放課後。世羅と凪沙とともに校舎を出ると、空気はすでに夕暮れの気配を帯びていた。西の空は淡く茜に染まり、校庭を吹き抜ける風も、昼間よりほんの少しだけ涼しく感じる。
今日も、三人で例の横断歩道を見に行く予定だ。並んで歩いていると、不意に肩を軽く叩かれた。
「今日の見張りは、私たちだけでやるよ。湊君は、今日はちゃんと休んで。ここ数日、けっこう無理してたでしょ?」
振り向くと、凪沙が真剣な表情でそう言った。「いや、大丈夫だよ」と返そうとしたけれど、俺が言葉を口にする前に彼女はもうICレコーダーとノートを取り出していた。相変わらず、抜かりがない。
「そうそう。徹夜で考察して倒れたら意味ないからね」
世羅が冗談っぽく笑いながら、俺の肩を軽く小突いてくる。いつも通りの明るい笑顔──きっと、気を遣ってくれているのだろう。
俺は小さく息を吐き、二人に向き直って言った。
「……ありがとう。助かるよ」
そう口にすると、二人ともほっとしたように、少しだけ笑った。
「じゃあ……私たち、行ってくるね。何かわかったら、今日中に連絡するから」
世羅がそう言って手を振る。それに合わせて、凪沙も静かに手を上げた。
たとえタイムリープのことを知らなくても、こうして並走してくれる仲間がいる──そのことが、どれだけ心強いか。
二人の背中を見送ったあと、ふと喉の渇きを思い出して自販機へ向かった。
何か飲んで、少し頭を冷やそう。地図の確認も、もう一度やり直しておきたい。
あの赤い車の動き――どう考えても、普通じゃない。
そんなことを考えながら、自販機の前で財布を取り出して小銭を選んでいたときだった。
「由井君、ちょっといいかな」
背後から声がかかった。落ち着いていて柔らかいのに、どこか空気をひんやりさせるような響きだ。
振り返ると、縁士が立っていた。制服は乱れひとつなく、姿勢もきちんとしていて、穏やかな眼差しをこちらに向けている。
「ん? いいけど……なんの用?」
思わず、言葉を選んで返事をしてしまった。
自分では警戒しているつもりはなかったのに、どうしても彼の表情が読み取れなかったのだ。
縁士は小さく首をかしげ、そっと息を吸い込んでから口を開いた。
「このあいだ、雲雀君が入院してる病室の前で、不審者を見たって話……本当?」
胸の奥に、氷の破片を落とされたような感触が走った。
「……え? それ、どこで聞いたの?」
俺の返答は、反射だった。縁士の表情は変わらない。ただ、まっすぐこちらを見てくる。
「この前の放課後、図書室で本を返していたら……君たちの声が聞こえてきたんだ。もちろん、全部を聞いたわけじゃない。でも、“雲雀君が危ない”って言っていたのは、はっきり覚えてる。盗み聞きするつもりはなかったんだけど……たまたま耳に入っちゃって。ごめんね」
まさか聞かれているなんて思わなかった。その言葉に、思わず心が揺れる。
「それで、ちょっと気になってね。実は僕も、その件について個人的に調べているんだ」
そう言われた瞬間、縁士が何を言っているのか理解できなかった。だが、彼は真顔で言う。
「調べてる……? なんで?」
「一応、学級委員だからね。クラスメイトがまた危ない目に遭うかもしれないって聞いたら、そりゃあ動くよ。……だから、君たちに協力したくなったんだ」
その瞬間、背筋にふわりと柔らかな何かが触れたような、不思議な感覚が走った。
その笑顔も声も、まるで“好意”そのものを演じているみたいだ。けれど、それが本当に心からのものなのかは、まだ信じ切れない。
「何かわかったら、すぐに共有するよ」
縁士の口からその言葉が出た瞬間、俺の脳裏に世羅と凪沙の顔が一瞬よぎった。
“病室前の不審者”なんて話は、本当は存在しない。ただ二人に協力してもらうために、俺が作り上げた“きっかけ”に過ぎなかった。証拠も目撃者もない、ただの虚構だ。
つまり、どれだけ調べたところで、何も出てくるはずがない。にもかかわらず、縁士はわざわざ「調べた」と俺に告げてきた。
なぜだ? 俺の作り話の中に、何かしらの“真実”を嗅ぎ取ったのか。それとも、すべて見抜いた上で、わざと俺をかき乱そうとしているのか。
――それとも、本当にあの病室の前に“誰か”がいたのか。
「……ありがとう。でも、この件についてはあまり深入りしない方がいいかもしれない」
言葉は選んだつもりだった。やんわりと距離を置くつもりで。それなのに、縁士はただ静かに笑った。
「心配してくれるんだ。優しいね。でも……自分で言うのもなんだけど、こういうの放っておけない性格なんだよね。だから、何か分かったらすぐに教えるよ。他に手伝えることがあれば、遠慮なく言って」
その言い回しが、どこか含みを帯びて聞こえたのは、きっと俺の心が荒んでいるせいだろう。
縁士は一歩だけ後ろに下がり、踵を返しかけた――が、ふと立ち止まり、振り返った。
夕陽が背後から差し込み、逆光に浮かんだ彼の顔は、一瞬だけ影に沈む。そして縁士は、静かに口を開いた。
「口にした物語が、いつの間にか足を持って、現実の地を静かに歩き始める――そんな悪夢に、僕たちはどこまで気づけるんだろうね」
意味はわからなかった。でも、背筋を何かが這う感覚だけは確かにあった。だから聞こえなかったふりをして、問い返した。
「え……? 今、なんか言った?」
「……ううん、なんでもないよ。じゃあ、またね」
縁士は軽く手を上げ、くるりと背を向ける。
俺はただ、黙ってその背中を見送るしかなかった。
(……どういう意味なんだ?)
届くはずのない問いを、心の奥に押し込んだまま、俺はそこに立ち尽くしていた。
「……なんだったんだ、今の」
俺は首をかしげながら、自販機に小銭を入れた。飲み物が出てくると、心のざわつきを隠すようにキャップをひねる。炭酸の泡が静かにはじける音が、やけに耳に残った。
――そのときだった。
「あの、由井君。今、二条君と話していましたよね?」
不意に声をかけられて振り向くと、校門の方から紫音が歩いてくるところだった。風にスカートの裾を揺らしながら、まっすぐ俺を見ている。
「あ、小日向さん。うん、話してたけど……それがどうかしたの?」
俺の言葉に、紫音は「そうですか……あ、いえ。たいしたことじゃないんです」と、どこか曖昧な笑みを浮かべて立ち止まる。
けれど、そのまましばらく黙り込んで、何かを考えている様子だった。
気まずい沈黙が流れる。俺は視線をそらして、遠くの校庭を眺めた。部活を終えた生徒たちが、まばらに帰っていく。
風は少し生ぬるくて、夏の夕暮れらしい湿った空気が肌にまとわりついた。
「……一緒に、帰りますか?」
紫音がぽつりと言った。
自然なその一言に、俺は頷いて、彼女の隣に並ぶ。
しばらく無言で並んで歩いたあと、紫音がふと口を開いた。
「あの……ひとつ、相談に乗ってもらってもいいですか?」
「ん? もちろん。……でも、小日向さんが相談って珍しいね。いつもしっかりしてるイメージだったからさ」
「そう見えますか?」
そう言った彼女の声は、いつもよりほんの少し小さかった。冗談めかした調子ではあったけれど、その奥に滲んでいたのは間違いなく本気だった。
「……うん。でも、そう見えるってことは、それだけ頑張ってる証拠だと思うよ」
俺がそう返すと、紫音は目を伏せて、歩く速度を少し緩めた。まるで大切な言葉を選ぶように、ゆっくりと考えているようだった。
「ありがとう、由井君。……ちょっとだけでいいんです。話を聞いてくれるだけで」
さっきよりも少し柔らかくなった声が、風に溶けていく。俺は黙って頷き、歩調を紫音に合わせた。
空はゆっくりと茜色に染まり、校舎の影が長く伸びていく。風の匂いが、遠い季節を運んでくるようだった。
何を話すつもりなんだろう――そんな疑問が胸をよぎったが、今はただ、彼女の言葉を待つことにした。
紫音は少し口ごもってから、ためらいがちに言葉をつむぐ。
「……最近、二条君の様子が、なんだかおかしい気がしていて」
「え? どうしてそう思ったの?」
「あ、いえ……なんていうか、話していると、相手に合わせた“正解”だけを選んでいるみたいで……」
俺は立ち止まり、彼女の横顔を見つめた。
彼女は前を向いたまま、どこか遠くを見るような目をしている。
「前はそうじゃなかったのか?」
「はい。少なくとも、あんなふうに相手の様子をうかがいながら言葉を選ぶような話し方は、あまりしていなかったと思います」
その言葉に、胸の奥で何かがざわついた。
“その人に合わせた正解を選ぶ”――たしかに、縁士の話し方はそうだった。つい先ほど、まさにそれを体感したばかりだ。
どんな言葉を返しても、すぐに“ちょうどよく受け止めてくれる”。まるで、台本でもあるかのように。
……いや、違う。「台本があるから」そうできるのか?
(なんだろう、もやもやする……。それに、“演じてる”って感覚、俺も前からどこかで感じていた気がする)
俺の脳裏に、さっきの縁士の笑顔がちらつく。
決定的な証拠があるわけじゃない。ただ、小さな違和感の積み重ねが、今になって一気にノイズみたいに頭の奥に残っている。
紫音が誰かを疑うことなんて滅多にない。だからこそ、人の“偽り”には敏感なのかもしれない。
……いや、違う。もしかしたら、“すでに一度”裏切られているのかもしれない。無自覚に。
俺は歩きながら、紫音の横顔をもう一度見た。
彼女の表情は穏やかだけど、その目には確かに――淡く、不安の色が揺れていた。