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第216話 ローランとセーラ

 バーバラさんの語りは、静かに、しかし熱を帯びながら続いていった。


「――でもね、二人の関係が、いつまでも続くことはなかったのさ。ローランは素性を隠して作曲をしていたけれど、本当は貴族の次男だったのよ。家を継ぐ立場じゃなかったから、好きに音楽活動を許されていたんだろうけど……ある日、兄が流行り病で亡くなってしまった。それで急遽、彼が跡を継ぐことになったんだよ。本人の意思なんて関係なくね」


 彼女の声には、悔しさと哀しみがにじんでいた。

 バーバラがセーラやローランとどんな関係にあったのかはわからない。でも、きっと近くで二人のことを見ていたのだろう。だからこそ、彼女達の幸せを願っていたのだと思う。

 俺も、話を聞きながら、胸がざわめいていた。よく考えれば、「幻の楽譜」なんて呼ばれている時点で、幸せな結末ではないのかもしれない。それでも、どこかで希望を持っていた自分がいた。


「しかもね、亡くなった兄にはすでに家同士で決められた婚約者がいたんだよ。その相手は、力を持つ貴族の令嬢でね。兄が亡くなったことで、ローランは彼女との婚約も引き継がざるを得なくなった。彼はそれでも、家を捨ててセーラと生きていこうと決意したそうよ。……でも、セーラがそれを断ったんだ」


 胸が、きゅっと締めつけられるようだった。

 どうして断ったんだ? 貴族の身分を捨てても、ローランはセーラを選ぼうとしたんだ。俺には、その愛を拒む理由がわからなかった。


「……どうして断ったんでしょうか?」

「セーラは、ローランの将来を守ろうとしたんだよ。婚約破棄なんてしたら、ローランは貴族社会から爪弾きにされて、二度と音楽の世界では生きていけなくなる。セーラはね、彼の才能が埋もれてしまうことが、何よりも辛かったのさ。彼を愛していたからこそ、自分の幸せよりも彼の未来を選んだんだよ」


 ……わからない。

 たとえすべてを失っても、思い合っていれば幸せになれる。俺はそう信じている。

 でもセーラにとっては、ローランの才能が埋もれてしまうことのほうが、きっと耐え難かったのだろう。好きな人なら独占したいと思うのが常だと思うが、もしかしたらセーラは、それを超えた愛に至ったのかもしれない。

 ……少なくとも、今の俺にはわからないが。


「そして――ローランは彼女の想いを受け入れて、家を継ぐことを決めた。その別れの際、彼が彼女に贈ったのが『名もなき小夜曲』さ。セーラ、たった一人のために作られた曲だよ。彼女も、その曲を誰かの前で歌うことは一度もなかった。私が曲名を知っているのも、彼女が特別に教えてくれたからだ。ただし、旋律や歌詞については、誰にも明かさなかった。あれは……二人だけの想いを託した、かけがえのない絆だったんだよ」


 ……なんて話だ。

 理解できるようで、きっと他人には完全にはわからない。そんな深い想いのやり取り。

 けれど、確信できる。そこにあったのは、紛れもなく愛だ。

 たとえ結ばれなかったとしても、それは誰よりも純粋で、強い愛だった。


「ローランはその後も作曲を続けて、いくつもの名曲を世に残した。でもね……ある日ふと、彼のこんなつぶやきを耳にしたんだ。『彼女に贈ったあの曲を超えるものは、もう二度と書けない』って。あれは、彼にとって唯一無二の曲だったんだろうね」


 ……そうか。

 「幻の楽譜」について知っている人が少なかったのは、彼が語らず、彼女も歌わなかったから。そんな曲だからこそ、知る人ぞ知る存在となったのだろう。


「……ありがとうございます。大切なお話を聞かせてくださって」


 俺は静かに頭を下げた。

 これで『名もなき小夜曲』が生まれた背景はつかめた。そして、その楽譜の手がかりも。

 セーラの行方をたどることができれば、楽譜もまた見つかるかもしれない。


「その後、セーラさんは……どうなったんですか?」


 俺が尋ねるよりも早く、ミコトさんが口を開いた。

 彼女の瞳には、切なさと興味が入り混じっていた。

 好きな人のために身を引いたセーラ。その行く末が気になって仕方ないのだろう。


「彼女は、ローランと別れたあとも吟遊詩人として活動を続けていたよ。でも、数年後にローランに子供が生まれたという話が聞こえてきた頃……ふっと王都から姿を消したんだ。きっと、自分で選んだ未来だったとはいえ、彼がほかの女性と、その子供と幸せに暮らす様子を、同じ街で見守るのは……耐えられなかったのかもしれないね」


 バーバラさんの言葉に、ミコトさんはうつむき、どこか寂しげな表情を浮かべた。

 想像していた物語とは違ったのだろう。その気持ちは、俺にもわかる。

 俺だって、音楽を捨ててもいいから、二人が一緒になってくれていたらと思ってしまう。

 でも、それは外野の意見だ。セーラが本当はどういう気持ちで王都から姿を消したのかは、誰にもわからない。

 ――だから、俺は今を生きるキャサリンのために、『幻の楽譜』を探すことに集中しよう。


「セーラさんが、その後どこへ行ったのか……ご存じありませんか? どんな小さな噂でもかまいません」


 『幻の楽譜』がセーラに託されたものであるなら、彼女の足跡こそが唯一の手掛かりだ。

 そして、セーラについて一番詳しいのは、現状このバーバラさんに違いない。

 ここで何も手がかりを得られなければ、あとは世界中の街を訪ね歩くしかなくなる。


「……すまないね。私にも、わからないんだよ。むしろ、私こそ知りたいくらいだ」


 バーバラさんは、どこか寂しげな表情を浮かべて、言葉を続けた。


「セーラと一緒に活動していた吟遊詩人で、今も生きているのは私だけさ。私より年上だった彼女が、今もこの世にいるとは……正直、思いづらいね。……彼女がその後、どんな人生を歩んだのか、幸せでいてくれたのか――それだけが、今の私の気がかりなんだよ」


 ――そうだった。

 この世界の平均寿命は、俺達の現実よりもずっと短い。

 バーバラさんのような高齢のかたに出会うこと自体が珍しいのだ。

 そう考えれば、セーラさん本人を探し出すのは、限りなく難しいという現実が浮かび上がる。


「……また、手がかりが途絶えてしまった」


 俺は肩を落とした。

 セーラがもし、別の街で吟遊詩人として活動していたのなら、その噂の一つくらいは王都のギルドに流れてきていたはずだ。

 それがないということは――彼女は名も告げずに、ひっそりと生き、静かにこの世を去ったのかもしれない。あるいは、自分の選んだ道を悔いて……絶望の果てに、自ら命を絶った可能性すらある。

 そうなっていたら、『幻の楽譜』はすでに、この世から失われているかもしれない。


 ――いや、待て。

 これはゲームのクエストだ。

 プレイヤーに、存在しないものを探させるような理不尽なシナリオが用意されているとは考えづらい。

 必ず、どこかに道はある。突破口は、きっとあるはずだ。


「……こうなったら、セーラさんがどこかで幸せになっていたと信じて、世界中を回ってやろうじゃないか。俺はハッピーエンドが好きなんだ」


 顔を上げる。

 希望を信じる道のほうが、きっと俺達らしい。

 彼女が不幸なまま終わってしまったなんて、そんな結末は認めたくない。

 そう信じることができれば、どこまででも探しに行ける。


「……いい顔をするじゃないか」


 さっきまで寂しげだったバーバラさんが、ふっと唇の端を吊り上げた。

 目の奥には、何かを決意したような光が宿っている。


「……言おうか迷っていたけど、あんたになら話してもよさそうだ」

「バーバラさん……?」


 彼女は何やら意味ありげなことを言い出した。

 何だ? まだ何かあるのか?


「ローランがセーラに贈った『名もなき小夜曲』の正式な楽譜は、世界に一つ。彼女が受け取った原本だけだ。だがね――彼がそれを完成させる前に書いた、下書きの楽譜が残ってるらしいんだよ」

「え……?」


 一瞬、言葉の意味が飲み込めず、思わず声が漏れた。


「さっきの話だと、ダミアン様が求めているのは『名もなき小夜曲』を彼に聴かせることであって、『幻の楽譜』の原本を持ってくることじゃないんだろ?」

「――――!? た、確かに!」


 はっとして目を見開いた。

 そうだ、それを忘れていた。

 あの男は、「楽譜を持って来い」なんて一言も言っていない。彼が言ったのは、「曲を俺に聴かせてみせろ」だったはずだ。


「つまり、下書きであっても『名もなき小夜曲』の楽譜さえ手に入れられれば、キャサリンって娘は救えるってことだろ?」


 ――打開策、来たっ!

 俺は、思わず拳をぎゅっと握りしめた。



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