遡ること数分前、純粋な眼差しで町の行き止まりにある狩人小屋に到着した。
足元は白く、胴体に上がっていくにつれ、茶と灰が混じった毛となる体長130センチの狼。
扉を前脚の爪で引っ掛け、自分が来たことを知らせる。
『ボクだよ! なんともない?』
無邪気に呼びかける。
内側から硬く床を叩く音に、狼は扉から2歩後ろに下がった。
少し遅れて、扉がゆっくり、隙間から同じ琥珀の瞳と合う。
『あぁ良かった、どうぞ入って。赤ずきんは?』
ボロ布に全身を包んだフーゴは、安堵した吐息で招く。
リヒャルトは不安に支配された表情のままフーゴの傍に寄る。
『警察のところにいるよ、ワルフリードがいなかったから見に来たんだ』
『こっちには、来てない』
「多分母さんのところ。嫌いなピアノをやらせるために、2人して僕をイジメるんだ……もうこの町はヤダ、フーゴ、どこかに行こう。フーゴとなら僕どこでも行く」
『それは僕も同じだ。リヒャルトだけだよ』
『仲良しだねっ』
ふさふさの尻尾を横に小さく振る。
『君だって、そうだろ?』
『うん! ボクたち愛してるもん』
きょとん、と傾げたリヒャルトと、瞬きの間だけ置いて行かれたフーゴは、同時に綻ぶ。
『いい響きだね』
『でしょ、言葉にしなくても伝わるんだって』
束の間の歓談を過ごしていると、尖った耳がピクリ、と動いた。
フーゴは急いでリヒャルトを覆い抱き、窓の下に屈む。
『誰か来た、でも赤ずきんじゃない、ニオイが全然違う』
鼻から仕切りに息を出した狼は、扉の隙間から外の様子を見てみる。
寡黙を貫く背広の男が、自動拳銃を片手に狩人小屋に向かって、じりじりと近づいていた。
『ワルフリードだよ。逃げなきゃ、裏口ってないの?』
『他はない。僕が隠れ家として使う時に、全部調べてある』
『そうなんだ……ボクにまかせて。絶対に出てきちゃだめだよ』
「でも」
不安げなリヒャルトに対し明るい調子で、
『大丈夫、これでも赤ずきんと旅して色々学んでるもん』
楽天的に答えた。
鼻先で扉を押し開けると、ゆっくり姿をワルフリードの前に現した。
「パック、か」
咄嗟に銃口を向け、渋い声で狼を見て呟く。
『ぱっく? なにそれ、ボクはボクだよ』
「調査隊が名付けた……坊や、貴重な種類を撃ち殺したくない、そこをどいてくれないか」
後ろ脚に重心を寄せ、地面を踏みしめると、牙を剥き出しに威嚇。
「坊や」
グリップがギリギリと鳴る。
ワルフリードの瞳は愛想すら浮かべられない。
空に甲高く叩きつける破裂音が響き渡った。
地面が抉れ、土煙が風に持ち去られる。
「……」
ワルフリードの視界から狼の姿が消え、銃を構えたまま向きを変えた。
どこにもいない。
荒れ狂う吐息も、土を引っ掻く爪の音も聞こえない。
気配すら感じ取れない静けさのなか、ワルフリードの肩に深く重い物が沈み込んだ。
突然のことに痛みが遅れ、銃が離れていく。
倒れ込んだあと、太い叫びを上げた。
『ペッ、不味い』
血が流れる肩を押さえ、牙を赤く染めた狼を睨んでいる。
鋭い琥珀の眼光と合う。
『ねぇおじさんがアーサーを殺したの?』
「ぐ……くそ」
『ちゃんと答えてくれないと、噛み千切るよ』
「あぁ……そうだ」
『どうして、アーサーはとっても良い人なのに、どうしてフーゴに罪を着せたの?』
「……軍が憎い、婚約者をレイプしたうえ、無惨に。フーゴ……」
『フーゴはフーゴだよ。おじさんが脅した』
「あぁ、あのヴォルフ……はぁ、どうでもいい。リヒャルトが邪魔だった」
『どうして?』
「彼女は、もう、俺の女だ」
グルグルと唸るが、ワルフリードは口を閉ざす。
「狼クン!」
『あっ』
純粋に染まった琥珀は、慌てた透き通った声に惹かれていく。
赤いコートにボルトアクションライフルと45口径ダブルアクションリボルバーを携えた美しい女性、赤ずきん。
状況を碧眼に映したあと、あぁ、と理解する。
「やり過ぎてない?」
『赤ずきんほどじゃないよ、加減してる』
「はは、とにかく君が無事でよかった」
胸を撫で下ろす。
「ワルフリード!」
遅れてやってきたギャロンは、血まみれの相棒のもとへ駆け寄る。
「本当に、お前がやったのか……俺達は警察だってのに」
血まみれの肩に止血を施し、悔しさを噛み潰した声で絞り出す。
「ギャロン、すまない」
「クソ、否定ぐらいしやがれ!」
赤ずきんは2人をその場に放置し、狩人小屋の扉を開ける。
隠れているフーゴとリヒャルトはお互い安心に満ちた笑顔を浮かべた。
「さて、さっさと町から出た方がいいですよ。どのみち、ワルフリードさんは生きてますし、捕まってもいつかは出てきます」
『うん、うん』
「良かった、ホントに良かった。フーゴは捕まらないんだよね?」
「大丈夫ですよ、さぁ今のうちに」
小屋を出た。
リボルバーの銃口をギャロンとワルフリードに向ける。
「狼クン、彼らを外まで護衛してあげて。私はここで見張ってる」
『分かった!』
狼は外へと導く。
リヒャルトを胸に抱え、ボロ布で全身を包んだフーゴは進む。
『森に行こう、あそこならみんなが仲良く暮らしてる』
「森の奥の奥にあるって噂の町だね」
『ねぇねぇそこってどんなところなの?』
『それが、僕もよく知らないんだ。ただ僕と同じ奴がいて、共存してる。とにかくそこを目指すよ』
外に出て、ようやく顔部分のボロ布を取り外す。
黒い体毛に垂れた琥珀の目、突き出た大きな口と鼻、鋭い牙。
『気を付けてね、外じゃ人食いもいるし、甘い言葉で誘拐してくる奴らもいるんだ、他の人を簡単に信じちゃだめだよ』
親切心を込めた忠告。
『うん、ありがとう、気を付ける。僕はリヒャルトだけを信じる』
「僕も、フーゴだけ」
優しい笑みのあと、破裂音が響き渡った。
フーゴの腕に重い衝撃が走る。
貫く弾丸。
『えっ、えっ、なに?』
狼は急いで振り返ると、疲れた顔の女性が立っていた。
銃を両手にしゃがみ込み、静かに泣いている。
「あぁぁ、ぁあリヒャルト……ぁあごめんなさい、ごめんなさいぃ」
胸から血が噴き出て、サスペンダーの服が真っ赤に染まる。
『リヒャルトがっ』
『そ、そんなぁ、そんな……リヒャルト! 嘘だ、嘘だ嘘だ!!』
血まみれの腕で、顔を寄せた。
遠い目をしたリヒャルトは、一言も話さない。
銃撃を聞いた警察が駆けつけ、女性は捕らえられる。
騒ぎのなか、赤ずきんがギャロンと共に戻ってきた。
「リヒャルトの母親だ。クソっ今度はなんだよ」
「狼クン……何があったの?」
『な、何って、リヒャルトとフーゴが撃たれたんだ!』
振り返ると、忽然と姿を消し、フーゴもリヒャルトもいない。
「いないよ、撃たれたの?」
『うん、ニオイだって……こっちに続いてる!』
狼は駆け出した。
「狼クン、急ぐと危ないよ」
『こっち!』
赤ずきんを置き去りにする勢いで走り、ニオイと血痕を辿ると、町から離れた小さな森に辿り着いた。
ニオイに集中しながら、どんどん中に入っていくと、生々しい肉が潰れる音が聞こえてきた。
『えっ』
涙を流し、口を真っ赤にしたフーゴ。
『やぁ、君か……人食いになったわけじゃないんだ……僕は気付いた、君が言っていた愛している。僕はリヒャルトを愛してたんだ……』
気の抜けた、現実と妄想の狭間に置かれた声色。
『あ……ぅ』
引き攣る狼は、後ずさる。
『君だってきっとそうするよ、これは本能だと思う。リヒャルト……僕も愛してる』
『…………』
狼は、そっと森から離れた。
追いかけてきた赤ずきんと途中で再会。
狼は何も言えなかった。
ボロボロと涙が零れ、足元に擦り寄っていく――。