一つ、純然たる事実というものがある。
「俺は稀人で、あいつらは人間だって話なんだよな」
身体能力を含めて、人間が届かない域の力を稀人は持っている。
ヨーイドンで同じスタートラインから走り出せば、当たり前という言葉を持って稀人が勝つ。
つまるところ稀人が、それも狼稀人が本気で駆ければ追いつける人間はいないということ。
その事実から鑑みるに、こうして追いかけっこが成立している以上、ターゲットは蜂稀人のような能力は持っていても、身体的な能力は人間と変わらないことが分かる。
「とはいっても、やっぱり流石向田組。稀人を下した人間にとっての英雄的組織というべきか」
稀人を相手取るノウハウとでも言うのか、最初から追えなくて当然だからどうしましょうの部分が発達している。
街中、路地裏、大通り。
監視や追手の匂いから逃れながらターゲットの近位を維持するように動き回ってはいたけれど、中々どうして匂いを振り切れない。
どうやっているのかまではわからないけれど、このまま持久戦を挑めばどっちが根を上げるのが先になるかは、言うまでもなく俺だろう。
しかし。
「アイツは、どうだろうな」
思わずにやけてしまうのは狼の狩猟本能ってやつのせいにしておこう。
ターゲットから漂ってくる匂いに憔悴が混じってきた。
それもそうだろう、この追いかけっこらしきものも一時間を経過した。
連絡を取る術もなく、ただひたすらに回収してくれるだろうという望みを胸に街中をうろつき続ける精神的な疲労は如何ほどか。
更に言うのなら。
「……巣に戻れないストレス、かね」
どうにも何処かに向かおうとしては無理やり行き先を変えて、なんて様子が伺える。
蜂の習性だろうか、帰巣本能に反しての行動を繰り返しているせいでかなり速いスピードで疲弊している感じだ。
得た能力に付随してか、それとも習性や本能を得たからこそ能力が身についたのか。
……智美に関しても、もしかしたらちょっと気を付けない部分かも知れないな。気づけたことには感謝しておこうか。
「俺は、まだまだいけるぞ? どこまで保つかね」
若干申し訳ない気持ちが湧いてきたにしても、止めるという選択肢はない。
俺がこうして追い続けるというか、纏わりつき続ける以上回収はできないのだ。
腐っても表の組織として君臨する向田組だ。現場を取り押さえられることは避けたいはず。
このまま続ければ、必ずミスをする。
そのミスがどういう形で現れるかまではわからないけれど、その時こそがチャンスだ。
どうする? アジトに逃げ込むか? それはでかすぎるミスとなるぞ?
それか無理やりあるだろう、連絡手段を取るか? つけこむぞ?
それとも……その憔悴に似合わぬ忠誠心をもって、自死を図るか?
「……貫けるなら、か」
不意に、貫けるならキライじゃないといったシズクさんの言葉が頭に過ぎった。
可能性は、大いにある。ターゲットが向田組でどういった立ち位置に居るのかはわからないけれど、立場によっては戻ったところで待っているのは処分という言葉なのかもしれない。
そうだとするのなら、今死のうが、後で死のうが大きな変わりは無いわけで。
「ふぅ」
一つ、大きく深呼吸をする。気づけば吊り上がっていた口端は下がっていた。
まさしく、この先には手を汚すか否かを示す機会が待っている。
素子さえ元に戻せるのならと考えていた頃ならば、間違いなく見捨てているだろう場面が待っている。
あるいは、俺を今監視している向田組の連中は今、俺がどうするのかを知りたいがためにこうしているのかもしれない。
「そうだとするなら。やっぱり向田組は随分と裏よりの存在になってしまったものだって話だけれど……今更言っても仕方ない話でもあるか」
向田組の目的は何なのか。
人間を止められる薬をどう使うのか。
それとも、向田組としては有している裏ビジネスの一つでしかなくて、固執しているのは俺や黒雨会、雨宮悠だけしかいないのか。
わからない。
わからないけれど、今の道を進めば必ずぶつかる様に混ざり合う時が来る。
だから。
「……そうか。まぁ、そうだよな」
憔悴の香りよりも、諦めの香りが強くなった。
同時に、とても悲しい決意の香りが、鼻腔をくすぐった。
「よう」
「……お前は、バカか」
日が落ちて、世間は夜から裏の時間になったころ。
中々に逃げ追うごっこは疲れたけれど、今はもう決して干渉してこないという位置から匂いは動かない。
「そう呆れてくれるなよ」
「追い詰めた側のヤツが、最後の最後に何をしに来た」
もっともだ。
言葉を借りるのならば、コイツをこのマンションの屋上にまで追い詰めたのが俺なら、死ぬしかないと決意させたのも俺なのだ。
そんな奴がまさしく今わの際に姿を現せば、何しに来たんだと思うのは当然だろうさ。
「確認、したくてな」
「何を」
少し苛立ったような声だ。そして、それも当たり前だろう。
「お前、死ぬつもりか?」
「っ……! お前がっ!!」
「何かをしたつもりはないぞ。何かしたっていうのなら、それは向田組に向けられる言葉だろう」
「くっ……」
こいつがどうしてクスリなんてものに手を出したのかはわからないし、知るつもりもない。
あるいは、向田組に無理やりやらされたなんて可能性だってあるけれど、そんなのはどうだっていいんだ。
「それでもというのならまぁ半分だ。半分は俺のせいって思ってもいい」
「こ、のっ!」
「落ち着けよ。半分の責任を果たすために、今こうしてアンタの前に俺は立っているんだから」
ただただ、戻れる可能性がある。
そして、コイツが純然たる人間に戻りたいと願っているのならば。
「向田組でも黒雨会でもなく。俺に、つかないか?」
「っ!?」
差し伸ばす手と理由はこれだけ。
「俺は、俺たちは今、アンタが飲んだだろう薬の効果を消すための薬を作ろうとしている」
「は、はっ! だからオレが必要ってか!? 実験体として!!」
「そうだな、言い繕っても仕方ないからそうだって言うしかないけれど。あえて言うのなら協力者として迎えたいと思っているよ」
稀人らしき力を手にして見た光景はどんなものだったのだろうか。
興味、と言えば興味はあるけれど、根掘り葉掘り聞きたいと思っているわけではない。
かといって、黒雨会がしたようにモルモットとして扱いたいと思っているわけでもない。
「よく、言うぜ! お前も黒雨会のヤツなんだろう!? 手放しといてまた戻れ!? てめぇらはオレをおもちゃか何かだと思ってやがる!」
「おもちゃ? まぁ、そうかもな、否定はできないよ。けれど、その薬を作るまでに稀人をおもちゃ扱いしてきた側の人間が言えることじゃあないな」
お互い様、そういう話だ。
そしてお互い様だと認められるのなら、俺たちはまだ共に在る事ができる。
「それはっ!!」
「わかってるよ、稀人ってそういう存在だもんな。言いたい事も、言い訳も、よく知っているからわかってる」
聞き飽きてすらいるから、最早なんとも
稀人はワルモノだから、何をしてもいいなんて、それこそ子供でも知っているようなとんでもバナシだから。
けど、そんなワルモノの力だけを奪いたいなんて、そりゃちょっとどうなのさって話でもあるが、それは良い。
「わ、わけわからねぇぜお前っ! 何だよ! 助けに来たんじゃ、ねぇのかよっ!!」
助ける? まさか。
そんな力、俺は持っていない。
誰かを助けたり、救ったりなんて俺にはできないし、できるともやりたいとも思わない。
「言っただろ、俺は半分の責任を取りに来たって」
「はぁっ!?」
追い詰めた自覚はある。
あるから、中々にめちゃくちゃな事を言われてるってことには理解を苦笑いで示す事くらいはしてやるさ。
それでも。
あぁそうだ、それでもだ。
「アンタが今までしてきただろう生活ってヤツがどんなもんなのかは知らねぇし、知りたいとも思わない。だから、俺から今まで通りの暮らしに戻してやるなんて約束はしない」
「っ……! て、てめ――」
「それでも戻りたいって言うのなら自分でやるしかないんだよ。やると決めた背中を押すくらいはしてやるさ」
それは例えば。
今にもここから飛び降りていきそうな背中だったり、さ。
「自分じゃもうどうしようもないんだろ? 信じていたかどうかは知らねぇけど、属していた組織からは見放された。今の状況がその証明だよな? 誰も、誰も俺以外にこの場所へとやって来ないんだから」
「この――」
「そうさもう死ぬしかないと思ったからここにきてそうしている。間違ってねぇだろうさ、楽になりたいって言うのならそれしかないと俺も思うよ」
信じられない、って目で貫かれたのは一瞬で。
「くそがっ!! だったら!! だったら――見て、やがれっ!!」
振り返り、文字通り道が存在しない空中へと足を踏み出した。
だから。
「でも、俺は狼稀人だから――獲物は逃さない」
空へと躍り出た身体を、追いかける。
あぁ、やっぱり俺は追跡が得意で性に合ってるんだろうな。
だってほら、空中なんてさ、どうしようもないって言うのにさ。
「っ!?!?」
「おおおおおおおっ!!」
一足先に落下した男の、これ以上ないってくらいに開かれた目と視線がカチ合った。
驚くなって。
半分の責任を取るって言ったじゃないか。
アンタは今、人間を本当の意味で辞めたんだ。
この世界での大多数、普通と呼ばれて、一般的と認識されている常識の中で生きていた人間から抜け出した。
その先は俺の領分にしたい場所だ。
そこに進むと決めた人間を、見捨てるなんて出来るわけないだろう?
「ぐっ――」
ガリレオだっけ? ニュートンだっけ?
あぁもう、お勉強のできない俺にゃわからないけれど、世界の法則を無視するってのも大変だ。
「ガ――ぐぅううっ!!」
男の身体をキャッチして、手放さないようにしながらマンションの壁へとしがみ付こうとするけれど、当たり前に勢いを殺し切れない。
「――っ!!」
ガリガリと壁を削る音、皮膚が避けてボロボロになっていく感触。そして最後に。
「いづ――」
大地に叩きつけられた衝撃。
……本当に。
稀人だろうが何だろうが、こんな無茶はするもんじゃないよ。
「お……ま、え」
「よぅ、さっきぶり。ケガ、してねぇか?」
いつの間に手放したのか、ぱっと見ケガはしてなさそうでよかったよ。
「な、んで」
「アンタは一歩踏み出した。文字通り道なき道へ。そして俺は、道がない所に道を作ろうとしているんだよ。これくらいできなくて、しなくてどうするんだってな」
骨はきっとバキバキだ、もう正直痛いを通り越して熱くてたまらない。
風呂の準備を鳴に頼んだけど、悪い、やっぱキャンセルだ。
「……バカ、じゃねぇの」
「そうかな? そうかも。まぁ、だから、さ」
あぁ、痛みで目がチカチカする。
けど、ここまでやったんだ、最後までカッコつけようか。
「一緒に行こう、表も裏もない道を」