この世界に来たとき私は、夢の国に来たような感覚でいた。不思議な生き物や魔法なんかがたくさんあって、自由で。この世界ならきっと、私でも生きてゆける。そう思っていた。
けれど、実際生きてみて気が付いた。
この世界にも、いろいろなしがらみや常識が蔓延っているのだということを。
ここに生きているひとたちは、そういうものに縛られて、窮屈な思いをしている。
この異世界ですらも、私がいた世界と本質はなにも変わらないのだ。
つまりそれは、生きることに場所は関係ないということ。じぶんの生きる道は、じぶんで拓いていかなければならないのだ。
私は目を伏せる。
「……たしかに、そういう意見が多いのは分かる。だけど……私、思うの。そもそもその『ふつう』がおかしいんだよ」
テオが目を泳がせる。
「テオが感じてるそれって、いわゆる空気でしょ? そんな目に見えないもの、気にすることないよ」
テオはじっと私の話に耳を傾けてくれていた。私は続ける。
「家族を持ったって、それで不幸になるひともいる。じぶんが産んだ子どもを愛せないひとも、夫以外のひとに心変わりしてしまうひともいる。テオの言うとおり、結婚はひとつのステータスかもしれないけど、それがぜったいに正しいってわけではないんじゃないかな」
困惑気味の表情をするふたりに、私は続ける。
「つまり! なにが言いたいかっていうとね! じぶんが選んだ道を歩くのがいちばんなんじゃないのかなってこと!」
人生は一度きり。今というのは、このときしかないのだから。
そう告げると、テオはくしゃっと眉を寄せ、なにかをこらえるように俯いた。
「じぶんが選んだ道か……」
ぎゅっと唇を引き結び、顔を上げる。
目が合う。その瞳は少し、涙ぐんでいるように見えた。
「……俺、今までずっと、みんなと違うじぶんはおかしいんだって思ってた。でも、俺、間違ってないのかな」
こころなしか、テオの声は震えているようだった。
「もちろん、これから先も例の噂みたいに、テオのことを間違いだっていうひとはきっと出てくる。でも、そんなの関係ない。無視していい」
「無視?」
「そうだよ。だって、そのひとの人生じゃないんだから。テオの人生はテオのもの。テオが楽しいって思ってるなら、間違ってることなんてひとつもなくない?」
好きなことをする。むしろそれこそが生きるということの本質だと思うし、好きなことがあるというのは、最高に幸せなことだ。
テオを励ましながら、私はかつてのじぶんを思い出した。
私にも昔、大好きなものがあった。でも、みんなにバカにされるうちに、大好きから大きらいになってしまったのだ。
小さい頃、夢中になって観ていたアニメ。魔法少女のお話で、元気で優しいヒロインが大好きで、憧れだった。
だけど、それをクラスメイトに話したら、子どもっぽいとばかにされてしまったのだ。
それ以来、私はだれかにじぶんの〝好き〟を言うことが恐ろしくなってしまった。
あんなに大好きだったはずのアニメも、観なくなってしまった。いや、観れなくなったのだ。そのアニメを観るたびに、言われた言葉が蘇ってくるから。
じぶんの好きなものを否定されたら、つらいし悲しい。
心もとない顔をしたテオに、私は微笑みを向ける。
「テオはおかしくなんかないよ。じぶんの好きなものを楽しむことに、だれに遠慮する必要も恥じる必要もないよ」
だから、顔を上げて。そう、はっきりと告げる。するとテオはわずかに表情を柔らかくして、「うん」と嬉しそうに頷いた。
テオはどこか憑き物が落ちたような顔で、天を仰ぐ。
私はルドヴィックと目を合わせ、微笑み合う。
テオは、ここへやってきたときより、晴れやかな顔をしていた。噂自体の解決はできていないけれど、少しは彼の力になれたようだ。
「……ねぇ、ローズマリー」
ふと、テオが私の名前を呼んだ。
「ん?」
顔を向けると、テオは私に微笑みかけていた。
こうして見ると、あらためてテオは美しい顔をしている。
ルドヴィックと幼なじみだというのが信じられないくらい、テオにはなんというか、気品がただよっている。
伏し目がちになると目元に翳が落ちるほど長いまつ毛だとか、さらさらとした艶のある藍色の髪だとか。
騎士服を着ていなければ、本当に女性だと思ってしまいそうな華奢な身体とか。
見惚れていると、テオがおもむろに私に顔を近付けた。不意打ちで距離が縮まって、息を呑む。
「……って、呼んでもいいかな?」
と、テオが確認する。
「えっ?」
なんの話だったっけ、と思っていると、テオが言った。
「名前だよ、君の」
――名前。名前?
「あ……ああ、名前ね。う、うん。それはもちろん!」
慌ててうんうんと頷く。テオは「ありがとう」と言って、ふにゃっと人懐っこい笑みを作る。
「俺、女性はずっと苦手だと思ってたけど、ローズマリーのことは好きみたい」
「へ……?」
テオは檻のなかへ手を伸ばし、私の手を握った。突然手を握られて驚きのあまり硬直する私に、テオが微笑む。息を呑むほど美しいその笑みに、私はさらに頭のなかが真っ白になった。
いや、状況がうまく理解できないのだが。
――というかそもそも、テオって女ぎらいじゃなかったっけ?
棒立ちのままぽかんとしている私にかまわず、テオは熱視線を向けてくる。
「ねえローズマリー、俺、これからもここに来ていいかな?」
「え、あ、う、うん。それはもちろん、かまわないけど……」
「やった! ありがとう、ローズマリー」
テオは無邪気に笑うと、私と繋いだ手をぶんぶんと降って喜ぶ。先程までとはまるで別人の態度だ。困惑気味にルドヴィックを見ると、 ルドヴィックもぽかんとしている。幼なじみである彼も、今の状況は理解不能らしい。
「ねえローズマリー。君ってぬいぐるみとか好きかな?」
「へっ? ぬいぐるみ?」
これまた唐突になんの話だろう。
「ここ、魔法が使えないから俺のペットを見せてやれないだろ? 代わりに、アルルとシェルのぬいぐるみを作ってきてあげる」
「あ、なるほどそういうこと……」
「そうしたら、受け取ってくれる?」
テオが上目遣いで私を見てくる。
「う、うん。もちろん……」
――なるほど、これはなかなか……。
私は、ふにゃっとした笑みを向けてくるテオに苦笑を返しながら、内心騒がしい鼓動をなんとか落ち着かせようと深呼吸を繰り返すのだった。