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8.ARK827.04/転機-①

「どういうこと?」


 図書館のオートショップの前で、ゾフィーは問い返した。夕方の光りが、斜めに赤く、窓から差し込んでいる。

 その顔から、脂汗がだらだらと流れる。彼女が汗かきだということは彼も知っていた。感情の流れに、彼女の身体はとても正確だ。


「言った通り」

「言った通りって…… それじゃ曖昧だわ、判らないわよ!」


 するとテルミンは、黙ってぽん、と彼女の肩に手を置いた。やめてよ、と彼女はその手を払った。


「変よ」


 彼女は自分の感情を確かめる様な口調でつぶやく。そしてその自分で発した言葉そのものにうなづく。


「そうよ、変だわ」

「何が変?」

「それとも、あたしがずっとあなたという人の本性を知らなかったって言うの?」

「……ゾフィー……」


 テルミンは目を伏せる。彼女の一途な感情は、とても彼にとって心地よかった。自分にもやや違った意味でそれは存在する。だが方向性を何処か違えてしまったことを、彼は知っている。


「君にも、ずっとそのままで居て欲しかったけど」

「だからそれは、どういう意味なのよ!」

「知りたい?」

「知りたいわよ」


 彼女は好奇心が旺盛だ。でなければ、中央放送局に勤めることはなかったろう。自分も同じだ。好奇心が猫をも殺すことを知っていても、それでもあの男がつきつける「何か」に興味を持って、そして、逃れられない道へと足を突っ込んでしまった。

 彼のなけなしの良心は、彼女を引き込んではいけない、と感じている。だがその一方で、テルミンはゾフィーがその持ち前の好奇心に勝てないことをも知っているのだ。


「だったらおいで。君はそれで、もっと大きなことができる様にになれる」

「どうしても、ここでは言えないのね」 


 うん、とテルミンはうなづいた。


「じゃあ行きましょう。行けばいいのね。それで何をあなたがあたしにこれから望んでいるのか、知ることができるって訳ね」

「少なくとも、君は、ここの書庫に出入りが自由になれる人間になれるさ」


 ふうん、とうなづき、ゾフィーは唇を噛み、口をつぐんだ。


   *


 その人物の存在を、一般市民が知る様になったのはいつからだろう。


「あなたはこの人物をいつから見たことがありますか?」


 例えばそうやって、首府の繁華街、水晶街を歩く人々に街頭インタビウをしたとしよう。するとその人は答えるだろう。


「……あれ? そういえば、いつの間にか見る様になっていたね」

「少なくとも去年の終わりにはもういなかったかなあ」

「いや去年の夏には居たよ」

「いやもっと前から居なかったかい?」


 等々。

 結局、誰もその人物をいつから目にする様になったのか、正確に答えることができないのである。

 正確に答えられるのは、たった三人だけである。すなわち、当事者と、その直接の上司と、その直接SPの佐官。

 ヘラ・ヒドゥンと呼ばれている現在の首相の側近は、その位すんなりと市民の目に入っていった。

 側近の出現だけではなく、様々な交代劇が、政府の中では密やかに行われていた。

 始まりは、グルシン通信相の解任だった、ということすら、人々は気付いていないだろう。

 その程市民は政治の動きに鈍感だった。

 政府が帝都政府と協力する様な動きには敏感すぎる程敏感なのに、その内閣の人事が少しづつ動いていることには、奇妙な程に無関心だった。


「結局は、権力がゲオルギイ首相の一手に集中していることを、一番良く知っているのは市民だからさ」


 帝都からの派遣員は、寝物語に首相の側近のSP佐官につぶやいた。

 テルミンはそんな言葉が果たして耳に入っているのか、いないのか、返事は無い。ただ開いた口からは、声にならない声が時々弱々しく漏れるばかりだった。


「しかし君は、予想以上に上手くやっているな」


 冷静な声の持ち主は、その声とは裏腹に、強く、時には荒々しい程の力で彼を抱きすくめる。そんな行為に、目を伏せ、眉を寄せ、端から見れば彼の表情は、苦痛に耐えている様にしか見えないかもしれない。

 実際、彼にとって、それは快楽が欲しいがための行為ではなかった。

 むしろ逆だった。

 強く吸われることも、激しく抱きしめられることも、無理矢理高められることも、自分の中を侵犯されることも。

 何をやってるんだ、と彼の中で叫ぶ者もある。だが、どうしても彼はそうせずにはいられなかったのだ。

 そして無理矢理テルミンは、相手の問いに答えようとする。ちゃんと答えれば、この相手は、もっと自分を追求しようとするだろう。彼はそれを望んでいた。


「……こ……ないだの…… 奴、のこと、聞いた?」

「真っ先に聞いたよ。何って君は、いい手際なのだろうね」


 そう言ってスノウは彼の手に口づける。


「……手だけじゃ、ないだろう?」


 彼はうっすらと目を開いて、相手と視線を合わせた。見透かされそうな目に敢えてじっと視線を合わせた。この目に比べれば、他の政治家達なんて大したことは無い。

 ああそうだね、とスノウは笑い、彼の首を抱えると、強く口付けた。何度も、何度も、自分の中で、息と体液の絡まる音が響いている。ひどく熱い。


「この口が、あんな短い期間に、どれだけの政治屋を突き落としてきたのだろうね」


 もっと言ってほしい、とテルミンは思った。


「全くもって見事だね。私が待っていただけあるよ」


 相手の誉め言葉は、自分にとっては刃に等しい。

 その意味が時々よく判らない時もあったが、それでも、自分の耳のフィルターを通した途端、それは非難となって彼の中に突き刺さる。

 だが彼はそれが欲しかった。

 矛盾しているのは判る。それでも。


 だって。


 彼の中で叫ぶ者がある。


 俺は糾弾されるべきことをしてるんだ。俺を責めないこんな世界は何かが狂ってるんだ。狂っているはずなんだ。


 だが彼は糾弾される訳にはいかないのだ。ヘラを表に立たせてしまった以上。


 ヘラ付きのSPとしての毎日の職務に加え、彼はまだ、首相官邸のアンハルト大佐の副官でもあった。

 ヘラが毎日をふらふらしていた時ならまだしも、側近としての職務を首相から与えられ、そのSPとして公務に付き合っている現在、テルミンには休む暇は無かった。

 だがそれはテルミンにとって好都合だった。陥れる対象に接近する機会は増える上、何かを深く考える時間は無くなっていたからである。

 一つ行動を決めた時、思考は逆に邪魔になる時がある。テルミンは自分自身を激務の中に置き、寸暇を惜しんで首相の古く、有能な人材を一人一人陥れて行ったのだ。


「……ストロヘイム教育相は純粋な性的ゴシップ、マルヴィン厚生相は生命保険会社との癒着、バーテル辺境開発長官は……」


 一息ついた後、うつぶせになり、シーツの中に顔を埋める彼の背に、陥れて行った相手の名を、ゆっくりとスノウは口にする。目を伏せて、テルミンはそれを聞きながら、次第に自分にも睡魔が訪れるのを知る。

 そして今日も、と彼はその時初めて安心するのだ。自分はあのことを考えずに済んだ、と。

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