「……死んではいない、って…… テルミン!」
「頼むからひとまず手を貸して。いくら薬が効いているからって、こんな寒いところに放り出していい訳が無い」
「当たり前だ!」
ケンネルは慌てて、もう一人をも、そのトランクから引きずり出す。だがそちらには見覚えは無かった。黒い髪、黒い服の、見覚えの無い男。
まさか、とケンネルはつぶやく。
「テルミン、まさか、こいつは」
「先輩は、知っていた? 知っていたよね。ヘラさんに聞いて。彼のずっと待っていた相棒のことを」
「……」
ケンネルは目を見開いた。
「そうか、こいつが……」
力を無くした二つの身体を、ソファの上に横たえると、それを見下ろす形で、二人はその脇に立つ。
「だけど何で、ここに居るんだ?」
「俺が撃った」
「テルミン!」
「官邸に侵入者があった。……明らかにあれは、『総統閣下』を暗殺するための集団だった。陽動するための連中は、ヘラさんが主に片付けた。このひとは結局俺なんかよりずっと強い。そして容赦が無い。……だけど、本当、そいつらはあくまで陽動で…… こいつが、本命だったらしい」
そう言ってテルミンは、ちら、と横たわる黒髪の男を見る。
「だけどそれがどうして、ヘラさんの相棒だって、気付いた? お前」
「抱きしめてた」
ぽつん、とテルミンは言う。ケンネルもまた、息を呑む。
「明らかに、何度か銃を撃ち合った跡があるのに、俺が行った時、あの官邸の、隠し通路の一角で、ヘラさんはこの男を抱きしめてた。くちづけてた。……泣いてた」
「泣いて」
「それだけで、判るってものじゃないか?」
確かに、とケンネルもうなづく。そんな、あの人物が涙を流す様な相手というなら。
自分自身と引き替えにしても、生かしておきたかった相手ならば。
「それで、テルミン、お前はどうしたいんだ?」
ケンネルは乾いた声で訊ねる。
「逃がしてやりたい。何処とも知れない場所へ」
「無茶だ」
「無茶は判ってる。時期だってまずい。だが、あまりにも、この男は危険だ」
「だったらとっととお前の権限で、ヘラさんの気が付かないうちに逮捕して消してしまえばいい」
ぞく、とテルミンは背筋が悲鳴を上げるのが判る。
「先輩」
「俺だったら、そうするかもしれないよ」
テルミンは黙って首を振った。だろうな、とケンネルはつぶやき、肩をすくめる。
「お前は、そういう奴だよ、テルミン。政治家は似合わん」
「俺だって、そう思うよ。ただ、このひとが……」
このひとを、あの場所から引きずりだすことができるなら、自分は何でもできたのだ。良心の呵責も、全て飲み込んで、似合わない役割を演じることができた。
このひとのためなら。
「でも、俺は、見間違えてた。結局このひとの望みは、そんなところにあったんじゃない。このひとはただ、相棒が生きていて欲しかったから、あの場所を選んだだけだったんだ」
握りしめた両手の上に、伏せた顔から、ぼとり、と水滴が落ちる。
「だったら、俺ができるのは、こんなことしか無いじゃないか」
ケンネルは何も言わずに、起き抜けの乱れた髪をかき上げた。そして後輩が、濡れた拳で自分の顔をぬぐうのをじっと見る。ふっとその足は、彼を置いて、階段を上がる。しばらくして降りてきたその手には、煙草と灰皿が握られていた。
一本を口にくわえながら、ケンネルは後輩が落ち着くのを待つ。火をつける。一息吸う。だが煙が眠っているヘラの方へは行かないように、明後日の方を向いている。
その煙草が半分を過ぎたあたりで、ようやくテルミンは揺れる口調で口を開いた。
「ごめん。泣くつもりはなかった」
「気にするなよ」
ケンネルは煙草を灰皿に押し付けた。そして後輩のすぐ前にまで近づく。
「テルミン」
そして後輩の名を呼ぶ。それはそれまでの長いつきあいの中で、初めて聞く、重々しい口調だった。そのやや高めの声には不釣り合いな程の口調だった。
「全ての後始末をするつもりがあるんだな?」
「もちろんだ」
テルミンは即答した。その胸に、微かな、甘い痛みが走る。
「それでも、お前は、このひとを逃がしてやりたいんだな?」
「ああ」
「俺はもしかして、この男を、途中で放り出して、ヘラさんをさらって逃げるかもしれないよ。それでも?」
「それでも。先輩はそんなことはしないでしょ?」
「どうかな?」
ケンネルは苦笑する。
「たとえそうだったとしても、俺には、先輩しか、頼れるひとは居ないんだ。今は、もう」
あの派遣員の姿が頭をよぎる。だがスノウはこの地にはいない。遠い帝都の空の下のはずだ。戻ってくる、と約束した。だけど自分は。
あの腕の中は、とても暖かかったと思うのに。
「それに、先輩でないと、頼めない理由があるんだ」
「何?」
「あれを、動かしてほしいんだ」
「あれ?」
「依頼したもの。出来てはいるはず」
ケンネルは眉をひそめた。
「出来ているのでしょう? 彼のダミーは」
「できてはいる。だけど、駄目だ」
「何で。こういう時のための、ダミーでしょう?」
首を横に振る。ケンネルは壁に背をもたれさせた。
「確かに、姿形は、充分だ」
「と言うと?」
「いつの時代のクローン研究もそうだったんだが、人間はメカニクルとは違う。脳はそう簡単なものじゃない。身体は育成できたとしても、脳はそうもいかない。本当だったら、そんな短期間での育成は、同じ姿になることは無いんだ。同じ遺伝子だったとしても、成長過程における外的要素が異なれば、出来上がる姿形は違う。まあうちの研究所の場合は、彼の姿を作ることを目的にしているから、姿は、何とかできる様にした。だが、その中に知性はない」
「いい。要らない」
テルミンは即座に言い切った。
「むしろ無い方がいい」
「だけどそれで、彼を総統の座から下ろすまでの期間、保つのか?」
「半月保てばいい」
「半月」
あ、とケンネルは思わず声を立てた。
「スタジアムの新年祝賀祭まで保てばいい。それまでで充分だ」
「テルミン、お前……」
「後始末は、つける。それが、俺が彼に見てきた夢の代償だ。……つけが回ってきたんだよ。俺は、それを払わなくちゃならない。俺が陥れてきた政治家達にも、俺達が殺したあのゲオルギイ首相にも」
「は、自己満足だね」
腕を組み、ケンネルはもう一本と煙草に火を点ける。
「そうだよ、それは判ってるさ」
自嘲気味に彼は笑う。
「それに先輩、いつから煙草を吸い出した?」
ケンネルの手が止まる。
「聞いたよ、ヘラさんから」
「パンコンガン鉱石のことか?」
「ああ。確かにあんなものだったら、先輩が吸わなかった煙草を吸う様になっても仕方が無いね」
「エネルギー源にはならないさ。俺達の手に負えるものじゃない」
そしてふう、と煙を吐き出す。
「だから、そっちの研究には気を入れなかったんでしょう?」
「判っていた?」
「長いつきあいだから」
くす、とテルミンは笑う。
その笑顔に日射しが降り注ぐ。ケンネルは目を細めてそれを見る。既に陽の光が、高い窓から入り込んでくる時間になっていた。
「そろそろ俺、行かなくちゃ。先輩、必要なものを俺が仕事につく時間までに考えて。俺はそれを宣伝相名義で急いで操作しなくちゃならない」
「判った。それから後で、ダミーを連れて行くから、目立たない場所を指定してくれ」
テルミンはうなづいた。
そしてちら、とソファに横たわったままのヘラに視線を投げると、そのままくるりと背を向けた。
ケンネルはしばらくその場から動かなかった。