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「……総統閣下は具合がお悪い。静かにお休みさせなくてはならない」
彼が戻ってすぐに警備の兵士達に命じたのは、このことだった。
昨夜の侵入者がとうとう見つからなかったことで、官邸の兵士達も疲れていた。そしてテルミン自身の姿にも、ひどい疲れが見えた。部下達は命令に従順なものだが、その時のこのテルミンの姿は、総統ヘラが「具合が悪い」という言葉に説得力をもたせた。
「それではお医者様を」
「いやそれには及ばない。過労の様なものだから、とにかく眠りたいと言われている。だから君達もできるだけその様に、騒がしくならない様にしてくれ」
兵士達は判りました、とうなづく。実際彼らも疲れていたので、交代で休息に入る必要があったのだ。
だがテルミンには休む間は無かった。するべきことは山ほどあったのだ。
朝一番に、ケンネル科学技術庁長官から、惑星ライへの研究派遣要請があった。
自分のよく知る先輩の姿からは想像ができない程、詳細な計画と、必要な備品のリストがそこには記されていた。まるでそれは、何週間も前から計画されていたかの様に。テルミンはそれに総統命令で即座に受理させた。必要なものは、これで短期間で手に入るはずだ。
彼は自分の権限は、最大限に利用するつもりだった。意識する必要もない。そうしなくては、いけないのだ。
ライまで二人を運んで、その後は? 想像ができない。だが、ケンネルのことだから、何かしらの考えがあるのだろう。それより先は、既に自分の考えるべきことではなかった。彼は、あの二人を自分の最も信頼できる友人に託したのだ。既に自分ができることは、無いのだ。
次にすることは、一つの要請だった。彼は回線を、遠い南のフラーベンへとつないだ。そこには、彼のよく知る将官が居るはずだった。
『……やあテルミン! ……おっと、今は宣伝相閣下か』
明るい声が、たちどころに返ってくる。
「呼び捨てでいいですよ、アンハルト少将。お久しぶりです」
『本当に久しぶりだなあ…… 懐かしいよ。君、元気かい?』
「変わりませんね、少将。またドアノブを壊したりしてませんか?」
『いやあ、僕は少しばかり変わったよ』
「え?」
すると向こう側から、含み笑いが聞こえてくる。
『以前より多少脂肪がついたよ。こっちはいい気候で、食事が美味しい。テンペウ中尉が、意外にそういうところをよく心得ていてね』
「なるほど」
テルミンはくす、と笑った。彼付きだったテンペウ少尉は、階級を一つ上げて、アンハルト少将について南へと行ったはずだった。あの割合に地味な女性士官にそういう部分があったとは、彼も知らなかった。
『君も一度こっちへ来るといい。果物が美味しいよ』
「それが、そういう訳にもいかなくて」
『忙しいんだな。まあ当然か』
「いえ、それだけでなく、実は、少将に、首府に戻ってきてもらいたいのです」
『おいおい冗談はよしてくれよ』
笑い声が後に続く。本当に冗談だと思っている様である。だが、テルミンはそれに構っている余裕は無かった。
「いえ、アンハルト少将、本気です。これはまだこれから命令を出す段階ですが、おそらく今日中に、そちらへ転属命令が届くでしょう。首府警備隊に、今年中に戻ってきてもらいたいのです」
『今年中に?』
回線の向こうの声が、真面目なものに変わる。
『本気か?』
「本気です。とにかく身一つで充分です。できるだけ早く、こちらへいらして欲しいのです」
『それは、新年のスタジアムの祝賀祭と関係があるのかな?』
「ええ。その時にテロが急に多くなる可能性は高い」
少しの間が、回線ごしに二人を隔てる。だが、この優秀な将官は、かつての部下に無駄なことは聞かなかった。
『判った。今日辞令をもらったらすぐに起てる様に用意する。でもできることなら、僕の寝場所は作っておいてほしいな』
テルミンは再びくす、と笑う。本当にこのひとは、相変わらずだ。どんな場所でも、きっとこの人は楽しんで、任務を遂行していたのだろう。
「わかりました。……アンハルト少将」
『なんだい?』
「ありがとうございます」
『やだなあ、改めて言われると、気恥ずかしいよ』
*
「一体どうしたの? ここに呼び出すなんて、珍しい」
「うん」
夜の中央図書館の書庫は、ひどく静まり返っていた。運動靴ですら、足音がずいぶんと大きく耳に届く。
テルミンは「休憩所」の椅子に座り、ゾフィーを待っていた。彼女の声に、うつむいていた顔を上げる。
「忙しかった? 急にごめん。だけどどうしても、君に会っておかなくてはならないことがあって」
「あたしはいいけど……」
ゾフィーは首をかしげる。
「どうしたの? テルミン、あなた何か元気ないわよ」
「君は今日も元気だね」
「あたしの話をしてるんじゃないわよ。何か、すごく顔色悪いし、何かやつれてるわよ」
「忙しいんだ」
「忙しいのは判るわよ。総統閣下が、過労で倒れたんですって? それであなたまで過労になってどうするって言うのよ」
「うん」
彼は力無く笑う。
「ねえ、心配してるのよ?」
「うん、判ってる。ちょっと、黙って」
そう言ってテルミンは、彼女の手を握った。彼女は少しばかり困った様に眼を瞬かせたが、彼の前にしゃがみ込むと、その顔をのぞき込んだ。
「何かあったの? テルミン」
「まあね。でもそれで俺が嘆いている暇は無いから。ゾフィー、君、スタジアムの後の予定は決まっている?」
「いいえ? 一週間ほど、新年の休暇は取れるから、そのついでに、ちょっと南の方にでも出向いて、次のドキュメンタリーのネタでも仕込んでこようかなと思うんだけど」
「星系の外に出る気はない?」
「星系の外に?」
「そう。どうかな」
「駄目よ」
彼女は手をひらひらと振る。
「できるだけ何かあったらすぐに駆けつけられる様な位置に居たいの。それには、星系外だとちょっとまずいわ」
「そこをどうしても、駄目かな」
「あなた一体何を言いたいの?」
彼女は眉を寄せる。
「あたしがスタジアム以降、この星系に居ちゃいけないみたいな言い方じゃないの」
「そうかな? うん、そう言っているのかもしれない」
「テルミン!」
彼はポケットから、一つのカードを出し、それを彼女に手渡す。そこには彼女の写真は貼ってあったが、名義は異なっていた。
「何よこれ」
「何かが起こるかもしれない。だからその時には、このIDでもって、君は逃げて欲しいんだ。この星系の外へ」
「どういう意味? テルミン」
「別に必要が無かったら、使わなくてもいい。だけどもし、何かあったら」
「だからその何かって、何なのよ?」
テルミンは顔を上げた。そして首を横に振った。
「言えないこと? あたしにも」
彼は黙ってうなづく。
「もっと、君の力にもなってあげたかったけど」
「テルミン? 何を言ってるのよ? ねえ、一体何があったの? 何かが起こるっていうの?」
彼はそれには答えなかった。ただ、掴んだままの手を外すと、彼女の首に回した。
ゾフィーは思わず身体を固くする。だが、その抱擁が、あくまで抱擁に留まっているのに気付くと、彼女はゆっくりと手を彼の背に回した。
彼女を抱きしめている男は、声を立てずに泣いているのだ。そんな引きつった様な呼吸が、合わせた身体から伝わってくる。
「ごめんゾフィー……」
絞り出す様な声で、テルミンはつぶやいた。
「そんなこと言わないでよ」
「君を一番に好きになれていたら、良かったのに」
「駄目よ」
彼女は短く、断言する。
「あたし達は、友達だわ。どうしたって、それ以上にはなれないのよ。いつ出会ってたって、他の誰かが出て来なくとも、それは変わらないのよ」
「そうだね」
本気でそう思っている訳ではないのは、二人ともよく判っていた。どうしようもなく、友達にしかなれない人間というのは居るのだ。どうしようもなく、友達以外の感情をもたざるを得ない相手が存在するように。
「何が起こるのか、あたしには判らないけど、テルミン、無茶しないでよ」
「できれば、そうしたいね」
「あたしはまた、あなたとごはんを食べたいのよ。ゆっくり。その時には、うちの面白い若手を連れてくわ。楽しい子よ。あなたもきっと気に入るわよ」
「俺もできれば、俺の一番好きなひとを紹介したかったよ」
「過去形で言わないでよ」
「ごめん」
「あやまらないでよ」
「ごめん」
「……」
どのくらいそうしていただろう。先に離れたのは、ゾフィーの方だった。ゆっくりとテルミンの身体を押し放すと、一度目を伏せた。そして思い切った様にぱっとそれを開くと、彼女は言った。
「いいわねテルミン、いつか必ず、あなたはあたしとまたごはんを食べるのよ」
「ゾフィー……」
「いいわね!」
彼女はそれだけを叫ぶ様に言うと、彼の身体を突き飛ばす様にして、離れた。そして立ち上がると、ぱたぱたと靴音を響かせて、書庫の中を走って行った。
「本当に」
テルミンは、椅子の背に腕を広げてもたれると、つぶやいた。
「本当に、彼女をそう思えたら、良かったのに……」
もし彼女と、あの時友達ではなく、それ以上の気持ちになっていたなら。あれはまだ、あの派遣員と、そんな風に通じる前だった。そういう選択もあったはずだった。
だけどそれは、仮定に過ぎない。そうできる選択肢はあったはずなのに、自分は、彼女ではなく、スノウを選んだのだ。その状況がどういうものであったにせよ。
ふう、と大きく息をつくと、彼は反動をつけて姿勢を起こした。まだしなくてはならないことがある。だけど時間は無い。急がなくては。
時間が、無いのだ。