「奴は居ないぞ?」
ハルゲウに再び舞い戻ったリタリットが戸口で最初に言われたセリフはこうだった。
「そうだな」
そして言われた側は、そう言いながらずかずかと扉の中に入り、また仮の寝床を勝手に作り始める。
「いいのか?」
とビッグアイズはポケットに手を突っ込みながら訊ねた。
リタリットは何も答えなかった。
*
「何でーっ。あんたまた来たのかよ」
両手にジョッキを目一杯に持ったまま、キディは両眉を上げた。
その晩、「赤」の集合場所となっている店に出向くと、見覚えのある元少年が、黒いギャルソンのエプロンでフロアを動き回っていた。それを見て、歯を向きだしにしてリタリットはにやりと笑うと、年少者に対してそれ相応の対応をする。
「また来て悪いかよ」
「ちゃんと金持ってんのかよ?」
「いっちょ前に言うじゃないの」
ぱちん、とキディのおでこを指で弾き、げらげらげら、と彼は笑う。そして辺りを見渡すと、空いているテーブルに近づき、ビッグアイズに手招きをした。
「何あいつ、ここで働いてんの?」
席についてからリタリットは訊ねた。
「ああ。小回りが利くから、とここの店主に結構気に入られてるよ」
「へーえ。それでオレ達は今日は、何でここに来てんの」
目の前にどん、と置かれたビールのジョッキに口をつけながら彼は訊ねる。
「ここに戻ってきた、ってことはお前、これからの行動に参加するってことだろう?」
ビッグアイズは低い声でつぶやく。喧噪の中だというのに、その声はひどくはっきりとリタリットの耳に届いた。
「まあね」
「どういう風の吹き回しか知らないが、参加するなら、するなりに役割をやってもらいたいがね」
「ふうん。ちなみに、アンタの役割は何だ? BE」
「俺? 俺は、そうだな。今の所は役らしい役が無い。ヘッドとは違ってな。所詮俺も実働部隊の一人だ」
「ふうん。確かにそんな感じはするな」
「おそらくお前もその中に入れられるとは思うが。それでいいのか?」
「良いも悪いも」
ふい、とそこまで言うと、リタリットはフロアを所狭しと歩き回るキディの姿に目を止める。
「ビッグアイズ」
「何だ?」
「アンタはさ、自分が誰だったか、考えたことがある?」
「何だよいきなり」
ビッグアイズは眉を寄せる。
「いいからさ、ある?」
「そりゃ、考えたことは無いと言や、嘘になるが」
ふうん、と言いながら、彼の視線はまだフロアのキディに向けられたままだった。
「アレにも、あるのかなあ」
「キディか?」
「何か、嫌~な過去があったらしいじゃん」
「まあな。誰に聞いた? BPか?」
「まあね。まあでもそんなこたどーでもイイよ。でもさ、忘れたままで居られたら、楽だろなあ? 奴はあんなに今楽しそうなのにさあ」
「まあ確かに、起きたもろもろをリセットしてやり直せるっていうなら、生きてくのも楽は楽だろうな」
「アンタでもそう思うか?」
「そりゃあ俺だって、か弱き人間様だからさ」
「ヘッドがじゃあ、過去思い出したら、どうする?」
リタリットはゆっくりと視線を向ける。ビックアイズは、大きな目を更に大きくする。
「俺が、じゃなくてか?」
「アンタが、じゃないよ。ヘッドだ。それでもいい?」
「それでもって」
「そういうことになったら、アンタはそれでいいのか、って聞いてんの。オレは。だってそうしたら、ヘッドは彼のずっと頭の中に残ってる奥さんと子供を探すだろ? アンタはそれでいいの?」
そう言いつつも、リタリットの声は次第に小さくなる。
「でもアンタは自制心強いから、大丈夫なのかもね。オレは何かみっともないけど」
ばん、とその時彼は自分の頬に衝撃を感じた。強くはない。だが、仲間の手は、確実に自分の頬をはたいていた。
「あいにく俺は、そう自制心は強くないぞ」
「よぉく判りました。そういえばそうだったね」
「お前の言いたいことは判る。だがなリタ、あいにく俺は、そういう感情であれを見てるんじゃないんだよ」
「だろーな」
「そう思えるのか?」
やや意外そうな顔で、ビッグアイズは顔をさする仲間を眺める。
「なぁんとなく。だってさ、アレだって、別にあのでかウサギとそういう仲じゃないだろ?」
「判るか?」
リタリットは親指を立てる。その立てた指の向こう側には、カウンターから食事の皿を受け取ると、やはりすいすいと人とテーブルの間をすりぬけるキディの姿があった。
「帰ってきてから判った。そうなってしまうのは、結局そう多くないだろ?」
「まあな。元々にそういう素質があるんじゃなければ、あの環境でない限り、そうそうそういうことは無いだろ。空気の温度も湿度も違えば、住んでる人間の意識も変わってくる」
「そうだな」
「何お前、リタ、自分が元からそういう気あったって、思い出したとかした訳かよ?」
「まっさか」
へらへら、と彼は笑う。そうだなそんな訳ないよな、とビッグアイズもまた笑った。
*
お疲れさま、と言いながらキディは上着を片手に店を後にする。
まだ春先の夜は、肌寒い。首筋にぶるっと震えがくる。
慌てて上着を羽織りながら、帰る方向に目をやると、街灯の下の見覚えのある姿に、元少年はわざとしかめっ面を作った。
「何だよあんた、まだ何か俺に言い足りないのかよ」
「言い足りないのはあるがな。ちとばかり、つきあってくんない?」
衛星光にきらきら、と治まりの悪い金髪は光る。リタリットのこんな口調を聞いたのは、キディも初めてだった。
何かまたからかっているのではないか、という疑問はあったが、別段逃げる必要もないので、そのまま二人で道を歩き出した。
「確かあんた、ヘッド達のとこに居候してるんじゃなかったの? だったらもう終電の時間は過ぎたんじゃない?」
「ああ。言うの忘れた。泊めてくれ」
「……」
呆れた、という顔になってキディはこの幾つか年上の男の顔を見つめた。
「別にオレが行ったとこで、お邪魔虫って訳じゃないだろ? オマエら」
「そうじゃないかもしれないよ?」
強がる相手の言葉にリタリットは肩をすくめる。
「無理すんなって。オマエそういう気ねーだろ。見りゃ判る」
キディは首を傾げる。
「何で」
「なーんとなく」
「答えになってないよ、リタ」
「じゃあさ」
リタリットは足を止める。
「何で自分がそぉいうのダメなのか、オマエ考えたコトある? キディ」
不意に振り向く。キディは自分の顔が明らかにこわばるのを感じる。
「オレはさ、キディ」
そしてくるりと身体ごと振り向く。ポケットに手を入れて、片方の足を軸にして綺麗な円弧を描く。
「今でも、奴の過去がどうとかってのは聞きたくもねえ。だいたいオレの知ったコトじゃねえ奴の過去のことなんて、聞いたって腹が立つだけじゃねえか」
「そりゃああんたが、BPにべた惚れだからじゃないか」
「おーそうだよ? それで何が悪い?」
キディは言葉に詰まる。
「だからオレはそんなの、聞きたくもないし知りたくもない。だけどな、それでもオレが惚れてる奴のそうゆう部分ってのは、嫌だけどな、そうゆう過去って奴が作り上げちまったもんなんだよな」
ああ全く、とリタリットは頭をかきむしる。
「悔しいが、あのおっさんの言ったコトは合ってる。ったくもって忌々しい」
「あのおっさん?」
「オマエんとこのマスターだよ。ウトホフトとかいうおっさん」
ああ、とキディは大きくうなづいた。
「彼はいいひとだよ」
「いいひとね。でもなキディ覚えとけよ。いいひとだけじゃ、ああいう役には上がれないんだ。ああいう集団じゃ」
「ふうん。でも俺別に集団の上に立とうとか思わないしさー」
「ばーか。そんなこと言ってるんじゃねーよ」
ではどういうことなのだ、と元少年は聞きたかった。だがどうも、いつもと調子が違う。キディは正直言って、そんな相手の様子にやや戸惑っていた。
「そういえばリタ、BPが今何処に居るのか知ってる?」
「知ってる。ビッグアイズが言っていた。首府に向かったってな」
「いいの?」
「いいのって?」
「だから、BPのとこに戻ってきたんだろ? あんたは」
いんや、とリタリットは首を横に振る。
「じゃあ何しに来たのさ」
「決まってるだろ。反乱軍なら、反乱らしいことをするためさあ」
くくく、とリタリットは笑った。
「それにしても今日の衛星は綺麗だなー。おいちょっとキディ、手ぇ貸せ」
え、と言う間もなく、ぐい、とキディは手を取られ、バランスを崩す。
「何するんだよ」
「いやあまりにも今日のひかりは綺麗だから、ちょっとステップなと踏んでみたくなってさ」
「ステップう?」
「そ」
ふわり、と取られた手が上がり、もう片方の手が腰に回る。キディは何が何だか判らずに、瞬きを繰り返すだけだった。
「ほら、足をこう出して、スロースロー、クイッククイック……」
「ってこれ、リタ、ソーシァルダンスじゃんか!」
「悪いか?」
「悪かないけど」
首を傾げながらも、相手の言う様に、動かす様に手足を動かすと、それでも少しづつ動きはダンスらしくなっていく。
「音楽も入れてやろーか」
そう言うと、一つのメロディを口ずさみはじめた。それはキディも聞き覚えのある、有名なクラシックの曲だった。ただ覚えがあると言っても、それはさわりだけのもので、全体を流して歌え、と言ってできるというものではない。
「で、♪……ほらっ」
不意に腕を上げられて、背中を押される。ああああ、と口を開けたまま、キディはくるりとその場で一回転する。そして回転してバランスを崩した身体をリタリットは受け止め、その体重を腕に流す。そのポーズはちょうど、しなだれかかる女性の姿勢に似ていた。
「っと。はい終わり」
「びっくりしたじゃんかよ……」
くくく、とリタリットは笑った。
だがキディからその表情はよく見えない。ちょうど衛星の逆光で、顔は暗く、隠れたままだった。
「こんなのは、初歩の初歩なんだぜ?」
そう言って、今度は一人で、腕に誰かを抱え込んだ格好のまま、リタリットは歌いながら足を進める。キディはそれを眺めながら唖然とする。ふわりふわりと空気を割るように動く腕。複雑なステップ。スロー・クイック・スロー・クイック。足どり軽やかに、時に素早く、そして時にはジャンプ。
それを間違えずに、しかも歌いながら、軽々とこなしている。キディは思わず叫んでいた。
「あんた、昔そんなの習ってたのかよ!」
過去のことを具体的に聞くのは基本的に、彼らにとっては御法度である。だがその時のキディからは、自然にそんな質問が口から飛び出していた。さあね、と少し離れた場所でくるくると動く相手は答える。
「絶対そうだよ、あんた、そういうの、身体が知ってるんだよ!」
「ああそうかもな」
リタリットはあっさりと返した。
「認めるのかよ?」
「さあな」
そして決めのポーズをわざとらしいまでに取ると、ふう、と首や肩を回した。
「やだね、全く」
「何が?」
「身体が覚えてるってことがさ」
「それは――― でもさ、それはあんたの記憶を取り戻す糸口にはなるじゃない」
「ふうん? じゃあオマエは思い出したい訳?」
「そんなことは、無いけど」
「別にいいさ。思い出せなんて、何で皆が皆言うんだろーな。BPにしろ、オレにしろ。今がシアワセならそれでイイじゃねーの……けどな」
「けど?」
「や、何でもない。でもな、オマエ、思い出したくないならそれでイイけどな、だったら絶対シアワセにならなきゃ仕方ねーんだよ」
「そりゃあそうだよ」
「判ってるならイイんだ」
そう言って、ぽん、とリタリットはキディの肩を抱く。その力が奇妙に強かったので、キディは怪訝そうに相手の方を見たが、やっぱり相手の表情は、逆光で判らなかった。
*
しかし、その晩泊まったはずのリタリットの姿は、次の朝には既にキディとマーチ・ラビットの前からは消えていた。