——宙を舞う黒い影……それが地面へと叩きつけられた瞬間、轟音と共に瓦礫が舞い上がる。
「……く……今のは危なかった!」
最強のヒーロー高津 一郎ことヘラクレスは地面に叩きつけられた格好のまま、空中に飛び上がった巨大な影へと視線を向ける。
最恐のヴィランと恐れられるオグル……鬼としか言いようのない不気味な姿をしたその怪物は、大きく咆哮を上げながら地面に叩きつけられたヘラクレスに向かって拳を振り抜いた。
ズドオオオン! という凄まじい音と共に周囲にあった瓦礫がまるで紙細工のように舞う……オグルの拳はヘラクレスを押しつぶすかのように見えたが、両腕をクロスさせるように構えた彼はその致命の一撃を耐え切ってみせる……力と力による正面からの殴り合い。
「……グハハハッ! なんて楽しい……!」
「こっちは楽しくないねえ……はっ!」
腕に力を込めてオグルの拳を跳ね返したヘラクレス……間髪入れずに鋼鉄のような硬さを持つヴィランの胸元へと正拳突きを叩き込むと、ドンッ! という鈍い音と共と怪物は数歩蹈鞴を踏んで後退した。
手応えはある……だが、オグルの耐久力は恐るべきレベルに達しており、ヘラクレスが叩き込む全力の拳に耐え続けている。
ありえない……とヘラクレスは感じている、彼の攻撃をこれだけ耐えるヴィランなどこれまで一度も出現したことがないからだ。
それは傲慢などではなく、最強の身体増強系能力である「ヘラクレス」というスキルを持つ彼自身だからこそ理解している特性だ。
鋼鉄すら破壊するはずのヘラクレスの拳を耐えてみせるオグルに、驚嘆という感情以外が湧かないのだ。
「グハハハッ! 凄まじい拳だ!」
「この化け物が……!」
オグルの肉体には先ほどまでに何度もヘラクレスが叩きつけた打撃痕がくっきりと残っている……だが、その頑強すぎる肉体はそのダメージすら飲み込み、反撃を繰り出してくる。
怪物級ヴィランの拳が迫る……技術もへったくれもない純粋なる暴力の塊をヘラクレスが洗練された技で受け流す……スレスレの位置を圧力のある拳が通り過ぎていくとビリビリとした風圧が肌を刺激していく。
だがスキルの影響から恐怖やその他の感情が希薄になっているヘラクレスは、表情を変えずに反撃の拳を繰り出す。
ズドオンッ! という鈍い音を立てて拳がオグルの脇腹へと突き刺さる……いや、やはりその一撃が硬い筋肉の鎧に阻まれたことで、さすがの彼も眉を顰めた。
「何か見落としている……?」
「ヘラクレスぅッ!」
一瞬の迷いが隙を生んだのか、オグルがその隙を見逃さずに反撃の拳を振り抜く……ドオオンッ! という鈍い音共にヘラクレスの身体が大きく後方へと跳ね飛ばされた。
おそらく普通の人間であれば全身の骨という骨が砕けてしまうであろう凄まじい一撃だったが、スキルにより無敵の肉体へと変化しているヘラクレスはそれを耐えてみせる。
それでも人間である以上痛みは感じるし、強い衝撃に肉体が軋むような感覚を覚え、違和感に眉を顰めたヘラクレスの表情を見て、オグルは満足げに口元を歪めた。
お互い満身創痍……とでもいえばいいだろうか? 高度な戦闘技術と強い肉体を持って戦うヘラクレスと、猛獣のような感覚と、恐るべき耐久力を備えたオグルの戦いはほぼ互角のように感じられる。
だが……ヘラクレスの目に、オグルの足がほんの少しだけ痙攣したように見えたことで無限に思えた怪物の耐久力にもそこが見え始めていることを認識した。
「……効いていないわけじゃないな」
「それはお互い様だろう……お前にもダメージは入っているはずだ」
体格に劣るヘラクレスにもそれ相応のダメージは蓄積されている……格闘技で言うところの階級で言えば、オグルは圧倒的に巨大な肉体を有しており、体重だけでも二倍近い差があるだろう。
スキルそのものの格で言えばヘラクレスよりもはるかに格下であるはずが、人を超えた異常な巨躯という最大の特徴によりオグルは他を圧倒する戦闘能力へと昇華していると言っても良い。
一撃一撃は重くヘラクレスといえどもダメージは蓄積しており、その証拠に戦闘開始直後よりも彼の息は次第に上がってきている。
オグルはそれに気がついているのだろう……どちらが先に根を上げるのか、我慢比べに近い状態が続いているのだ。
「ここまで強いとは思わなかった……だけど、僕は負けるわけにいかないんでね」
「それは同じこと……我はお前を倒し、あの女を手にいれる」
「……シルバーライトニングのことかい?」
「しれたこと……我と互角に戦える女など貴重だからな……」
そこまでいうとオグルは指をゴキゴキと鳴らして口元を歪めて笑う……あの時の戦いで完全に虜になった、と言っても良いのだろう。
元々スタイルの良さや整った顔立ちから密かな人気となっていたシルバーライトニングだったが、それはヴィランにとっても同じなのかもしれない。
オグルは互角の殴り合いによってシルバーライトニングの魅力に気がついた……それは好敵手に対して感じる尊敬の念にも近いものが含まれている。
だけど……とヘラクレスは彼女の顔を思い浮かべながら考える、彼女に好意を抱いているのは目の前のオグルだけではない、自分の惹かれている故にみすみす手放すなど考えられないと思っている。
「僕は彼女のことを好ましく思っている」
「……グハハッ! ならばどちらがあの女を手に入れる権利を得るのか、ここで決着をつけようか」
「……少なくとも君には渡さないよ」
ヘラクレスはゆっくりと構えを取ると、それまで以上に集中した表情で間合いを図り始める……オグルはその構えを見て、先ほどまで以上に目の前のヒーローに迂闊に襲い掛かれないことを本能で悟る。
すでに何度も殴り合って戦闘技術そのものが、ヘラクレスには遠く及ばないことを理解している……迂闊に飛び込めば手痛い反撃を喰らうだろうというのを察知しているのだ。
最強のヒーローという肩書きがブラフではない、ということを痛いほど感じさせられる……自らが悪鬼となる「オグル」というスキルを持ってしても、神話上の英雄の名をもつヒーローの底知れぬ強さには、どこか及ばない可能性を感じ取っていた。
「……だが負ければ全てを失う……」
オグルはジリジリと間合いを詰めてくるヘラクレスの動きを注視しつつ、間合いを詰めすぎないように細かく移動を繰り返す。
腕のリーチや間合いそのものはオグルの方が長いのだが、ヘラクレスはその間合いを一瞬で潰してきたり、接近戦で視界外から放った攻撃を察知する独特の感覚を見せている。
それを先ほどまでの攻防で痛いほどに認識していた最恐のヴィランは、油断することなく反撃の機会を窺っていた。
だが……いくら耐久力に優れたオグルといえども、最強のヒーローによる打撃は凄まじいダメージをその肉体に刻んでいたのだろう、移動しようと足を動かした瞬間、電気が走ったように足が軽く痙攣し、彼はほんの少しだけ体勢を崩した。
「……な……」
「はあああッ!」
ほんの少し、時間にして一秒にも満たないわずかな瞬間の出来事……集中していたヘラクレスはその隙を逃すことなく、瞬時に間合いを潰すと目を見開いたオグルの顎を凄まじい正確さで打ち抜く。
ダアアンッ! という鈍く鋭い衝撃音を立てて撃ち抜かれた拳を前に、それまで鉄壁の城塞のように聳え立っていたオグルの体が大きく揺らいだ。
驚きに目を見開いたままオグルの足が震え、力が入らなくなったのかなす術もなくその場に、腰を落としてしまう。
ドンンッ! という重い音を立てて膝をついたオグルは震える口でようやく言葉を絞り出した。
「ば、バカな……この俺が膝をつくなど……バカなッ!」