、誰よりも澄んだ歌声を持つ少女がいた。年の頃は十五、六だったけれど、すでに売れっ子でね……」
俺達は息を呑み、バーバラさんの語る昔話に耳を傾ける。
『幻の楽譜』は王都の吟遊詩人の女性に贈られたもの。きっとこのセーラという人物が、その女性なんだろう。
「その頃、音楽界にはローランという名の作曲家がいてね。繊細な旋律に、情熱的な想いを秘めた曲を書く人だった。彼の作品は評判を呼んでいたけど、とりわけセーラが歌ったとき――それはまるで、彼女のために書かれた曲かと思うほど完璧に嚙み合っていた」
バーバラさんは当時を思い出すように目を細め、ゆっくりと続けた。
「最初は他人同士だった二人だけど、曲と声が評判になるにつれ、自然と交流が増えていった。互いの才能を敬い、惹かれ合って……。当時の私は子供だったから、うまく理解できなかったけれど、今思えば――二人の間にあったのは、間違いなく恋愛と呼ばれるものだったよ」
才能に惹かれて、それがいつしかその人そのものへの想いへと変わっていく。
俺にも、なぜかその感覚は自然と胸に落ちてきた。恋愛経験なんてほとんどないくせに、まるで自分も知っているかのように不思議と理解できた。
――このまま、二人が結ばれたらいいのに。
俺はそんなふうに、少しだけ胸を躍らせながら続きを待っていた。
物語の結末は、やっぱりハッピーエンドが一番だと信じていたから。