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82.非常階段の影

 放課後の校舎裏には、暮れかけた空の茜色が静かに広がっていた。

 人気のない部活棟の裏手で、俺と世羅、それに凪沙の三人はひっそりと集まっている。周りに部活の声は届かず、聞こえてくるのは風のざわめきと、遠くを走る車の音だけだった。


 俺たちは、巷で噂される仮面をつけた不審者のことを警察に相談した。

 しかし対応は鈍く、「証拠がなければ動けない」の一点張りだった。病院側もセキュリティの不備を認めたくないのか、形だけの見回りしかしていない。

 だったら──孝輝を守るために、俺たち自身が動くしかない。

 スマホに表示された病院の航空写真を指で拡大しながら、俺は視線を上げた。


「やっぱりここからしか入れそうにない。夜間入口は施錠されているし、裏手の非常階段が一番死角が多い。監視カメラも角度次第でかわせそうだ」


「……本気でやるの?」


 凪沙が低く問いかける。瞳には明らかな戸惑いが浮かんでいた。その気持ちは俺も同じだ。軽い気持ちで提案したわけじゃない。でも……。


「他に手はない。警察に言っても、“目撃情報だけじゃ動けない”って断られた。病院のほうも“患者への迷惑になるから”って、これ以上の調査を拒んでる」


「でも……忍び込みって、完全にアウトじゃない?」


 凪沙は腕を組み、少し苛立ち混じりに言う。


「もしばれたら、停学じゃ済まないかもしれないよ?」


「それは……わかってる。でも、もう黙って見ていられない」


 俺の言葉に、世羅がそっと視線を重ねてくる。その表情は、どこか沈んでいた。


「ねえ、ちょっと気になることがあるんだけど……」


 世羅の声は低く抑えられ、真剣そのものだった。


「どうしたの?」


「仮面をつけた不審者の話って、SNSでも話題になっていたよね? さっき、改めて調べてみたんだけど……ほとんどの投稿が消されているの」


「え……?」


 一瞬、息が詰まった。そういえば、紫音も同じことを言っていた。あの件について書かれたアカウントや投稿が、軒並み消えていると。


「でね、ここからが一番怖いんだけど……投稿した人たちは自分で消した覚えがないらしいの。別のアカウントで、そう言っている人が何人もいた」


「それって……誰かが裏で不正アクセスして削除しているってことかもな」


「うん……多分、そうだと思う」


 仮面の人物が現れた途端、スマホの電源が落ちるという報告。不正アクセスの疑い。どちらも複数の証言で一致している。

 まるで誰かが、意図的に“何か”を仕組んでいるみたいだった。


「……今はただの愉快犯に見えるかもしれないけど、いずれ誰かを襲い始めるかもしれない」


 行動からして、仮面の男は患者や看護師の反応を楽しんでいるように見える。それだけならまだいいけれど──孝輝だけじゃなく、他の人だって危害を加えられかねない。

 俺は唇を噛んだ。ただの怪談だったはずの仮面の不審者。その人物に関する話が、別々のルートで、別々の人間から重なりはじめている。もはやただの噂や都市伝説では済まされない。

 沈黙が落ちる。誰もが、何かを決めかねている空気だった。

 俺は目を閉じて、ひとつ息を吐く。


「たしかに、忍び込むのは違法行為だ。でも――もし、俺たちが動かなかったせいで、誰かが犠牲になったら……それこそ、取り返しがつかない」


 俺たちの行動が、道を踏み外していることはわかっている。けれど、ここで黙っていることのほうが、もっと怖かった。

 その言葉が重く落ちたあと、しばらくして世羅が口を開く。


「……私、やるよ。迷ってもしょうがない。やらなきゃわからないなら、やるしかないよ」


 その決意に凪沙は一瞬目を見開いたが、すぐにため息をついて、苦笑しながら頷いた。


「わかった。私も、手伝うよ。どうせ止めても聞かないでしょ、湊君も世羅ちゃんも」


「……ありがとう、ふたりとも」


 俺は、心の底からそう思った。こんな無茶に付き合わせるのは申し訳ない。でも、きっとひとりじゃ踏み出せなかったはずだ。


「じゃあ、明日の深夜0時集合。……あの病院の裏手にある廃棄処理棟の前に。そこで合流して、中に入ろう」


 風が、また吹き抜ける。どこかで猫の鳴き声がした。

 闇が落ちるより先に、俺たちは覚悟を決めた。誰にも頼れないなら、自分たちで真実を見つけにいくしかない。それが、たとえ法を少し踏み外すことでも。



 ***



 病院の敷地内は、夜になると別の顔を見せる。昼の喧騒が嘘のように息をひそめ、建物全体が何かを押し殺しているような重苦しい空気に包まれる。

 深夜0時を回った頃、俺は世羅と凪沙とともに調査をするべく、人気のない裏口から敷地内へと足を踏み入れた。

 空調の唸りと、蛍光灯が放つかすかなノイズだけが、コンクリートの空間に滲むように響いている。

 調査――というより、“限られた時間で立ち入りが許されていないエリアに入り込んでいる”というのが正確かもしれない。

 もちろん、これは明確に言えば違法行為だ。ただ、それでもやらなければならないと思わせる理由が、俺たちにはあった。


 俺は、タイムリープ前の世界でやっていた警備バイトの知識を総動員して、人目の少ない夜間外来エリアの通路と非常階段を通るルートを割り出した。三人で交代しながら見張りと巡回を続ける作戦だ。滞在時間も長くはない。もしどれだけ探しても例の仮面の不審者が見つからなければ、すぐに引き上げるつもりだった。

 まずは凪沙に周囲の見張りを任せて、俺と世羅は分かれて非常階段周辺を確認することにした。すると、イヤホン越しに世羅の声がふいに聞こえてきた。


「まるでさ、“見せる側”がいるみたいだよね」


 世羅の言葉に、俺は思わず首をかしげる。


「見せる側……?」


「うん。こっちの動きを知っていて、わざと見せてる。“演出”してる、って感じ。……ほら、私たちが今ここにいるのも、なんとなく読まれている気がして」


 背中を、じわりと冷たいものが這い上がる。

 俺たちは今、確かに“何か”の領域に踏み込んでしまっている。そして――その“何か”は、こちらの動きすら計算に入れて、嘲笑っているのかもしれない。


「……気を引き締めたほうがいいな」


 無意識のうちに、俺は小さくつぶやいていた。


「うん。すぐ近くにいる気がする……」


 ちょうどその瞬間、イヤホンが微かに震えて、世羅の声が流れ込んできた。


「いた……! あれ、仮面の男じゃない!?」


 俺と世羅は同時に立ち上がった。

 視界の端、非常階段の踊り場――薄暗い隅に、一瞬だけ人影が見えた。確かに、仮面をつけた誰かがこちらを見ていた。……いや、あえて見せつけていた。


「あ……逃げたっ!」


 世羅の声と同時に、仮面の人影が階段を駆け下りていく。


「追いかけよう!」


 俺たちはすぐに駆け出した。だが、角を曲がったその先に――もう人影はなかった。

 音すら残さず、まるで最初から存在しなかったかのように。


「嘘……!? どこに行ったの……?」


 世羅の声が震えている。

 俺は胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚を抱えたまま、闇の奥をじっと見つめていた。


「……見失った」


 そうつぶやき、黙って世羅と視線を交わす。胸に残るのは、追いつけなかった悔しさではなく――得体の知れない不安だけだった。

 呼吸を整えながら、俺はただ夜の闇を見据える。


 そのとき、背後から小さな足音が聞こえた。振り向くと、少し離れた場所で見張っていたはずの凪沙がこちらへ駆け寄ってくるところだった。


「今の音……まさか、何かあったの?」


 俺は一度世羅と目を合わせてから、静かに凪沙に告げた。


「……仮面の男が出た。逃げられたけど、確かにここにいた」


 言葉を飲み込んだ凪沙の表情が、緊張で固まる。


(これは……本物だ)


 都市伝説だと思っていた。所詮、噂話の延長だと。きっと集団ヒステリーか何かで、実際にはそんな奴はいない――どこかで、そう願っていた。

 だが、今こうして“何か”を見てしまった以上――もう、逃げ場はない。


(……俺たちは、想像以上にまずいものに触れてしまったのかもしれない)


 口には出さず、そう思った。


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