その朝の教室は、いつもと変わらないざわつきに包まれていた。誰かが寝ぼけ眼であくびをし、誰かがプリントを床に落として慌てて拾い、誰かが窓際で朝日を浴びながらくだらない噂話に笑い声を立てている。
あの日、俺たちが遭遇した「仮面の男」は、最近ではすっかり病院に姿を見せなくなったという。
あれほど連日のように目撃されネットでも噂になっていたのに、ある日を境にぱったりと現れなくなった。
結局あの男の目的はわからないままだが、ひとまず病院は落ち着きを取り戻し、患者たちも穏やかな日常を過ごしているようだ。
いつも通りの、平凡で退屈な風景。その光景に、釈然としない気持ちを抱えながらも、俺はほんの少しだけ安堵していた。
だがチャイムが鳴る直前、背筋をしゃんと伸ばした副校長が教室に姿を現すと、その空気が少しだけ変わった。「え、なんで副校長?」というざわめきが、前の席から後ろの隅々まで一気に広がる。
副校長は無駄のない仕草で教壇に立つと、慣れた調子で口を開いた。
「おはようございます、皆さん。今日は少し大事なお話があります」
一瞬、教室が水を打ったように静まり返った。
「担任の川原先生ですが……体調を崩され、しばらく入院されることになりました。回復までには少し時間がかかるようですので、本日より、代理の先生が担任を務めてくださいます」
その一言に、教室内がざわついた。俺の後ろの席の男子が、小さく「え、マジか」と漏らす。
(そういえば……この前、職員室の前を通ったときに先生たちが「代理の教師が来る」と話しているのが聞こえてきたな)
そんなことを考えていると、黒板の前に一人の男が立っていた。
眼鏡をかけた、二十代後半ほどに見える青年だ。癖のない髪はきちんと整えられていて、黒に近い濃紺のジャケットに落ち着いた色のネクタイを締めている。表情は穏やかだが、その奥にどこか感情を隠しているような静けさが漂っていた。
彼は軽く会釈をすると、落ち着いた声で自己紹介を始めた。
「
その声を聞いた瞬間、俺の背筋に、微かに冷たいものが走った。
(柊圭介、か……)
名前に覚えはなかった。顔にも、これといった記憶はない。それなのに――声だけが、妙に……異様なほど耳に馴染んでいた。
俺は机に肘をつき、じっと柊の表情を観察する。
穏やかで、丁寧で、理性的。教師としての印象は申し分ない。
けれど、その瞳の奥に、何かを探るような――すべてを見透かすような光を感じたのは……気のせいだったんだろうか。
「あの代理の先生さ……まだ若そうなのに、やけに落ち着いてるよな。普通、もうちょっとぎこちないだろ」
ふと、後ろの席の男子が小声で話しかけてきた。
「……そうだな。場慣れしてるっていうか」
あるいは、「この教室の空気を最初から知っていた」かのような──。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
……なんだ、この感覚は。誰かとすれ違ったときにふと漂ってくる匂いで、忘れていた記憶が一瞬だけよみがえるような……言葉にできない違和感が、胸の奥にずっと引っかかっている。
……いや、考えすぎだ。初対面のはずだ。少なくとも、俺の記憶にはこの男のことなんてない。
昼休み。教室を出て購買へ向かう廊下で、ふと視線を感じて足が止まった。
背中を撫でるようでいて、どこか鋭い“何か”が、すぐ後ろをすり抜けていった気がする。思わず振り返った。
……誰もいない。昇降口へ続く長い廊下に、差し込む陽射しだけが伸びている。耳に残るのは、かすかに唸る換気扇の音だけだ。
気のせいだろうか――いや、確かにあの瞬間、誰かの視線を感じた。冷たく、静かに、俺を“観察”するような目。
誰なのかはわからない。ただ、胸の奥で小さな警鐘が鳴り続けている。
小さく首を振って、俺はその場を後にした。
***
五時間目は、柊の担当する現代文だった。交通安全を題材にした、論理的な文章の構造を分析する授業。
黒板に書かれた文例は特におかしなものではなかったのに──柊の口から語られる「補足説明」が、やけに耳に残った。
「……例えば、信号無視をした車が、一人の少女をはねてしまったとします。事故は一瞬の出来事だけど、その裏には無数の“もし”が積み重なっているんです。もし彼が信号をちゃんと守っていたら……もし彼女があと三秒、出発を遅らせていたら。あるいは──もし、時間を巻き戻せたなら……」
教室には妙な空気が流れ、何人かのクラスメイトが顔を見合わせた。冗談めかした声が聞こえてくる。
「なんかSFみたいだな」
「タイムリープとか?」
「え、そういう映画ありそう!」
けれど、俺は笑えなかった。
柊の声はあくまで穏やかだった。教師として冷静に授業を進めているだけだ。だが、それでもどこかに意図的な“歪み”を感じた。言葉の選び方。語尾に残る、わずかな沈黙。そして、話しながら俺の席の方へ、確かに向けられた目線。
あれは偶然か? いや、違う。俺を知っている──そんな風に思わせる目だった。
“もし、時間を巻き戻すことができたなら”。それは俺自身が何度も脳内で繰り返してきた問いだった。世羅に対しても、凪沙に対しても、孝輝に対しても。そして、自分自身に対しても。
(……まさか、な)
俺はノートの端に、無意味な線を引きながら、気づかれないように柊を観察した。
だが彼は、まるで何もなかったかのように、黒板の文字を指して淡々と授業を続けていた。
けれど──俺の胸の内では、何かが確かに軋み始めていた。