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20.-⑤


 ブザーの音が聞こえたので、ケンネルは目を覚ました。時計を見ると、夜明け近かったが、さすがにまだ起きるには早い時間だった。

 誰だこんな非常識な時間に、と思いながらも、ケンネルはパジャマの上にガウンを羽織り、階下へ降りていく。この時期、夜明け前のこの時間のこの広い家は、ひどく冷え込む。もっとも、この科学技術庁長官自身、この首府に帰還した時には、なかなか非常識な時間に友人の居場所を訪問したのだが。

 だが扉の窓から相手の姿を確認して、ケンネルはひどく驚いた。静かな、朝もやを背に、そこには私服を身に付けた友人の姿があった。

 慌てて扉を開ける。間違いなく、友人の姿がそこにはあった。


「……どうしたんだよ……お前こんな時間に……」

「お早う。入っても、いいかな?」


 ひどく力の無い声で、テルミンは友人に問いかけた。何って顔をしているのだろう、と彼は思う。何でそんなに、驚いているのだろう?


「……早く入ってくれよ…… ここでは寒いだろうし……」


 うん、とうなづくと、テルミンは大きく開けられた扉をくぐる。だが彼が入る時に、背後の車にちら、と視線を投げるのをケンネルは見逃さなかった。こんな車にケンネルは見覚えが無かった。


「ずいぶん殺風景な家だな……」

「別に、俺一人と、研究物を置くばかりの家だからね…… とにかくそこに座らない? お前、ずいぶんひどい顔色してるよ」

「あ? ……ああ、そんなに、ひどいか?」


 テルミンは自分の頬をつ、と指でたどる。確かに、妙に肌がざらついている様な気がする。あれから、眠っていない。


「待ってろ。暖かいものでも煎れるから」


 朝の光は窓から差し込みつつある。その光の透明さと強さに、彼はふと目の裏に痛みを感じる。肩と首に虚脱感が溜まっている。自分の身体がスポンジになってしまったかのようだった。水を含んだ、そんなものの様な気がしていた。


「こんなものしか無いがな」

「科学技術庁長官が、ハウスキーパーの一人も雇わない?」


 ほこりよけのカバーがされたままのソファの一つに座り込むと、渡される大きなカップを受け取りながら、テルミンは訊ねる。


「必要は無いからね」

「そんなこと言ってると、この屋敷が廃墟になるよ」

「ああ、お屋敷だったのね」


 らしいね、とつぶやくと、テルミンは受け取ったカップの中身を確かめる。ミルクを半分以上いれた紅茶であることは、その色が証明していた。口をつけると、少し強いくらいの甘味が広がった。

 いつも、じゃない。こういうものを口にすることは滅多にない。だが、どうして、それがひどく口に優しく感じてしまうのだろう。

 この友人は、いつもそうだった。

 半分くらい飲み干すと、彼はカップを低いテーブルの上に置いた。


「頼みがあるんだ」

「うん」


 そんなことだと思った、とケンネルは静かにつぶやく。


「お前がそういう顔してくる時には、いつだってそうだったよな」

「そう。……そして、先輩にしか、どうしようも無いことになってしまった時」


 そうだった。いつも、自分はこの先輩に対して、そんな事態の後始末をつけてもらっている様なものだった。

 科学技術庁長官の地位は、確かに持ち駒に主要な役所を頼みたい、というのもあったが、そんな普段から世話になっている友人に対しての、せめてもの恩返しの意味もあった。

 だが結局は、その地位そのものにまた、自分は頼ってしまうのだ。


「ごめん。先輩。どうして、俺はいつも……」

「いいよテルミン、俺は別に。いつだって、俺はそれでどうだった、ということは無い」

「うん。先輩はいつもそうだった」


 そして自分が努力しても得られないものを、ただそうやって存在するだけで、あっさりと手に入れて。そんな友人のスタンスに彼は嫉妬しなかった訳ではない。

 どうにもならない資質というものがあるのだ。ヘラが何もしなくとも人々の視線を集めてしまう様な容姿を持っていたように、この先輩にもまた。

 だが今はそんなことにこだわっている場合ではなかった。


「お前、あんな車持ってたか?」


 テルミンは首を横に振る。


「だよな。あんな小さな四角い車、最近のお前が乗ってるの、見たことが無い。あれは昔お前が好きだった奴じゃないの? おまけに私服だ」


 全くもってその通りだった。

 テルミンは宣伝相という地位についてからも、ずっとあの紺色の軍服を普段から身に付けていた。確かにそれは他のどんな服よりも彼に似合っていたし、宣伝相というそれまでに無かった、そして総統のそばに居る新しい地位を印象づけるには良い小道具でもあったのだ。

 車もまた同様だった。特にそれが好きという訳ではないが、「宣伝相」という役割にふさわしい、大きな派手な車に彼は運転手付きで乗る様になっていた。それもまた、小道具だったのだ。

 だが今ここへやって来る時に乗ってきたのは、そんな人目につかせる様な車ではない。昔、士官学校を卒業して、生活するだけより少し多めの給料をもらう様になった時に、遠出を楽しむために買った、そんな小さな車だった。


「……で、何なんだ?」

「先輩に、託したいものがあるんだ」


 そう言うと、テルミンは立ち上がった。


 車をガレージに入れ、扉を閉める。そしておもむろにテルミンは、後ろのトランクの扉を開けた。


「……!」


 ケンネルは息を呑む。

「手を貸して。大丈夫、死んではいない」

「死んではいないって、お前……」


 既にテルミンは、その中身を一つ、ずるずると引き出していた。だらりと垂れ下がるむき出しの両の腕。閉じたまぶたにも、影は深くつく。


 彼らの総統閣下がそこには居た。


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