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17.-④


 扉を閉める瞬間、リタリットはふう、とため息をついた。自分には似合わない、と思いつつ、ついそうしてしまうのが少しばかり悲しかった。

 鍵を回し、多くも無い荷物を肩に掛け、中には元からあった作りつけのものだけを残して、既に何も無い。もうここに戻ることは無いのだ。

 階段を降りていくと、一階にある青物屋の女主人がその日仕入れたらしい果物を篭に並べていた。


「あれ、リタちゃん、出かけるのかい?」

「まーね。おばちゃん、そこの林檎一個おくれ」

「ほいよ、一個10ボールだよ」


 箱の中から大きなものを選んだのだろう、少し冷たいそれを頬に押し当てながら、彼はポケットの中からコインをつまみ上げた。


「あんがと。今度はちょっと長くなるんだ」

「ふうん」


 女主人は、腰に両手を当てて、首を傾げる。


「何だかよく判らないがねえ、身体には気をつけなよ?」


 そうだね、とリタリットは口元を上げた。

 この青物屋は、気のいい女主人が一人で切り盛りしているだけの、ほんのこじんまりとしたところだった。だがこの古いアパートの一階に入っていることから、住人の台所には欠かせない存在だった。

 それは野郎二人で住んでいた彼らにとっても同様だった。

 収容所帰りで、消去された記憶とは関係無しに、家事というものをさっぱり失念していた二人に、この店のあるじは何かとお節介にならない程度に助言してくれた。せっかく売った野菜を無駄にされるのは嫌だから、と簡単な料理まで教えてくれた。

 「仮の職場」と二人が呼んでいた工場の帰りに立ち寄るビアホールと同様に、いやそれ以上に、この店は二人にとって大切なものだった。


「ねえ」


 彼は林檎を顔に押し付けながら、女主人に問いかけた。


「今の総統閣下を、どう思う?」

「何だね藪から棒に。まあ、綺麗な方だね。それにちゃんとそれなりに政治の方もやってくれてるし」

「じゃあ、満足してるんだ」

「って言うかねえ…… 別に前の首相閣下とどう違うかって聞かれてもわたし達は判りゃしないよ」

「ふうん?」

「だいたい、いきなり何であんた、そんなこと聞くね」

「いんや、何となく」

「変な子だね」


 リタリットは肩をすくめ、買ったばかりの林檎を服で擦ると、かぷ、とかぶりつく。途端に口に広がる酸味と甘味に目を細める。


「やっぱりいけるねえ」

「当然だよ。ちゃんと産地からできるだけ早く、って持って来させてるんだからね。わたしらにとっちゃ、それが当然に出来るってのが、いい政府ってもんだよ。それ以上のことなんか、難しくってよく判らないね」

「なるほどね」


 ありがと、とつぶやくと、彼は林檎をかじりながら駅へ向かうトロリーの停車場へと歩いて行った。何だね、と女主人はその後ろ姿を見送る。

 実際そうなのだ。一般庶民にとって、一番上に立つ者など、誰でもいいのだ。自分達の生活が安定するのなら。

 それ故に一般大衆は、あの帝都政府との交渉に一役買った「代理」ヘラ・ヒドゥンを総統とするのに文句は無かったのだ、と言うのがリタリットを含め、彼ら収容所帰りの者の共通認識だった。

 だから極端な話、上をすげ替えることは、そう大きな問題ではないのだろう。それまでと同じ生活が保証されるのだったら。


「それでは我々が反逆する意味は何処にあるのだろう?」


 さてそれは反逆する側の大きな命題でもある。そして無論、彼としても、それに対する良い考えなど浮かんだ訳ではないのだ。

 しかしそれでも、彼の足は駅へと、そして皆が年末に向けて集結しつつあるハルゲウへと向かいつつあった。

 駅についた時には、既に手の中の林檎は芯だけになっていた。そしてその芯を、リタリットは柱脇のゴミ箱に向けて大きく投げた。

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