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第六五話 変化、そして狂気へ

「僕が鍛えた君は、そんな弱いヒーローじゃないッ!!!!」


「あ? この声はもう一人ヒーローがいるのか?」

 怪物と化したパフアダーが面倒くさそうな表情を浮かべて声の方向を見上げる。

 この声はイチローさんの……私の耳に届いた凛とした声は、混乱しきった思考に染み渡るように広がり……それまで沸騰しそうなくらいの恐怖を感じていた私は、急に頭の芯が冷えたような気分になる。

 そうだ、あの時パフアダーは私に何か奇妙な毒物を注射しており、そこから私の認知機能がおかしくなった気がする。

 目の前で声の主を探してキョロキョロと左右を見渡しているパフアダーを見ると、いまだに体のあちこちから蛆虫のような白い何かが湧き出し、肉片はボロボロとこぼれ落ちており悪夢としか思えない。

 私の視界には普段見ている光景が地獄のようにしか思えない何かに変化しており、地面はウネウネと長虫がうねるような感覚が感じられるのだが、思い切って手を触れてみるとカツン、と固いコンクリートへと指がぶつかる感触があった。


『目に見えているものは現実ではない、視覚や感覚がおかしくなっているだけだ……』


 それに気がつくと、急に心臓の鼓動が落ち着く……人為的に作られた恐怖、混乱、狂気を認知して仕舞えばこれが現実ではないと私も理解できるからだ。

 まだ視界はおかしい……認知を歪ませる毒物は恐怖を再び掻き立てようと、狂気に満ちた世界を見せてくるのだが、冷静になりつつあった私は大きく息を吐くと恐怖を振り払うように左右に頭を振った。

 目に見える情報と感触がまるで異なる状況に頭はまだ少し混乱しているものの、それが血管内に残っているパフアダーの毒物だということさえわかっていればいい。

「……ははっ……ったく……」


「あ゛? なんだこいつ笑って……恐怖でおかしくなったか?」


「ちげーよ、アンタの毒でまだ世界がおかしく見えるわ……」

 揺れる視界でパフアダーを見上げる……よく見てみれば、肉片が落ちるのは繰り返し再生されたビデオのようにしか思えないし、蠢く蛆虫すらリアルさよりも滑稽さを感じて気にならなくなっていく。

 足を何度か踏み鳴らすようにトン、トンと地面を叩く……固い地面の感覚、先程までの揺れる感覚は恐ろしく小さく、気にならない程度だ。

 パフアダーが注射してきた血液に入って全身を駆け巡る毒物は強制的に体外へと排出するまで時間がかかる……一時的にでもその影響を緩和するには、と私は軽く首の左側を触る。

 医学の知識は全くないが、確か血管には二つあって全身に血液を送り込む動脈と、心臓へと血液が戻ってくる静脈の二つがある。

 ピクピクとした感触を伝えてくる場所には動脈があり、そうではない場所には……ッ!

「……くうッ!」


「な……! こいつ自分の首を……ッ!」

 私が手刀を使って自らの首を切りつけたことにパフアダーは目を見開いて驚く……ぷしゅッ! という軽い音を立てて首から血が滴る。

 自殺行為としか思えない私の行動にヴィランは呆然とした表情でこちらを見つめているが、私は首を軽く抑えて苦痛に耐えている……もちろん自殺するためにこんな行動をしたのではない。

 動脈はポンプの役目をしており血流も活発で、こちらを傷つけてしまうと派手に血液が吹き出し、ヒーローとはいえ失血死しかねない。

 だが……静脈は老廃物を含む古い血液が心臓へと戻る血管である……派手に血が吹き出すようなことはなく、じわっと血液が流れ出すのだ。

 一気に大量の血液が流れ始めたことで視界がクラクラと揺れる……だが首を抑える指の隙間から、決して血液とは交わらない緑色の泡立つ液体が血に混じって滲み出す。

「ビンゴ……はあっ、はあっ……」


「……狂ってやがる……自分で血管を切り裂いて俺の毒を……」

 私のヒーロースーツが真っ赤に染まっていく……だが、体外へと毒が流れ出したことで視界に映る情報が劇的に塗り変わっていく……恐ろしい光景は日常の光景へ、巨大な歩く屍人としか思えなかったパフアダーは、筋肉が膨張した彼本来の姿へ。

 歯を食いしばって傷口を抑える……これ以上失血するのはまずい、傷もなんらかの形で抑え続けないと……辛うじて血で汚れていない右手を腰回りに作られたポケットへと突っ込み、協会から支給されている応急処置用の救急パッチを取り出して首へと貼り付ける。

 このパッチはヒーロー「マザー・サージョン」が作っているヒーローにしか支給されていない応急処置用のシールで、一時的に傷口を塞いで失血を防ぐ効果がある。

 とはいえ結構傷口が深いのか、パッチはじわじわと赤く染まっていく……あんまり時間がないな。

「……だけど時間は十分……ッ!」


「もう一回俺の毒物を注入して廃人同様に……!?」


「すまない、遅くなった……」

 パフアダーが身構えるのと同時に、私の隣に音もなく一人の男性が降り立つ……長身かつ筋肉質の均整の取れた肉体、そして黒髪に緑の瞳を持つ日本最強のヒーローであるヘラクレス、私のメンターでもあるイチローさんがようやく現れた。

 イチローさんはじっとパフアダーを睨みつけるように見てから、私の頭にそっと手を乗せると優しく微笑み、そして少しだけ視線を下に落とすと少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。

 傷に応急パッチが貼ってあるとはいえ、血液が滲む首はあまり長い時間の戦闘には耐えられない、というのを理解しているのだろう。

 少し悔しそうに歯噛みをしてから彼は再びヴィランへと視線を向ける……あまりに苛烈な怒りを帯びた視線だったのだろう、パフアダーは気圧されたように数歩後ろへと下がった。

「……シルバーライトニング、あいつを倒そう」


「ええ……」


「ヒーロー二人……クハハッ! ふざけんな今の俺に勝てねえ相手はいないッ!」

 両手を大きく広げたパフアダーは腰に手を伸ばすと、今まで使っていなかった予備のシリンダーを自らの首に突き刺す。

 シリンダー内には赤褐色の不気味な液体が入っていたが、みるみるうちにその液体はパフアダーの肉体へと吸収されていく……次はどうするつもりだ?

 私とイチローさんが身構える前で、パフアダーの首に刺さったシリンダーは空となり、彼は首からそれを引き抜くとひどく歪んだ笑みを浮かべた。

 びくん! と彼の体が大きく痙攣する……まるで自らの意思ではなく、体内に注入された液体が意思を持っているかのように、彼の体はまるで糸を使った操り人形が暴れているかのようにビクビクと跳ね回る。

「ケヒハハハッ! いてえッ! いてええよッ!」


「……パフアダー……」

 パフアダーはそれまででも十分パンプアップされ異様な筋肉の盛り上がりを見せていたが、その肉体がみるみるうちに赤褐色に変化していくのが見える。

 それはまるで神話に出てくる鬼神のよう……そして私にはその姿に見覚えがある、予選トーナメントへと乱入し本気の殴り合いを演じたヴィラン「オグル」を模したかのような色合いだったからだ。

 外見ではオグルほどの見事な角は存在していない、だがパフアダーの表情はこの世の憎しみと、狂気を封じ込めたかのように激情に歪み、真っ赤に染まった瞳からは血液が流れ出している。

 そして肉体とは不釣り合いなくらいに大きく巨大化した左右の腕と、私の体の半分くらいの大きさがありそうな拳を地面へとズシン! と付けた後彼は叫んだ。


「ぶち殺すううううッ! 俺が最強ヒーローをぶち殺して最強になってやるッ!」

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