不安や恐怖が全て消えてなくなったわけではないんだけれど、その日は久しぶりに良く眠れた気がした。
「……」
ベッドでぐっすりと寝ていた俺は体を起こす。近くにあったスマホで時間を確認すると、時刻は午前の十時を回っていた。最近の俺にしては随分とゆっくりした朝となっている。
昨日、玲奈が帰ったあとも閑の調子は良く、といってももちろん元気というわけではなく、あくまでも悪くないという意味ではあるのだけれど、それでも症状が悪化するようなことはなくて、安心するのはまだ早いけれど、それでも緊張の糸が切れたのだろう。
寝起き特有のまどろみの中にいるような感覚もなく、スッキリと目が覚めていたので部屋を出て顔を洗いに行く。その後、いつものように閑の様子を見に行こうと考えていたのだけれど、洗面所のドアをガラガラと開けた瞬間に、俺の脳はフリーズした。
「……」
「……ぇ」
可愛らしい小さな声を漏らしたのは、もちろん俺ではない。
そこにいたのは双葉閑だった。まさかこんなところで鉢合わせするとは思っていなくて言葉を失った俺だけれど、そう思っていたのはあちらも同じらしい。見開いた目をぱちぱちを瞬かせていた。
なんか、こんなのばっかりだな、なんて思いながらも俺の視線は彼女の体に吸い寄せられる。
湿った長い黒髪、上気した頬、そして完全に水滴を拭いきれていない白い肌から、彼女がお風呂上がりであることが推理できる。そして、その状態からして、お風呂に入れるくらいには体調が悪くないということも分かった。
いやしかし、それにしてもきれいな肌をしている。
瑞々しい肌、なんて表現があるもののなんだよそれ意味分かんないとばかり思っていた俺だけれど、ああこれがそういうことなのかと痛感させられるような肌だ。タオルで前面で隠れされているけど、逆に言えばそれ以外は全部見れる。思春期男子的にはそれだけ見えれば十分過ぎる。何が十分なんだよ。
「ちょっと、あんまりじろじろ見ないで」
閑はこちらを恨めしそうに睨みながら体を隠すようによじる。
「あ、ごめん」
言われて、思わず謝ったのだけれど。ちょっと待てよ?
「いや、でも付き合ったんだし別に裸は見てもいいのか」
俺は握った右手を開いた左手にぽんと置く。次の瞬間、ふかふかの未使用タオルが顔面に飛んできて俺の視界を奪った。
「別にいいわけではないわよッ! 恥ずかしいから早く出てって!」
そんなわけで脱衣所を追い出された。まあ、そうですよね。
閑のいなくなった脱衣所で歯を磨きながら、俺は自分の頬をさする。
こうして風呂上がりだったりの彼女とバッティングすることは以前にもあって、その際にはしっかりビンタなりパンチなりとそれなりの制裁を受けてきた。なので、今回もなんだかんだと言いながら覚悟はしていたのだけれど。
「無傷とは」
今回の俺は制裁なし。
いやね、これはなんというかあれですよ、結局のところ恋人になったというポイントが大きいのではないでしょうか。見られることに対する恥ずかしさは健在なんだろうけど、しかし見られることに対する不快感みたいなものはなくなっているのかもしれない。だから、制裁を与えるほどではない、みたいなな。
「ふふ」
口の中をゆすいだ俺は鏡を見ながらついついニヤけてしまう。
どうあっても油断していいような状況ではないことは事実。彼女に死の危険が確実に迫ってきているのも現実。どうしようもないことなのは百も承知だ。けど、どうしてもニヤけてしまう。
俺は閑のことが好きで。
閑も俺のことが好きで。
そして、その実感をこうして彼女の行動や反応で感じることができてしまっている。
これもうハグとかキスとか、好きなだけしてもいいのだろうか。歯磨きを終えた俺は腕を組みながらそんなことを考える。脱衣所を出たところで、キッチンのほうから「ご飯、できてるけど」と声がした。
朝からサービスカットを提供してくれた上に、朝食のサービスまで提供してくれるとか、どんだけサービス精神旺盛なんだよ。神かよ。もしかして裸エプロンで料理していたりしないだろうな。そんな光景がもし広がっていたら俺は襲わない自信はないぞ。
などと脳内にお花畑を咲かせながらキッチンへと向かう。いざ拝見、と顔を出すとシャツに短パンといつも通りのラフな部屋着を着た閑が俺を待っていた。
「歯を食いしばって?」
「一応訊くけど、なんで?」
「さっき、していなかったから」
ベチン、という音の後、頬がじんわりと熱くなった。
なんか、頬よりも心が痛い。
「体調はどうなんだ?」
じんじんと頬に痛みを感じながら、俺は出された目玉焼きを食べる。
その他、ベーコンやサラダと一緒にトーストが準備されていた。閑の前にも同じものがあって、最近はお粥とかうどんとか、そういうものが続いていた彼女にとっては久しぶりの普通の朝食だった。
「朝起きたら、結構良くなってたの。だから、せっかくだしと思って」
嬉しそう、という感じはない。
いつもと変わらない、淡々とした物言いだ。彼女とて、この状況を軽んじているわけではないようだ。いつ、あの症状が再発してもおかしくはない。
その問題についてはきちんとあとで話し合おうと思うんだけど。
そんなことよりも、ちょっと気になることがあるんだが。
「なんか、めっちゃ普通じゃない?」
「なにが?」
トーストをかじりながら閑が首を傾げる。
え、俺達って昨日お互いの気持ちを伝え合って、晴れて恋人同士になったよな?
雰囲気に身を任せてキスとかもしちゃったよな?
あれ夢だった?
「もっとテンション上がっててもよくないか? 俺達、昨日付き合ったんだぞ?」
万が一にも夢だったという可能性を考えながらも、それでも俺は彼女にしっかりとそう伝えた。すると、ぴたりと閑の動きが止まる。その反応を見て、夢ではなかったということは確信した。
「キスだってしたのに。めっちゃ普通だなって」
追い打ちをかけるように言ってみると、彼女はさらにビクッとする。
俯いているので表情は読めない。
「もっとテンション上がってるもんだと思ってたんだけどなあ?」
なんて言いながら、俺は体を無理やりに曲げて俯いた彼女の表情を覗き見た。すると、そこにはどう言っていいものか難しいんだけど、とにかく顔を真っ赤にした余裕のない閑の顔があった。
「……」
「それ、どういう顔?」
「……どういう顔していいか分からない顔よ。もういいでしょ」
開き直ったように言って、彼女は無理やり元の表情に戻したような顔を上げる。まあ、全然戻ってないんだけど。
「なにをにやにやしてるのよ」
どうやらニヤニヤしてしまっていたらしい俺を見て、閑が恨めしそうに半眼を向けてくる。
「いや、可愛いなと思って」
素直な感想を口にすると、彼女はすでに赤かった顔をゆでダコのようにさらに真っ赤にした。そして、ぱくぱくと残りの朝食をすべて平らげて立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「そんな慌てて食べなくても」
もうちょっと恋人同士の朝食時間を楽しんでもよくないか?
食べ終えた皿を持ってキッチンの方へ早足に歩いていく。しかし、キッチンに入り切る前に動きを止めた彼女が半分だけこちらを振り返って視線を俺に向けた。
「ねえ」
一度言葉を切った彼女の顔を見ると、どうしてか少し寂しげなように見えて。
俺は何か言おうとしたけれど、言葉が出なくて。
「今日、デートしない?」
思いも寄らない突然の誘いに、俺はこくりと頷いた。