正直に言えば、無茶の代償である怪我がもう少し良くなってからのほうが良かったとは思うんだけれども。
「いらっしゃいませ、旦那様。あなたの、初音ですよ」
「……はぁ。まぁ、そうだよな。薄々気づいていた、とまでは言わないけれど。確信したよ」
多分、これで良かった、こうじゃないと確信できなかった。
「俺こそが、モルモットだったんだな」
「はい」
指定された会う場所は文字通りの山小屋で、周りに誰かや何かの気配も匂いも全くない場所だった。
そんな場所でボロボロになってる俺をまったくもって悪びれず、いつも通りの美しい笑顔で出迎えてくれた初音さんが頷いた。
「ある意味、必要なことだと理解できるしむしろ安心したとすら言って良いかも知れないな」
「安心、ですか?」
「ああ。これで初音さんのことを気味悪く思わないで済む」
「もう、このような場と時でまで、いけずはおよしになって下さいな」
よく言うよ、なんて出てきそうになった言葉を飲み込んでおく。
「だってそうだろう? 俺を利用するか、それとも並び立つか。あるいは」
「およしになって下さいと申し上げましたわ」
「旦那の愚痴を聞くのは妻の役目とかなんとか聞いたことある気がするけど?」
「あら、わたくしの知らない諺ですね。不勉強で申し訳ありません。ですが、恐らく逆かと存じますよ」
くすくすと上品に笑う初音さんは、裏表なく楽しそうで何よりだ。
匂いを嗅ぐまでもない、恐らくどころか正真正銘。今俺の目の前にいる初音さんこそが。
「初めまして、日比谷初音さん。これから、よろしくお願いします」
今まで会って来た初音さんが影武者だどうのという意味じゃない。
「……まったくもって。長野仁様? あなたは少々……いいえ、恐ろしく成長が早すぎる上に良い男になってしまわれましたわね。ええ、初めまして、旦那様。わたくしが、わたくしこそが、あなたの初音です」
黒雨会のトップでもなく、稀人たちの守護者でもない、ただの日比谷初音という女性だ。
「先に、ご容赦くださいませ。こうしてわたくしとして誰かとお話をするのは随分と久しぶりですので」
「こちらのセリフ、ってものかもしれないな。平静を保って話をするには少しどころか……あなたは美人過ぎるから」
「もう、お上手が過ぎますわ? ですが、甘えさせて頂きたく存じます」
嘘じゃないんだけどな。
かつてから今まで彼女に対して感じていた怖さってものが、今は欠片も感じない。
都合よく考えるのなら、胸襟を完全に開いてくれたと思うべき……いや。
「正直に言って良いですか?」
「如何なされました?」
「めちゃくちゃドキドキしてこのままじゃ襲ってしまいかねないので外に出ませんか?」
「わたくしはここでも外でも構いませんよ。もちろん、襲われるのであっても同じこと」
あぁもう勘弁してくれ。
ここ最近周りにいる女の人達が魅力的過ぎて辛い。辛いよ、素子……。
「我慢します」
「それは残念です」
試練だなんだっていうのなら今こそがよっぽどだよ。
マンションの屋上からダイブした時のほうが随分とマシに思えるの、控えめに言っても狂ってるや。
「改めて、ですが」
「はい」
「これで俺は、あなたと肩を並べられるんだって自惚れても?」
「……自惚れでは御座いませんよ。わたくしは、あなたに賭けたく思います」
すっと初音さんの姿勢が正されて、意識する前に俺も勝手に姿勢を正してしまっていた。
「シズクより報告は聞いております。あの男の件、お見事でした。人間でも稀人でも、向田組でも黒雨会でも……そしてわたくしでも取り得なかった第三の選択肢と道筋。確かに、拝見いたしました。以後、あなた様を利用せず悪用せず、純粋かつ対等な協力者として肩を並べると誓いましょう」
そのまま静かに三つ指をつきながら紡がれた言葉には、確かな重みを感じた。
多分、じゃあない。
きっと、今回の件は初音さんの優しさでもある。
「随分と甘やかしてくれたと思ってるんだけど」
「そうでしょうか? わたくしとしては、これ以上ないほどの厳しさを持って今回の件を見守っておりましたよ」
初音さんの頭はまだ持ち上がらない。
「あるいはお膳立てをしてくれた、とでも言うのかな。きっと、あなたにはもっと多くの選択肢があったはずです。こんなことをせずとも、俺を利用するだけ利用して上手く自分の、黒雨会や大多数の稀人への利益に変えられていたはずです」
まだ目を見てくれないのは俺がそう思っているから、だろうか。
「買い被り、というものですよ」
「そうかな?」
「そうです。かつて申し上げた光を目指すことを諦めないという言葉はわたくしとしても、日比谷初音としても本音の部分であり、同時に実現が何より困難であると認識していたものですから」
困難だと認識していたからこそ、降って湧いた……ってのは言葉が悪いか。
自分たちでは出来ないことを俺がやろうとして、実現までの道が現実的になってきたから……縋りたくなった。
「なるほど、ただの日比谷初音さん」
「ええ。このようなわたくし、到底黒雨会ではお見せできません」
だろうな、なんて思えるのは……傲慢ってやつか。
それでもきっと、今の初音さんを見てがっかりするヤツってのはいると思う。
俺自身、そういう部分があるって言うのを否めない。
黒雨会のトップ、日比谷初音という女性は底知れない恐ろしさと冷たさをもった稀人だったから。
でも、それ以上に。
「なぁ、初音さん」
「はい」
「俺は、今のあなたが好きだよ」
「へ――」
あ、顔が持ち上がった。
あ、普段からは想像できない間抜け面だ。美人って言うか可愛いな、この人。
「うん。もし、智美と一緒に会いに行った時その顔が見れていたら、婚姻に対してマジで前向きだったかもしれないと思うくらいに」
「へぁ……?」
言われた言葉が理解できないのか、小首を傾げて数秒止まった初音さんが。
「っ~~~~!?」
「わーお、ぼんって言ったけど大丈夫?」
漫画みたいな効果音と一緒に、顔を盛大に赤らめてくれた。
「だ、だだだ、だんにゃ、しゃま? にゃ、な、ななな、なにを? お、おおお、おたわむれ、ですことですよ?」
「ちょっと動揺凄すぎない?」
なんか面白い人にまでなっちゃった。
いかん、ちょっと楽しすぎる。落ち着こう、落ち着け俺。
下手なナンパ男になるのはダメだ。素子がものすごく嫌がる。
「はぅ、あぁううう~……」
「ごめん、ちょっと調子に乗り過ぎました。ともあれ、です」
こほんと咳ばらいをしてみれば、初音さんは小さく両手で自分の頬をパシパシと叩いて表情を作り直してくれて。
「……いけず、です」
「さっきみたいな初音さんが見られるなら、いけず呼ばわりも悪くないですね」
「ぐ……はぁ、なるほど、こういうところ、ですか。相原さんの言っていたことを実感するのが遅すぎたようですね、反省致します」
ようやくほにゃりと困ったように笑ってくれて。
「記者会見、楽しみにしてる」
「お任せくださいな。ですので、共生会のほうは頼みましたので」
最後にしっかりと、目を合わせて握手することができた。