図書室の隅は、傾きかけた夕陽に照らされていた。
窓の外から差し込む光が、静かにガラスを橙色に染める。
床に落ちた柔らかな陽だまりの中、木製の机に広げられたメモ用紙の上に置かれたペンが、細長い影を伸ばしていた。
俺は黙ったままスマホの画面を見つめ、地図アプリと格闘していた。
──現代に戻ったとき、紫音と紗菜さんが言っていた「赤い車」。その車は、駅の東口の駐車場に現れるらしい。
(ってことは……たぶん、このルートを通って駐車場に行くはずだ。駐車場から孝輝が事故に遭った横断歩道までは、目と鼻の先だし……待機場所としては都合がいい)
そんなことを考えながら、頭の中で必死に最適なルートを組み立てる。だが、どうしても決め手が見つからない。胸の奥にじわじわと焦りが滲んでくる。
――そんなときだった。
「……あの、由井君」
背後から、やわらかな声が響いた。
息を呑んで振り返ると、そこには紫音が立っていた。彼女の表情はどこか探るような、けれども敵意のないものだった。
「もしかして、何か探しているんですか?」
一瞬、心臓が跳ねる。だが、俺はすぐに表情を取り繕い、軽く肩をすくめてみせた。
「……ああ、いや。ただ散歩コースを確認していただけだよ」
手元のメモをさりげなく伏せながら、苦しい言い訳を口にする。が、紫音は静かに首を傾げた。
「それ、隠しごとがある人の言い方ですよ。散歩コースを確認するにしては……ずいぶん大がかりじゃありませんか?」
視線が机の上をかすめる。思わず指先に力が入った。
──しまった、気を抜きすぎたか?
言い返す言葉を探す間もなく、紫音がそっと近づいてくる。その足取りは慎重なのに、不思議とためらいは感じられなかった。
「……私、ずっと思っていたんです。由井君が、何かに追われているんじゃないかって。前より目つきが鋭くなっていて……焦っているというか、何か重いものを背負っている人の目だなって思ったんです。……違いますか?」
「え……」
俺は言葉を失った。否定しようにも、その言葉があまりにも的確すぎて、喉の奥が締めつけられるようだった。思わず視線を落とす。
(……まさか、俺が過去を変えようとしていることに気づいてる? いや、今の紫音は、まだ何も知らないはずだ)
けれど――この目。この声。この空気。彼女の直感が、俺の仮面を静かに、じわじわと剥がしていく。
やがて紫音は、意を決したように口を開いた。
「由井君が何を抱えているのかは分かりません。……でも、なぜかあなたを見ていると、自分も何かしなきゃって気持ちが抑えられなくて……。だから、もし私にできることがあるなら、力にならせてもらえませんか?」
その言葉に、心がふと揺れた。迷いと警戒が入り混じる中、ふと浮かんだのは――未来で見た、あの紫音の強さだった。きっと今目の前にいる彼女も、根っこの部分は何も変わっていないのかもしれない。
(“今の紫音”は、俺がタイムリープしていることに気づいてない。でも……きっと、本能的に何かを感じているんだ)
俺は小さく息を吐き、意を決したように顔を上げる。
「……だったら、頼みたいことがあるんだ」
紫音の目が、静かに見開かれた。
「ちょっと、過去の記録を調べる必要があって……市の防犯カメラのバックアップにアクセスできる人って、誰か心当たりない?」
「うーん、そうですね……情報処理部の先輩なら、なんとかしてくれるかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にかすかな希望の光が差し込んだ気がした。
紫音は小さくため息を吐くと、目を伏せた。
「うまく言えないんですけど……由井君の必死さを見てると、なんだか昔の自分を思い出すんです」
俺は言葉を失ったまま、彼女を見つめた。
紫音の声はわずかに震えていたが、その瞳には確かな覚悟の光が宿っていた。
「……実は私、自分の母の事故のこと、ずっと納得できてなかったんです」
俺は小さく頷いた。今回のタイムリープの直前にも、紫音がその話をしていた気がする。
「そういえば、前にも言ってたよね。お母さん、事故で亡くなったって」
紫音はかすかに笑みを浮かべたあと、すぐに真剣な表情に戻った。細い指先が、そっと手元の鞄の端を握る。
「私が子どもの頃、母は車にはねられて亡くなりました。運転手の居眠り運転として処理されたんです。でも……現場には、変なものがあったんです」
「変なもの?」
声が少し硬くなったのが、自分でもわかった。紫音は一瞬だけためらい、目を伏せたまま続きを話す。
「白百合の花束です。事故の前から、あの場所に供えられていたのを……見た人がいるんです」
夕陽の輪郭が、窓ガラスの向こうでかすかに揺れた気がした。夏の光。けれどそのぬくもりとは裏腹に、背筋を冷たいものが撫でていく。
「事故の……“前”に?」
思わず、俺は聞き返した。
「はい。でも、事故の直後にはなかったんです。片づけられたのかもしれませんけど……何か、ずっと引っかかっていて」
紫音は机の上に目を落としながら、言葉を探すように続けた。
「もしかしたら、昔あの場所で事故に遭って亡くなった人がいて、その人に手向けた花だったのかもしれません。……でも、近所の人は、それまでそこに花が置かれているのを見たことがなかったって言っていて」
沈黙が落ちた。静寂というより、何かが張り詰めたような、重たい間だった。
俺は視線を下げたまま、思考の中に沈み込む。
(事故が起きる“前”に、花束があった……? つまり──)
俺の脳裏に、ある仮説が浮かんだ。
(未来を知っていた誰かが、先回りして花を供えたってことか……?)
その光景はあまりにも異様で……でも、俺には妙に“現実味”があった。タイムリープなんてありえないことを体験した今となっては、どんな出来事もただの偶然だと割り切るわけにはいかない。
紫音が口を開く。声こそわずかに震えていたが、それ以上に、揺るがない強さがあった。
「私、その花束が──“誰かの予告”だった気がして。事故じゃなくて、“演出されたもの”だったんじゃないかって、思っているんです」
俺は顔を上げた。紫音の目が、まっすぐにこちらを見つめていた。怯えているのではない。何かを確かめようとするような、静かな眼差しだった。
「それと……もうひとつ、気になっていることがあって」
そう言いかけて、紫音はふと視線を落とした。
窓の外から、カラスの鳴き声がかすかに響いてくる。それがどこか不穏に感じられたのは、きっと、自分の心がざわついているせいだ。
そんなことを思っているうちに、紫音は小さく息を吸い、意を決したように口を開いた。
「母が事故に遭う数日前から、事故現場の近くで赤い車が何度も目撃されていたらしいんです。これは……私が個人的に調べて、わかったことなんですけど」
──赤い車。
その単語が耳に入った瞬間、思考が一瞬停止する。
脳裏に浮かんだのは、現代に戻ったときに紫音が話していたことと、紗菜さんから受け取ったメモの一文だった。孝輝が二度目の事故に遭う直前、現場付近を赤い車が何度もうろついていた――その情報が、頭の奥で警鐘のように鳴り響いている。
「赤い車……? ちょっと、聞いていいかな。小日向さんのお母さんが事故に遭った場所って、どこ?」
心臓が、ひときわ強く打った。紫音は小さく頷いて、はっきりと答えた。
「えーと……
その瞬間、俺の中で点と点がつながった。悪寒が全身を走る。
もう「まさか」とは思えなかった。そこは――孝輝が二度目の事故に遭った、まさにその場所だった。
きっと、偶然じゃない。静かに、しかし確実にパズルが組み上がっていく。
脳裏を覆っていた霧が、少しずつ晴れていくのを感じた。背後に潜んでいた気配が、ようやく輪郭を帯び始める。
「小日向さん。その事故……もしかしたら、俺たちが今追っていることとつながっているかもしれない」
言葉を口にしたとき、俺の中にはもう、確信しか残っていなかった。