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開店1周年前日 15

「一つは卒業生の紹介依頼ということでした。自分と同じ技術というのが安心できるし、同じ看板でやっていく以上、人によって施術内容が違うというのではクライアントの方から信用を得られない、というのが理由のようです」

 この言葉は私たち2人にとっても共感できる。

「そうですね。私たち夫婦が同じクライアントの方に施術しても、受ける側としては違和感がないとおっしゃっていただいています。もちろん、性別を気にする方の場合は、そのリクエストにきちんとお応えしていますが、そういうことは関係ないとおっしゃる方の場合、その日の予約状況から施術者が違うこともあります。最初の内はそれが気になっていましたが、今では同じ学校で同じ技術を勉強して良かったと思っています」

「おそらく、本田さんも同じように考えられたのでしょうね。雨宮さんのところはそれをご夫婦で実感されていらっしゃるわけですから、考えようによっては本田さん以上に実感されているんじゃないですか?」

 私は川合のその言葉に頷いていた。それは美津子も同じだった。

「ただ・・・」

 川合が続けていった。

「ただ、何ですか?」

 私は川合の言葉が少し気になった。

「雨宮さんもご承知の通り、私たちが通った学校というのは独立開業を意識されている方が多かったでしょう。ということは就職希望の方が少ないということですよね。就職となると給料などの条件が関係してきますが、他と同じようなことであれば勤務地という地理的なことが関係します。実はこのことは結構引っかかったそうです。学校であれば一定期間通うことで終わりですが、仕事となると通勤時間などが気になるようでした。そういうことも新型コロナウイルスの影響だったかもしれませんがね」

 この話も私には新鮮だった。職住接近で仕事を考えている私たちはあまり意識していなかったが、スタッフとなると当然それなりの距離を通うとなるケースが多くなるだろう。現在の店舗、あるいは新店舗のそばに必要な人数の卒業生がいるということは考えられない。これは本田の場合にしても同じだったはずだ。

「では、本田さんはこの問題をどう解決したのですか?」

 同じような疑問は美津子も持っていたようで、私たちは顔を見合わせながら質問した。

「学校に研修をお願いされたんです。そうすれば同じ技術を持った人が揃うことになりますよね」

「でも、自分のお店で研修すれば良いのでは?」

 私は新しいスタッフの技術について自分で教えることも考えていたので、この話も新鮮だった。

「雨宮さん、考えてください。クライアントへの施術をしながら教えるということはできますか? また、私も含めて施術するということと人に技術を教えるということは違いますよね。野球でも名選手が必ずしも名監督にはならない、ということが言われているようですか、その感覚ですよ。それから、開業してからの年数を考えると、まだ人に技術を教えるだけの数はやっていませんよね。私は現場で壁にぶつかった時、学校に電話したりしてアドバイスを受けていますが、やはりいろいろな症例を経験されている先生のアドバイスは的確です。付焼刃的な感じでやっていてはその他大勢組のお店と同じになるように思うので、もし私がスタッフを増やそうと考えた時には、本田さんと同じように学校に相談することにしています」

 本田の考え方と実践、そして川合の場合からの話も、私にはすべて納得できた。それは美津子も同じようだったが、互いの目配せでこのことは後でじっくり話し合おうということにした。

「川合さん、貴重なお話し、ありがとうございました。2人でしっかり話し合ってみたいと思います。私たちは1周年ということでそのことばかりが頭にあり、その先のことを考えているようでも今一つ思慮が足りなかったことに気付きました。本田さんの話や、川合さんのお考え、とても勉強になりました」

 私たちは川合の休憩時間のこともあり、ここで電話を切ろうとした。

「雨宮さん、もう一つだけお話ししますね」

 予想外の申し出だった。私たちとしては今までの話だけでもお腹一杯という感じだったが、せっかくだからということだろうか、時間まで話を続けるようだ。

「あまり時間がないから、途中で予約の方が見えたらそこで切っちゃうことになるかもしれないけれど、その時は済みません」

 川合は自分のほうから言い出しながら、中途半端なことになる可能性について、事前に確認した。


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