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ばん、と大きく扉を開き、ゾフィーはその部屋に入ってきた。
付けっ放しのモニターからは、深夜ショーが流れている。夜中の、寝るのも惜しい若者達くらいしか見ない様な時間帯、実験的なショウやドラマが若手によって作られ、流されるのもこの時間帯である。
画面の中では、わざと静止したような映像が延々と流れている。静止している訳ではない。静止したような形を取っている、役者や効果音が続いているのである。数分に一回の割合で、その動きははたと急激に変わり、また静止状態が続く。訳の判らないものだ、とゾフィーはそうこの番組は好きではない。
そしてその不可解な映像の隣で、相変わらず散乱したビデオ・ブロックの山が積まれている。ゾフィーのやや緊張したような、怒った様な表情が、途端に呆れたというものに変わる。
そしてその中の住人も。くるりと椅子を回すと、リルは慌てて笑顔を作り、訊ねる。
「あ、お帰りなさい、レベカさん。どうでしたか?」
「どーしたもこーしたも!」
今にも崩れそうなビデオ・ブロックの避けながら彼女はリルの居るデスクに近づき、ぽん、とバッグをかろうじて空いた場所に置く。
「いなかったわよ、彼――― リタリット君。こっちが決死の思いで行ったというのに」
「いなかった、ですか? 留守ってことはないですか?」
「夜まで待ったわよ。だけど、居なかったわ。同じ建物の中の住人さんに聞いたけど、何か最近帰っていない、って言ってたけど」
「でも引っ越したという訳ではないでしょ?」
「そこまではね。でも元々、住人相互に知り合っているという訳ではないらしいの。だから下の階の店の人に聞いたぶんだけど。結構ちょくちょく遠出はすることがあったらしいんだけどね。同居人と」
「同居人? 俺が行った時には居ませんでしたがね」
「しばらくその同居人も居なかったらしいから、ケンカでもしたのか、と心配していたけどね。心配されるような顔をしていた訳よね、彼」
「まあ、怒りっぽいけど、人懐こいという印象もありましたよ」
「怒りっぽい? それはあたしは知らないわよ」
そう言いながら彼女は、はいおみやげ、とリルに向かってバッグの中から包みを取り出す。律儀な人だなあ、と声にならない声でリルはつぶやく。
「あ、林檎パイ」
「いい感じでしょ。丸ごと林檎が入ってるのよ」
「へえ」
「あたしも食べたいから、ここで食べましょ」
「ここで?」
「文句あるの?」
無いです、とくすっと笑いながらリルはつぶやいた。この年下の青年には、逆らう術はなかったし、逆らう気は更に無かったのだ。
どういう製法なのか、まだ内部でみずみずしい林檎が口の中でぷしゅ、とはじけ、酸味が広がる。その酸味にゾフィーはやや目を細めながら、わざわざ立ち寄って買ってきて良かったわ、とつぶやく。
「それで、行き先は判ったんすか?」
「全く。でも、君の言ったあの街のドクトルとマスターを当たるという手もあるわね。いずれにせよ、彼らは『集団』だとは思うのよ」
「集団。根拠はありますか?」
「彼がヴァーミリオンであるなら、そして記憶が無いというなら、―――送られていた可能性があるのよ」
「何処に?」
「ライよ」
彼女は断言する。
「政治犯だから。水晶街の事件は、大量に政治犯を作り出したでしょ」
「そうでしたね」
「忘れていないとしたら、地下に潜ったと考えられたわ。でも記憶が無いなら、そっちの可能性が高い。ただ、その場合、どうして『ハイランド君』がそうされてしまうのかがなかなか理解できないのだけど」
ゾフィーはそう言いながら、フォークで切った一片を口に運ぶ。だがふとリルを見ると、手をつけた様子は無い。
「どうしたの? 食べないならあたしがもらうわよ?」
「レベカさん―――」
宙をさまよっていた目が、ふと焦点を結んだ。
「俺、結構ずっと考えていたんすが、こうゆうのはどうでしょう?」
「何?」
「ハイランド君が、ハイランド君だってことをIDの段階で隠していたとしたら」
「身分証明書の段階で? けどそれが無かったら、首府で行動することはできないでしょ?」
首府では、IDの携帯が義務づけられている。他の都市と違い、市内に入るためには、そのチェックが必要となる。
無論ゾフィーもリルも、普段からそれは携帯しているものだった。無しでは、首府内にある携帯型以外の端末は利用できないし、そもそもゾフィーの持つような放送用の小型端末といったものは、その個体ナンバーが、届け出されているものである。
「だから、それを別の人間と入れ替わっていたら? 入れ替わりでなくてもいいんすが、要は、別の人間のIDを持っていたら」
「それがどんなメリットがあるというの?」
「ありますよ。少なくとも、ハイランド君は、自分の出身はそう好きなものでは無かったんじゃないすか? ―――って、俺はそう思ったけど。調べた結果としては」
「嫌っていた、ね。でもその反面すごく執着していた様にも思えたけど」
「だから、そのあたりが俺にはちょっと判りにくいんすが」
そこまで言って、リルは言葉を切った。
「一体、レベカさんは、ヴァーミリオンって名乗っていた彼を、どう知っていたんすか?」
彼女は眉をひそめた。彼女にとってそれが知られたくないことであるのは、リルもよく判っていた。だがどうしてもその部分が判らないことには、謎が解きようがないように彼には思えたのだ。
「ものすごく、プライヴェイトなことよ」
「でもレベカさん、俺はここまで関わってしまったんすよ?」
そう言ってリルは彼女に詰め寄る。彼女の林檎パイと、彼女の間に手を置き、半ば腰を浮かせる。
体温の感じられる距離だ、とふと気付いて、彼女は少しばかり鼓動が速くなるのを感じる。だが気を取り直し、自分の感情を押さえ込むかの様に、あえて相手の目を真っ直ぐ見据えた。
「そんなに、知りたいの?」
「知りたいすよ。これはもう純粋に興味っす。嘘はつきませんよ。でも興味は、あなたのことだからすよ?」
「リル君?」
「あなたが好きなんす」
「リル君!」
彼女は思わず叫んでいた。目の前の真剣な瞳に、思わず眩暈がする。覚えがある、こんな瞳。彼女は首を横に振る。
「別に、だからって、俺を好きになってとか、そういうのじゃないすよ。ただ、あなたが知りたいことに、力になっていたいだけなんす。だから知りたい。それだけなんすよ?」
「違うのよ」
彼女は首を横に振る。
「何が違うんすか?」
「君が見ているあたしなんて、結局は取り繕って、これでもかこれでもかとあたしが作り上げたあたしに過ぎないわよ」
「でも作り上げたのは、その元々のあなたでしょ。それもひっくるめて、今のあなたなんでしょ。俺はそのことを言ってるんす」
「じゃあ聞けばいいわ。聞いたら、君はそんなこと言ってられなくなるから」
リルは一瞬息を呑んだ。そして一度浮き上がらせた腰を元に戻した。
「リル君、君、水晶街の騒乱について、どのくらい知ってる?」
「水晶街、すか? 俺はまだその頃は、初等学校卒業したばかりのガキだったから――― ああ、放送はされたから、それは見ましたけど」
「そうよね。報道はされた。だけど、報道は結構上辺だけのことだったりするのよ」
「上辺」
「八年前よ。あたしは実業学校の専科を卒業して、この放送局にアルバイトで入っていたわ。今でもそうだけど、この放送局で女を雇うのは、大学卒業資格が無いと駄目よね。あたしは実業しか出ていないから、とにかく取っかかりが欲しくて、アルバイトって形で入ったのよ」
「そういう意味では、男のほうがまだ緩いすね。俺も実業出身だし」
「でもまあそれは、明日変わるってものじゃないから、そうそう言ってられないわ。とにかくあたしはあたしのできることを、で何とか潜り込んだ、って具合ね。18歳だった。そして兄貴は21歳だったかしら。中央大に一年浪人して入ったのよ」
「一年でも凄いじゃないすか」
「そうよ、凄かったのよ」
ゾフィーは目を伏せる。
「自慢の兄貴だったわよ。頭は良かったし、頼りがいもあったし。比べられはしたけど、しても仕様が無いこと判ったから、あたしはそうそうに中等じゃなく実業へ進んで………… まあそのせいで放送局は回り道したけど。でもそれはどうでもいいわ。逆に中等から大学というコースだったら、入れなかったかもしれないし、局アナ嬢にされていたかもしれないし」
リルは黙ってうなづく。
「兄貴は――― アジンって言ったんだけど、妹のあたしから見ても、よくできたひとだったわ。頭はいいし、だけど勉強バカじゃなかった。だから何って言うんだろ。知識じゃなくて、智恵のある人。そういうのだったのよ。で、天は二物を与えずって言うけど、彼に関しては、絶対与えたわね。そこまで徹底されると、妹ももうひがむ暇すら無いわ。かんっぜんに『違うもの』だったもの」
「じゃあ、レベカさん、お兄さんのことすごく好きだったんすね」
「ううん」
即座に彼女は首を横に振る。リルはその彼女の反応に首を傾げた。
「違うんすか?」
「尊敬はしてたわ。でも嫌いだった」
「そうなんすか?」
「比べられもしないわよ。そんな奴、自分のきょうだいなんて思える? 失敗って文字を何処に置き忘れたか、って思ったわよ。だから比べられもしないけど、向こうをちやほやするのは当たり前じゃない。親も、親戚も―――」
「で、そのお兄さんは」
「死んだわ」
リルは息を呑む。
「水晶街の騒乱の中で、死んだのよ」
「それは、巻き込まれて」
「思ってもないこと、言うんじゃないわよ。あそこで死んだのは、参加した連中だったでしょ?」
「……はい」
彼はうなづく。当時中等学校の予科に入ったばかりの少年でも、そのくらいの情報は入ってきていた。いや、そんな知りたい盛りの少年だったから、知ったのかもしれない。
「結構な数の学生が検挙されたり、射殺されたりしたんでしたよね」
「そうよ。兄貴もその一人。でもねリル君、それはかなり無茶苦茶なことだと思わない?」
「と言うと?」
「普通は、そう、そのちょっと前に起こった、ベグランの騒乱事件がいい例かな。だいたい情報ってのは、当局に漏れるものよ」
「そういうものですか?」
「テルミン宣伝相と付き合うようになってから、確信したわよ。市民の間の情報なんてのは、かなり詳しく漏れる様になってるわ。あたしは当時、何でなのか、疑問だったけど」
「情報が、漏れていたと」
ゾフィーは手を振る。
「ちょっと待って、順序立てて話させて。そうでないとあたしが混乱するわ」
はい、と彼はうなづき、目の前の林檎パイをようやく口に入れた。口の中でしゃり、という音が響く。
「兄貴の話だったわね」
「はい」
「そう。兄貴はそれで一年浪人して中央大に入って、三年の時だったわ。騒乱は。だけど、彼は大学に入ってから、行動が変わった、とあたしは思ってる」
「入った時から?」
「その入ってしばらくしたあたりで、彼はヴァーミリオンと知り合ってるのよ」
「それは、ハイランド君が消息を経ったあたりですかね?」
「いいえ、もう少し後よ。そう、入ってしばらく、というか、一年の終わりだったかしら。まだあたしも実業の専科に居た頃だわ」
「なるほど」
「と言っても、表向きは、何も変わった訳じゃない。ただ、それまで仲が良かった、中等からの友達が来なくなり、その代わりに見たことが無い連中が、よく彼の部屋に溜まる様になったのよ。彼自身の外泊も増えていったわ」
「でもまあそれは年頃の男子学生としては」
「そう。だから別に大したこととは思わなかったのよ。うちも特別子供の行動に干渉することは無かったし。彼の部屋はあたしと違って広かったし」
「そうなんですか?」
「そういう所に差がつくから嫌よね」
全く、とリルは肩をすくめる。
「その中の一人に、ヴァーミリオンが居たのよ。何かあたしは初めっから気にくわなかった」
「何でですか?」
「何っかいつも、あたしに対して、うすら笑いを浮かべている様に見えたのよ。だいたいその名前が気にくわなかったわ。ヴァーミリオン、朱色、なんて、あだ名に決まってるじゃない。なのにそれ以上名乗ろうともしなかったし」
「つまり得体の知れないひとだったと」
「まあそういうことね。そう、その得体の知れない奴が、好きじゃあないけど、一応尊敬していた兄貴と仲がいいと言ったら、何か嫌な感じがするじゃない」
「するんですか?」
「あたしには、したのよ。あたしが嫌な感じのする奴を好んで近づけてる、ってことが何となく嫌だったわ」
「それじゃやっぱりレベカさん、お兄さんのこと好きだったんじゃないですか?」
「かもしれない。そうよね、あたしも知らない部分でそうだったかもしれないわ。でも結局は判らないわよ。もう彼は居ないんだから。今生きていて、果たして仲良くなれるか、って言ったら怪しいわよ。彼とあたしは価値観が合わないんだから」
「で、そのヴァーミリオン君は、具体的にどう気にくわなかったんですか? その嫌な感じ、以外には」
「そうね」
彼女は首を傾げる。
「彼が兄貴の恋人だった、ってことかしら」
リルはう、と言葉に詰まった。