放課後のチャイムが鳴ってから、もう十数分は経っていた。
西日がゆっくりと傾き、校舎の影が伸びる。俺は、校門の裏手にある植え込みのそば――普段、生徒がほとんど通らない小さなスペースで、世羅を待っていた。
ここは夕方になると空気が落ち着いて、周囲の喧騒から少しだけ切り離されたような感覚になる。風が静かに葉を揺らし、校舎の壁に夕陽の赤が滲んでいた。
足音が一つ、砂を踏む音が近づいてくる。振り返ると、世羅がこちらへ歩いてくるのが見えた。
いつもの明るい笑顔――そう見えたのはほんの一瞬だけだった。どこかその表情には影が差し、目は鋭く冴えていて、張り詰めた空気をまとっている。
「ねえ、湊君」
そう問いかけると、世羅は一拍置いてから足を止め、俺の方へ顔を向けた。声のトーンがいつもより少し低く、慎重だった。
「どうかしたの?」
「今日、偶然知ったんだけど……孝輝君が入院している病院で、変な噂が流れているらしいよ」
その言葉に、俺は思わず身じろぎした。
「変な噂って……どういうこと?」
「えっと……最近、病院内で“不審者が出る”って話があって」
世羅は慎重に言葉を選びながら続けた。
「しかも……その人、仮面をかぶっているらしいの」
「……仮面?」
反射的に問い返す。そんな現実離れした話、普通なら笑い飛ばして終わりだ。でも今の俺には、その“普通”がどこか遠いものに思えた。
世羅は小さく頷くと、視線を逸らさずに俺を見つめてくる。
「白い仮面。顔全体を覆っていて、目元は細く鋭い形……それに、口元はね、笑っているみたいに彫られているんだって」
――白い顔。鋭い目。笑っているようにも見える口元。
胸の奥がひやりと冷たくなり、ぞくりと背筋を何かが撫でていった。心の奥に、得体の知れないものがじわじわと這い寄ってくる気がした。
「それ、どこで聞いたの?」
「うちのクラスの子が言っていたの。……患者や看護師の間で噂になっているんだって」
どうやら、世羅のクラスメイトの親がその病院で働いているらしい。それが出どころなら、ただの作り話とは言い切れない。
「中には、本物の幽霊かもって言ってる人もいるらしいよ」
思わず、言葉が喉につかえた。
「……それって、本当なの?」
世羅は頷いた。冗談や大げさな様子はなく、顔は真剣そのものだった。
「うん……夜勤の看護師さんや患者さんが廊下で見たみたいで」
「いつからそんな話が出ているんだ?」
「三日くらい前かららしいよ」
手のひらにじわりと汗が滲む。心臓が、確実に速く打ち始めた。
(そういえば、二条も病院の不審者について調べているって言ってたな。……でも、そんなはずない。あれは、俺が作った話のはずなのに……)
なのに、どうして現実になっているんだ?
誰かが、俺の計画を知って再現しようとしている? それとも――。
「……見間違いじゃないの?」
絞るようにそう言った俺に、世羅は一瞬だけ視線を向け、ゆっくりと目を細めた。
「何人も目撃しているらしいから、本当だと思う。……この前お見舞いに行ったとき、湊君が見たっていう不審者と同じ人なのかな?」
「……わからない」
答えた声には、戸惑いが隠しきれなかった。凪沙もそれを感じ取ったのか、それ以上は何も言わなかった。
病院に現れる不審者――それは本来、作りもののはずの影。けれど、もし誰かの手で“形”を与えられ、現実に姿を現したのだとしたら……この先、俺たちの一挙手一投足はすでに“誰か”に見透かされているのかもしれない。
沈黙の中、どこからかカラスの鳴き声が聞こえた。それが妙に遠く、現実から隔てられたように感じられた。
***
翌日。昼休みの終わり頃、俺は図書室へ足を運んだ。
別に読みたい本があるわけじゃない。ただ最近は、こうして静かな場所に身を置くことが増えた。ざわついた教室よりも、誰の声も届かない空間のほうが考えをまとめやすいからだ。
頭の奥で、何かがずっと引っかかっている。ここ最近、いろいろあったけれど……何かを見落としている気がしてならない。
俺は奥の窓際にある、人のいない席に腰掛けた。ちょうどいい具合に光が差し込み、ノートを開いてペンを握ったまま数分が過ぎる。
そんなとき、ふとした気配に顔を上げた。
「また会いましたね、由井君」
聞き覚えのある声だった。視線を上げると、紫音が数冊の本を抱えながらこちらをじっと見ていた。
「小日向さん……どうしたの? 調べ物?」
「ええ、まあ……そんなところです」
そう言うと、彼女はこくりと頷いて、隣の席に腰を下ろす。
図書室特有の、紙の匂いと静かな冷気が、二人の間に満ちていた。
「あの……ちょっと、由井君に話しておきたいことがあって」
紫音はノートの隅に視線を落としながら言った。その声はかすかに揺れていたが、どこか決意が込められているようにも感じられた。
「実は私、都市伝説とか、ネットの怪談みたいな話を集めるのが趣味で。普段から、動画サイトやSNSでそういう情報を追っているんですよ」
「へえ、意外」
俺は少し驚いて答える。彼女は成績優秀で、学級委員を務める“真面目な優等生”だと思っていたから、そんな趣味を持っているとは意外だった。
紫音は苦笑したようにうつむく。
「それで……最近見かけた投稿に、気になる話があって」
いつもの穏やかな声。でも、どこか探るような響きが混じっていた。
「どんな?」
「動画サイトとかSNSの都市伝説系のアカウントが発信元なんですけど……」
そう言いながら、彼女はそっと視線を下げた。手元の本の端を、指先でなぞっている。表情は静かだけど、どこか不安定だ。
「雲雀君が入院している病院で、“仮面をつけた不審者”が目撃されているらしいんです」
(あの話、ネットでも噂になっているのか……?)
戸惑いを感じながらも「詳しく聞かせて」と軽くうなずくと、紫音は息を整えるように言葉を継いだ。
「最初は作り話かなと思っていたんです。でも、似たような目撃証言が複数あって。その中に、ちょっと引っかかる共通点があるんです」
「共通点……?」
「はい。出会ったときにスマホの電源が突然落ちたって人が何人かいるんです。偶然にしては不自然ですよね。電子音と一緒に、“狙ったように”起きたという証言が何件もあって……でも、中には何もなかったって人もいるみたいです」
俺は息を呑んだ。胸の奥がざわつく。世羅が話していた目撃談には、こんな話はなかったはずだ。
「そいつの姿や特徴は?」
「黒い服に白い仮面。それにフードをかぶっていたっていう人もいます。……でも何より、“見られてる”っていう感覚が異様に強かったって」
紫音の瞳が真っすぐに俺を見つめる。冷静に言葉を選んでいるようで、その奥には隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「しかも、正体を探ろうとした人たちが、なぜか自らSNSのアカウントや投稿を消してしまっていて……もちろん、ただの悪ふざけかもしれません。けど、こういう噂って、現実の影を引きずっていることがあるから……」
紫音の表情には、どこか張り詰めたものがあった。
都市伝説のように扱いながらも、その裏にある何かを無視できずにいる――そんな様子だった。
「都市伝説っぽくて真偽ははっきりしないけど、雲雀君が入院している病院で起きているっていうのが気になるんですよね……」
紫音の声が静かに途切れた。図書室の空気が、ふいに一段と冷たくなったように感じる。
世羅が言っていた特徴とぴったり一致している――これはただの偶然だろうか?それとも、誰かが意図的に“そんな噂”を流しているのか。
どちらにしても、もうこれを“ただの作り話”と片付けることはできない。
(もしかして……誰かが、本当に俺たちのすぐ近くで、何かを仕掛けているのか?)
背筋にぞくりと冷たいものが走る。日常のすぐ外側で、誰かがじっとこちらを見つめている気配を感じた。