放課後の教室。昼間の賑わいはなくなり、窓の外から差し込む夕陽が机の列を朱に染めていた。
俺は自分の机で、ゆっくりと教科書を鞄に詰めていた。他の生徒たちはすでに帰っていて、廊下からも人気は感じられない。
だからこそ、背後から足音が近づいてきたときには、少しだけ身構えてしまった。
「由井君、まだいたんだね」
声の主は、代理担任の柊だった。
白いワイシャツの袖を軽くまくり上げていて、顔には穏やかな笑みを浮かべている。
「あ……はい。ちょっと、ノートの整理をしていて」
自然に応じたつもりだったが、視線が合った瞬間、胸の奥で何かがざらりと動いた。
なぜだろう。初対面のはずなのに、目を合わせるたび、やはり妙な既視感がある。
柊は、俺の机のそばまで歩いてくると、ふと窓の外に目をやった。夕焼けが彼の眼鏡に赤く映って、表情の奥を読みにくくしている。
彼は俺の席に近づいてきて、ふと机の端に手を添えた。
「今日の授業、ちょっと話が脱線しちゃったね。ほら、交通安全の話のところ」
「ああ、えーと……『横断歩道でも油断するな』ってやつですよね」
「そうそう。それと、『もしも時間を巻き戻せたら』っていう話、覚えてる?」
「……ええ。なんか、普通の授業よりリアルで印象に残ったというか」
どこか遠くを見つめながら、柊は小さくうなずいた。そして、ほんのわずかに声のトーンを落とし、こう続けた。
「──“注意していても起きること”って、あるんだよね。……不思議だけど。結局は後悔しないようにするしかないんだと思う。何が起きても、自分で納得できるように」
その言葉は、どこまでも穏やかな調子だった。
でも、俺の背中を薄く冷や汗が伝っていく。それは単なる一般論のようで――どこか、心のど真ん中を射抜くような鋭さを持っていた。
俺は返事をするのを忘れたまま、柊の横顔を見つめていた。
まるで“何かを知っている”人間が、それとなく釘を刺すように言った――そんな印象だった。
けれど、柊はそれ以上なにも言わなかった。ただ、「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」とだけ付け加えると、静かに教室を後にした。
教室に取り残された俺は、しばらくのあいだ窓の外をぼんやりと眺めていた。
――まるで、言葉の余韻が、まだ空気の中に残っているかのように。
(何が起きても、自分で納得できるように……か。なんだか引っかかる言い方だな。あの先生、一体何者なんだ?)
教卓の上で揺れていたカーテンの影が、まるで何かを隠そうとしているように感じられた。
***
Side 圭介
夕暮れが、教室の窓辺に斜めの赤い光を落とす。
生徒の姿が消えた空間には、整然と並んだ机と椅子の影だけが、静かに長く伸びていた。
その一番奥、教卓の席で背筋を伸ばして座っている男がいる。柊圭介――代理担任として赴任してきたばかりの彼は、無言のまま一冊のファイルを前にしていた。
ページをめくる指先は、ひどく静かだった。だが、そこに挟まれているのは、ありふれた成績表などではない。“まだ起こっていないはずの事故”に関する資料だった。
事故現場の写真、未公開の証言要旨、さらには防犯カメラの改ざんログのコピー──本来なら決して世に出てはいけない記録が、何枚もファイルに収められている。
圭介の目が、あるページでぴたりと止まった。ページの隅に、メモのように殴り書きされた一文を、何度も指でなぞる。
──“雲雀孝輝、横断タイミング確認済み。”
ファイルの奥には、さらなる紙束が綴じてあった。
一枚は、孝輝の通学ルートと放課後の立ち寄り先を一週間分詳細に記したスケジュール表。
その隣には、世羅の自宅周辺の手描き地図、凪沙のSNSの投稿履歴を抜き出したメモ。
どの紙も、獲物を追い詰めるための罠の設計図のように整然と揃えられている。
「……ここまでは順調だな。さて……彼らは“次”にどう動くだろうか」
言葉を紡いだその瞬間、教室を染めていた夕日が、まるで血のような赤を残して静かに沈み始めた。
圭介の視線がファイルの最後のページに滑った。そこには、事故の当事者ではない、あるひとつの名前が太字で書かれている。
──由井湊。
それを見つめる圭介の目に、赤い残光が映り込んだ。不気味なほどに冷たい瞳の奥で、何かが軋むように光を帯びていた。
「君がどこまで粘れるか、楽しみにしているよ……湊君」
静寂が、息を呑んだように教室に落ちた。
夕陽が完全に沈むまで、あとわずか。やがて圭介はファイルを閉じて小脇に抱え、静かに立ち上がる。
そして一言も発さないまま、教室を後にした。そこには、教師という仮面をまとった何者かの、不穏な気配だけがじっと残されていた。