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83.潜む視線

 あれから一晩が経った。

 何事もなかったかのように朝はやってきたが──昨夜、病院の非常階段で感じた“何か”は、まだ体の奥にひっそりと残っている。

 仮面の男。思い出すたびに、背筋に冷たいものが這い上がる。目撃したのは、ほんの数秒だった。監視カメラの死角から現れ、消えるまでのわずかな時間、奴は確かに俺を“見ていた”。

 いや、それだけじゃない。あの目だ。仮面の奥から向けられた視線には、俺のことを“知っている”ような気配があった。俺の存在も、その日に来ることさえも。

 偶然のはずがない。あいつは最初からそこにいて、まるで俺を待ち伏せしていたみたいだった。


「……由井君?」


 気づけば、もう放課後だった。昇降口で呼び止められ、我に返ると、目の前に縁士が立っていた。

 人通りの減った中で、彼は鞄を手に下げ、穏やかな笑みを向けてくる。


「昼休みに言ってたよね、調べたいことがあるって。よかったら、うちのPC使う?」


 その声はいつも通り穏やかで、どこか俺を気遣う響きすら含んでいた。

 そういえば、昼休みに軽くそんな話をした覚えがある。でも――胸の奥が、不自然にざわつく。タイミングが……あまりにも良すぎる。


「……え、いいの?」


 そう口にしながらも、心の奥で小さな警鐘が鳴っていた。先日の一件が尾を引いていて、どこかでまだ警戒しているのかもしれない。


「スペックにはちょっと自信あるんだ。グラボも新しいのに換えてるし」


 笑顔のまま軽くウィンクしてくる彼の顔には、どこか人懐っこい無邪気さがにじんでいた。


「じゃあ……お言葉に甘えさせてもらおうかな」


 俺は一瞬迷ったけど、素直に頷いた。



 ***



 縁士の家は、閑静な住宅街の奥に建つ、白くて大きな一軒家だった。


「こっち。遠慮しなくていいよ」


 部屋に通された瞬間、妙に張りつめたような静けさを感じた。整然と並んだ机、ラベルで几帳面に分類された本棚、配線ひとつ絡まっていないデスクトップの足元。無駄がない。というより……隙がなさすぎる。


「へぇ……すごく綺麗な部屋だな」


「几帳面ってよく言われるんだ。でも、そんな大したことないよ。こだわっているのはPCまわりくらいかな」


 縁士はそう言って笑ったが、その笑顔がどこか「計算されたもの」に見えた。

 俺は椅子に腰を下ろし、マウスを握る。ふと視界の端に、棚に置かれた写真立てが映った。何気なく目を向けると――縁士と、見知らぬ大人の男が並んで写っていた。目元がどこか似ている。おそらく父親だろう。

 だが、その奥に一枚だけ裏返されたままのフレームがあるのを、俺は見逃さなかった。


「……あの写真、なんで裏返してあるんだ?」


 思わず漏れた問いに、縁士の手が一瞬止まった。すぐに笑顔を作り直したものの、その頬はどこか引きつっていた。


「ああ、それか……写りが良くなくてさ。ちょっと嫌な思い出もあるし」


 軽く言ったように聞こえたけど、その目だけは笑っていなかった。何かを隠すことに慣れているような目だ。

 ふと視線を落とすと、棚の一番下の引き出しがわずかに開いているのに気づいた。中を覗き込むと、ありふれたクリアファイルが何枚も束ねて入っている。


「……それ以上は、あんまり見てほしくないな。一応、プライベートなものだから」


「あっ、ごめん。開いていたから、つい……」


 俺はそう言って、慌てて引き出しを閉めた。

 縁士は、また笑っていた。でも今度の笑顔は、どうしても「人当たりのいい仮面」にしか見えなかった。



 縁士が飲み物を取りに席を外したとき、ふと目を奪われたものがあった。

 デスク脇の棚。きちんと並んだ本の隙間に、置き忘れたように挟まっていた――色褪せた一枚の封筒だ。真新しい部屋の中で、それだけが妙に場違いに古びて見えた。

 つい手を伸ばしてしまったのは、単なる好奇心というより、どこか胸に引っかかるものを感じたからだ。封筒の紙はざらついていて、まるで何年も前から書斎の奥に眠っていたかのような手触りだった。

 宛名も差出人もなく、封はすでに開いている。中から出てきたのは、二つの物だった。


 一つ目は――白百合の押し花だった。細かく乾燥した花びらは、薄紙に挟まれているのに、まだほのかに香りが残っている気がする。あの事故現場で、紫音が言っていた“先に置かれていた花束”のことが、ふと頭をよぎった。

 もう一つは、丁寧に折り畳まれた紙だ。そっと広げると、一枚のスケッチが現れた。

 描かれていたのは、「仮面の絵」だった。粗いけれど執念深い線が幾重にも重なり、黒インクの陰影が人の顔をかたどっている。しかし、その形はどこか歪んでいて、人間のはずなのに人間じゃないように見えた。

 表情は無表情――いや、空っぽの奥に何かを潜ませていて、“じっとこちらを見返してくるような”不気味さがあった。思わず喉が鳴る。なぜだか、目を合わせてはいけない気がした。


 真っ先に頭に浮かんだのは、あの仮面の男だった。あの男がつけているものとはデザインが違うはずなのに、どこか似ている気がする。……でも、どうしてこんなものが、こんな場所に?

 ふと壁に目をやると、フックには黒いジャケットがかけられていた。偶然かもしれない。けれど、こうして偶然が重なると、もうただの一致とは思えなくなる。


(まさか……)


 だが――そのとき。


「ごめん、ちょっと遅くなった」


 背後から声がして、俺は咄嗟に手元の紙を封筒にしまい、本の隙間にそっと隠した。音を立てないように、何もなかったかのように。

 振り返ると、縁士はいつもの柔らかい微笑みを浮かべて、冷えたペットボトルを差し出してきた。


「はい。麦茶でよかった?」


「あ、うん。ありがとう」


 その顔には、裏なんてこれっぽっちも感じられない。ただの親切なクラスメイトの表情だ。それでも、さっきよりも深く違和感が胸の底に残った。

 “押し花”と“仮面のスケッチ”。それが何を意味するのかはまだ分からない。けれど――俺の中で、少しずつ疑いが芽生え始めていた。


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