「――で、それはなんなんだ?」
昼過ぎ、私のもとへとやって来たアベルは、牢獄のなかを見渡すなり、とある場所に目を留め、挨拶もすっ飛ばして訊ねてきた。
「ん?」
私はアベルが目を向けたほうを見る。そこには、ルドヴィックがくれた緑色の美しい花が生けられている。だが、アベルが指しているのは花ではないだろう。私はそのまま、その横に目を向ける。そこには、以前アベルが来たときにはなかったとあるものが置いてあった。
私は「あぁ」とアベルに視線を戻す。
「ぬいぐるみだよ。テオが……あ、えっと、アベルは知ってるかな。ルドヴィックの親友で、テオ・デュパルクっていう騎士の子なんだけど」
「テオ・デュパルク……」
アベルはしばらく黙り込み、そしてゆっくりと瞬きをした。
「……アイツか」
どうやら知っているようだ。
「テオ・デュパルクは俺の直属の部下だ」
「やっぱり!」
そうだと思っていた。
「仕事はできるんだが、容姿がいいせいか、いろいろと厄介事に巻き込まれる残念な体質の男でな」
「あぁ……」
……やっぱり。
「今も噂を流されちゃって大変だって言ってたよ……」
結局テオの件は、話を聞いてあげることしかできなかったが、その後大丈夫だろうか。
テオは、なまじ容姿がいいせいで、かなり性格を拗らせている青年なのだ。そのせいであちこちから反感を買ってしまうことも多いが、誤解が解けてからのテオは、私のなかではすっかり素直な好青年となっている。
「それで、テオ・デュパルクとこのぬいぐるみになんの関係があるんだ?」
アベルにあらためて聞かれ、私は我に返った。
「あ、そうそう」
そういえば私たちは今、ぬいぐるみの話をしていたのだった。
「これね、テオの手作りなんだって! すごくない!?」
私はぬいぐるみを手にアベルのもとに戻ると、アベルの顔の前にかざして見せた。
ぬいぐるみは、現代で言うドラゴンのようなかたちをした個体と、キツネのような個体の二種類。意外にもドラゴンのほうが小さく、キツネに似た個体のほうがかなり大きい造りをしている。本物がどうかは知らないが、真面目なテオのことだ。体格の対比も忠実に再現しているに違いない。
「ね、可愛いでしょ? ほらほら。アルルちゃんとシェルちゃんだよ」
アベルは若干鬱陶しそうに眉間に皺を寄せながら、うんうんと頷いた。
「分かった、分かったから。……で、なんでそのぬいぐるみがお前の牢獄にあるんだ?」
「私が魔獣を見たことがないって言ったら、テオがわざわざじぶんが飼ってる魔獣のぬいぐるみを作ってプレゼントしてくれたの!」
アベルがため息をつく。
「またか……。お前、今度はどんな恩を売ったんだ?」
「失礼な。私はべつになにもしてないよ。ただ、ルドヴィックを通じてたまたま仲良くなっただけ」
「……ふん」
アベルが小さく相槌を打つ。そして、言った。
「……お前は身動きが取れない身の上のくせに、ずいぶん知り合いを増やすのが上手いんだな」
「なにそれ、嫌味ー?」
口を尖らせてアベルを見ると、アベルはふいっとそっぽを向いた。
「べつに」
なぜアベルが不貞腐れるのだ、と首を傾げたくなったが、まあいい。それより私が気になるのは、アベルの身体から頻りにただよってくる匂いである。
今日のアベルは、いつもと違ってずいぶんと香ばしい香りをさせているのだ。
「ねえねえ、それよりアベルさ、さっきからすごくいい匂いさせてない!?」
くんくんと鼻をひくつかせながら訊ねる私に、アベルはやれやれと苦笑を浮かべる。
「腹ぺこな魔獣か、お前は」
「むっ。なんだとー」
バカにされ悔しいが、牢獄ではいい匂いがただようことなど、食事が運ばれてくるときですらないのだ。いいにおいに反応してしまうのは、いたしかたないことである、と私は心のなかでじぶんを擁護する。
が、まるで餌を前にした犬のようだとでも言うような目で私を見るアベルには、若干いたたまれなさを感じた。
「仕方ない。どうやらうちの魔獣はずいぶんと腹が減っているようだから、いいものをあげよう」
そう言ってアベルが手に持っていた紙袋を私に突き出してきた。紙袋からは、美味しそうな香りがさらに濃くただよってくる。
私は紙袋とアベルを交互に見つめた。
「あの、アベル。これって……」
「これは宮廷パティシエが作ったスイーツだ」
「えっ! 宮廷パティシエのスイーツ!?」
なにそれ、ぜったい食べたいんだけど!?
私は今度こそ、意気揚々とアベルが差し出してきた紙袋に手を伸ばす。しかし紙袋は、ふっと私から逃げるように宙を泳いだ。
「……ん?」
眉を寄せ、アベルを見る。アベルはうっすら微笑んでいる。
「…………」
試しにもう一度手を伸ばす。……が。
「ちょっ……」
紙袋はまた私から逃げるような動きをする。
「え、なによ。どういうこと?」
困惑の表情を浮かべる私を見て、アベルが喉を鳴らした。
「ちょっと、なんで笑うのよ」
からかわれたのだと察し、私は眉をひそめてアベルを見る。
「いや、ローズマリーは素直だなと思って」
「なにそれ、どういう意味?」
どう考えても、ぜったいにいい意味ではないと思うが、聞かずにはいられない。
「そのままの意味だ」
と、アベルはやはり楽しげに喉を鳴らした。やっぱり。
「まあ、それはいいからほら、やるよ」
私はそろそろと手を伸ばす。紙袋はもう逃げない。私は今度こそ、アベルから紙袋を受け取った。
「……あ、ありがとう」
内心で嬉しい、と思っていると、アベルに「嬉しそうだな」とずばり言われてしまった。
なんだか本当に餌付けされているみたいで、内心ちょっと、いや、かなり複雑だ。だけど、宮廷パティシエのスイーツは食べたい。どうしても食べたい。
紙袋の中身を覗く。紙袋の封が開いた瞬間、焼き菓子の甘い香りがさらに濃厚に牢獄内にただよい始めた。
「し、幸せの香りがする……!」
スイーツなんて、いったいいつぶりだろう。現代にいた頃を含めても、しばらく食べていなかったような気がする。